284-3 みかん色の幸福(後編)
「まだ、上半分しか……」
「本当に下も洗ってくれるんですか?」
ゆかりさんのペースに合わせていたら二人してのぼせてしまいそうだ。もう、とても待てない。
「ちゃんと洗います! ほら立って!」
「ホォー……」
もはや意地になっていそうだが、言われたとおり立ち上がると、ゆかりさんはしゃがんだまま僕を見上げて数秒固まった後、おろおろと目を彷徨わせた。何だか、いたいけな少女を虐めているような背徳感がある。
「今更恥ずかしがられるのも可愛いですが……僕の裸ぐらい見慣れてるでしょ」
「そう簡単には慣れませんよぉ。それに明るいところで見るのは初めてです! やっぱり大きいなと」
「こら」
誰と比較してるんだと腹が立って彼女を立ち上がらせると、ゆかりさんは大慌てで言い訳をした。
「大きいって体全体のことですから!」
「ちょっと無理があるのでは……」
「本当です! というか和樹さんのほかはお父さんとお兄ちゃんしか見たことないし! それも子供のときの話だし!」
突然家族の名前が出てきたことに僕はまた吹き出してしまう。ゆかりさんのお父さんどころかゆかりさんのお兄さんともすでに面識があるので、ますます可笑しい。
「本当に君って人は……」
「何で笑うの?」
ムラムラしていたはずの気持ちが一瞬で霧散してしまい、なんともいえず和んでしまう。
「あとは自分でやります。ゆかりさんは座って」
不満そうにしつつも限界を感じていたのか、ゆかりさんは大人しく従った。僕は手早く自分で下半身を洗ってしまうと、タオルをいったん湯で綺麗にする。まあ、ゆかりさんにはいずれリベンジしてもらおうと考えながら、またタオルを泡立てた。
手桶で汲んだお湯をゆかりさんにかけると、少しぼんやりしていることに気づいた。
「大丈夫? のぼせちゃった?」
「んん、ちょっと眠くなってきました」
やはり酔いが残っていたようだ。風呂から出たら熟睡してしまうかもな。それは非常に困る。けれど、眠ってしまえば手は出せない。その寝顔に癒されて、何だかんだ僕も眠れてしまうかもしれない。
まぁでも今夜は抱きたいな。明日の朝も抱きたい。会えば必ず、会えない時も、愛する人とつながりたいと思うのは自然なことだ。男ほど欲求が強くないにせよ、ゆかりさんだってそうじゃないのだろうか。
黙々と彼女の白い背中を泡立てて、腕をとり、指先まで丁寧に洗っていく。眠たげなゆかりさんはされるがままだ。彼女の色白の手と僕の手が絡むたび、彼女が酔っぱらうたび思い出すことがある。
「ゆかりさん、昔……商店街の皆さんと宴会したことがあったでしょう。お寿司屋さんの二階の座敷で……」
「ああ、和樹さんが喫茶いしかわでお手伝いを始めてくれて、わりとすぐの頃のことですよね。和樹さんが飲み会に参加してくれるチャンスは少なかったから嬉しかったなぁ」
過去のことをにこにこしながら嬉しそうに思い出し語っている彼女はとても可愛らしい。そのまま話を続けた。
「ええ。あの時もゆかりさん、僕の隣で結構酔っぱらってたね」
「きっと楽しかったんです。でも、記憶をなくすほどは飲んでませんでしたよ?」
「記憶をなくすほど飲んだこと、あるんですか?」
「あ……」
僕が睨むと、ゆかりさんはしまったという顔をする。これは後で事情聴取だな。
「本当に、気を付けてくださいね」
「うん、気を付けてますよ」
「僕のいない飲み会は……特に男性がいるような飲み会はなるべく避けてください」
「えへへ……和樹さん、先月町内会の飲み会に顔出してくれて嬉しかったです。みんなも喜んでた」
「ゆかりさんが行きたそうだったから」
「かずきさんは本当に心配性ですねぇ。私そんなに危なっかしいかな」
「危なっかしいですよ」
力強く言うとゆかりさんはムッとする。ムッとされようが、事実なのだからしょうがない。
「その、寿司屋の二階の飲み会の時、あなたがしたことを僕は忘れられません」
「えっ? 私なにかした?」
記憶にございません、という顔をしているので、やっぱり彼女は大分酔っていたのだなと思う。
「ゆかりさん僕と話しながら、ずっと座布団の房を弄っていたでしょう」
「座布団? そんなことしてましたっけ」
酔うと手持ち無沙汰になって、割りばしの袋だとか、おしぼりだとかを触って遊ぶ癖が、彼女にはあった。そんな子どもっぽいところも可愛らしく見えるのは惚れた弱みに違いない。ゆかりさん以外が――たとえば長田が紙ナプキンをおもちゃにしていたら、叱るか睨むかするだろう。
「いじってたんですよ。いつもみたいに。座布団のひもを三つ編みにしたりして」
「それは……子どもみたいなことをしましたね……恥ずかしいなぁ」
「問題はそのあとです」
「まだ何かやってしまいました……?」
座布団の房をいじるぐらいのこと、些細なことだ。
「ゆかりさんはおそらく、座布団の房を弄るのと同じ感覚でこんなふうに僕の手を取って……」
「え!?」
「僕の指をずっと触って弄んだんです。にこにこ楽しそうにお話ししながらね」
「そんな!」
ゆかりさんは顔を真っ赤にした。二年近く前にされたことをやっと打ち明けることができて、僕の胸はいくらかすっとした。
「いたいけな男の純情をもてあそんで、ゆかりさんは楽しそうに酔っぱらっていました」
「止めてくださいよ!」
「ああ座布団と勘違いしてるんだなこの子、と思ったら面白くて。ついそのままに」
「全然弄ばれてないじゃないですか!」
弄ばれていたさ。好きな女、それも手を出すことのできないと思っていた子に、指をずっと握られていたんだぞ。
「あの頃の僕は我慢をすることが常態だったので耐えられましたが。僕以外の男にあんなことをするかもしれないと思うと、僕は耐えられない」
「そんな、しませんよ! 和樹さんだから触ったんだと思います」
「どうかな……」
「その時のことは覚えてないけど、でも、私あの時だってあなたのことが大好きだったんですから……!」
そう言ったゆかりさんを、僕は穴が開くほど見つめた。
「それ、本当ですか?」
「ほ、本当です……」
待ってくれ。じゃあ君はいつから……。両思いになったのは再会してから、というか告白してからだとばかり思っていた。自覚して、思い返せば……ということだろうか。
「もう、のぼせちゃうからはやく出ましょう!」
思いがけない告白にぼうっとしている僕からタオルを奪うと、ゆかりさんは自分で体を洗い始めた。
「そうですね、はやく上がりましょう。詳しいことをこのあと聞かせてもらわないと」
「もう昔のことはいいじゃないですか! お風呂から出たらアイスですからね」
「まだ言うか」
湯気に満ちた浴室は幸福な笑い声に溢れている。
ということで。いい風呂の日大遅刻企画でした!(笑)
このあとは、ゆかりさんのおねだりが勝利してアイス半分こです。
和樹さんはゆかりさんの髪を乾かしながら、手がふさがってるんであーんで食べさせてくださいとリクエストするところまでが様式美。




