284-2 みかん色の幸福(中編)
和樹さんの手が好きだ。乳白色の湯を張ったバスタブの中で、背中を彼に包まれながら、前に回された大きな手を両手で持ち上げてじっくり眺めた。血管の浮き出ている浅黒い手は、ごつごつと骨ばっていて男性的な力強さを感じる。それでいて、爪の形まで整っていて美しい。
「ゆかりさんこそ手フェチ、なんですか?」
その単語の軽薄な響きが和樹さんには妙に馴染まなくて、つい笑ってしまった。こういう関係になる前ならそうは思わなかったかもしれない。
「ううん、和樹さんの手だから好きなんですよ」
振り向くと、彼は仏頂面をほんのり赤くしていた。可愛いな。年上の男の人に対する感想としては失礼かもしれないけど。そんなふうに照れられるとこちらが面映ゆくなる。さっき彼だって私に、同じようなことを言ったくせに。
手だけじゃない。私は和樹さんを形づくるすべてが好きだ。甘く響くテノールボイスも、湯気に濡れて鈍く光る髪も、私を見つめる時の温かいまなざしも。
和樹さんは無言で私の事を引き寄せると、優しく抱きしめてくれた。耳に口づけられて体が震える。素肌と素肌が触れ合う心地よさにうっとり目を瞑っていると、お湯の音がなんだか遠く聞こえる。アルコールがまだ抜けてないからだ。彼の手が腰と背中を優しく撫でてくれるのを感じながら、その胸に耳を預けると、速いリズムの鼓動が聞こえてきた。
「ゆかり……ここでしてもいい?」
呼び捨てをされるのはこういうときだけだ。だから、名前を呼ばれるだけで私はスイッチを入れられたみたいに先を想像してしまう。顔をあげると和樹さんは熱っぽい瞳で私を見つめていた。返事を待っている生真面目さが、今は何だか憎らしい。つい天邪鬼な受け答えをしてしまう。
「まだちゃんと体洗ってないからダメ、です……」
「洗ったらいいの?」
私の髪に指をさしいれ、和樹さんは甘えたような声で言う。透きとおるような瞳に見つめられると何も言えなくなる。
「僕が洗ってあげますね」
「えっ?」
「いやですか?」
「いやっていうか……」
恥ずかしい、と続けようとした言葉は小さな悲鳴に変わる。和樹さんが私を抱えたまま立ち上がったのだ。ざばんとお湯が流れる音がする。私は彼の首に腕をまわした。
和樹さんは私を抱えたまま軽々と浴槽を跨ぎ、椅子に腰を下ろした。膝に乗せられたまま、うろたえていると、彼は楽しそうな声で言った。
「ゆかりさんを洗ってあげるの、夢だったんです」
「夢……? こんなことが?」
びっくりして振り向くと、彼は不満げな顔をした。
「こんなことって……ゆかりさんは『こんなこと』の経験おありなんですか?」
「――ないですよっ! あるわけないの知ってるでしょう?」
わかっていて聞くのだから質が悪い。頬を膨らませるとすぐに指で潰された。ぷしゅ、と空気が漏れる間抜けな音がする。和樹さんは悪戯っぽく笑った。少年みたいな笑顔に毒気を抜かれて、私の怒りはすぐに霧散してしまう。
「和樹さんって本当にアラサーなの?」
「年齢は嘘ついていませんよ」
「本当かなあ」
器用に私を抱えたまま、和樹さんが片手でシャワーに手を伸ばす。
「あ、待って」
「ん?」
「その……私から洗わせてください」
「ゆかりさんが僕を洗ってくれるの?」
あ、嬉しそう。恥ずかしさよりも、喜んでくれるなら嬉しいな、という気持ちの方が大きくなった。
「嬉しいですけど、僕は後で良いですよ?」
そう言いながらむに、と柔らかい場所を掴まれて、私は悲鳴をあげた。
「こういうことするからです!」
「ああ、なるほど。……先に洗われると体力がもたないからか。さすがゆかりさん、名推理です」
くすくす笑う和樹さんを、私は半眼で睨んだ。いつも余裕綽々な彼に振り回されてばかりだ。私だってたまには彼を乱してみたい、なんて、大それた考えだろうか。
しっとり濡れた彼の髪は柔らかくて少し猫っ毛だ。十本の指の腹で優しく頭皮をマッサージしてあげると、和樹さんはため息みたいな吐息を漏らした。鏡に映る彼の顔をちらりと伺うと、気持ちよさそうに瞼を閉じている。
「ふふ、洗ってあげてるときの和樹さんってブランくんと似てますよね」
こんなことを言って怒られるかな、と思ったけれど、和樹さんは穏やかな表情で私を鏡越しに見つめた。
「なるほど、ゆかりさんのシャンプーが上手なのはブランを洗ってくれてるからなんですね」
「うん。ブランくんはお風呂、好きみたいなんですよ」
「まさかオスであるブランに肌を見せるようなことは……」
「しませんよ~だ。お風呂でのブランくん、おとなしくていい子だからお湯まき散らしたりりないもん。脱ぐ必要ないでーす」
そんな会話をしながら耳の後ろも丁寧に泡立てていく。
「力加減はいかがですか」
「丁度いいです」
美容室みたいな会話をしてみるけれど、お互いに全裸なので間が抜けている。
「気持ちいい?」
「うん、気持ちいいよ」
そんな会話もすっかり色気がないのが不思議だ。さっきまではちょっと、そういう雰囲気だったのにな。何となく寂しいような、これはこれで居心地がいいような。
「お湯かけますねぇ」
「お願いします」
また店員とお客さんみたいなやりとりをして、和樹さんが頭を前に下げてくれた。耳にお湯が入らないよう慎重に泡をすすいでいく。次は体だ、と広い背中を前に意気込んでいると「次は僕の番」と和樹さんが振り向いた。
「え? 体まで一気に洗っちゃいますよ?」
「順番こです」
「じゅんばんこ」
可愛らしい言葉選びが面白くて、ちょっと笑ってしまった。
「ゆかりさんの口調が移ったんだよ。半分ことかよく言ってるだろ」
「言ってるかなぁ。そうだ、お風呂からあがったら、アイス半分こしましょ?」
「駄目です。……アイスなんて食べていられると思う?」
突然耳元で低くささやかれて、私はひゃあと声をあげた。和樹さんは笑いながら、私からシャワーを取り上げる。
和樹さんはそれこそ美容師さんみたいに丁寧に髪を洗ってくれた。
「和樹さん、この腕なら美容師さんになってもやっていけそう」
「そう? 美容室はあまり行かないんだけどな」
◇ ◇ ◇
肌を泡が滑る柔らかい音がする。僕を後ろから抱きしめるようにして回されたゆかりさんの手が、優しすぎるくらいの力加減で胸や腹を泡立てていく。「前からだとちょっと恥ずかしいから」と今更のように照れるのが可愛らしくて、言われるまま彼女の意思を尊重したのだが、それがかえって、よくない体勢になっている。気づいているのだろうか。ゆかりさんの手がもどかしい程ゆっくりと上半身を洗う間、僕の背中には何度も柔らかい体が触れた。もとより彼女を前にすると軟弱になる理性は、あっけなく限界を迎える。
「ゆかりさん」
いきなり振り向いた僕に、ゆかりさんは円い目を見開いて驚いた。その肩を掴んで、噛みつくように口づけると、くぐもった声が上がる。舌を差し入れればたどたどしくも応えてくれる。唇と唇の粘膜を重ね合わせる行為に、今ここに生きて存在しているということを強く感じる。大切に思う人が、生きて、今目の前にいてくれているということが、僕にとってはいつまでも慣れることのない幸福だ。ゆかりさんと恋人同士になる前は、もう二度と自分の内に大切な人を作ることなどできないと思っていた。
「んん……かずきさん」
真っ赤になったゆかりさんの顔をじっと見つめる。「かずき」という響きがその唇から発せられる幸福に、僕はしみじみ感じ入ってしまう。




