284-1 みかん色の幸福(前編)
お付き合いを始めてそれほど経っていない頃のおはなし。
久しぶりにゆかりさん宅に招かれた僕は驚いた。彼女の部屋のど真ん中、見慣れた家具が冬仕様に様変わりしていたからだ。
「これ、こたつだったんですね」
「そうなんですよ! 昨日クリーニングに出してたお布団がもどって来てね、こたつ布団着任の儀を執り行ったんです」
「何ですかその楽しそうな儀式は。僕も参加したかったな」
「来年はぜひ一緒に実演しましょうね!」
にこにこしながら当たり前に来年の約束を口にしてくれるゆかりさんに心が和んで、僕の頬は自然と緩む。
「さぁさぁ入って! 暖まってますよ」
「それではお邪魔します」
促されるままこたつの一辺に腰を下ろし、水玉模様の布団を持ち上げる。煌々とオレンジ色に染まった中をちらりとのぞき込んでから、コンセントをひっかけないよう注意して足を入れた。じんわりと足先から温まる感覚に懐かしさを覚える。隣の辺にゆかりさんも腰をおろした。
「はい、おみかんどうぞ」
「ありがとうございます」
ゆかりさんは竹籠に山盛りになっている蜜柑をふたつ取ると、ひとつを僕に手渡してくれた。白くて細い指先にいちいち見とれてしまう。喫茶いしかわで働いているときの彼女の指をよく目で追っていた自覚はある。自分にはない華奢なつくりに惹かれてしまうのだ。
「そんなに手ばかり見つめられると恥ずかしいです……」
「えっ……」
慌てて顔をあげると、ゆかりさんが頬を赤らめていた。途端に自分も恥ずかしくなって体温が上がる。ばれてたのか……。
「和樹さんってもしかして手フェチなの?」
フェチなどという言葉がゆかりさんの口から飛び出したことに妙に動揺して、蜜柑を握りつぶしそうな勢いで慌てて否定した。
「いえ、そんなことは……! 僕が惹かれるのは、ゆかりさんの手だからでっ!」
「えっ!?」
彼女はますます顔を赤くして口元を手で覆った。やってしまった。今のはさすがにドン引きされたのではないかと凹んでいると、ゆかりさんは小さな声で言った。
「私も和樹さんの手、大好きですよ」
両思いか。蜜柑がぼとりとテーブルに落ちる。そうだ、両思いなんだ。わかっていても感動してしまう。僕は長期海外出張の後、ゆかりさんと再会すべく喫茶いしかわに赴き、そこから改めて徐々に距離をつめ、ようやく想いを確かめ合い、今ではこうして部屋に呼ばれる仲となったのだった。僕たちは両思いの、紛うことなき恋人同士なのである。
長期海外出張中の不義理をあっけらかんと笑ってくれたゆかりさんの態度に、僕は救われてもいた。
彼女は怒るどころか「また会えて嬉しいです」と言ってくれたのだ。以前と少しも変わらない暖かい笑顔で受け入れてもらえたことは予想外だった。いや、本当は心のどこかで期待していたのかもしれない。ゆかりさんが僕を受け入れてくれることを。
以前と変わらないように見えた僕たちの関係は、ただの常連客、ただの同僚だったあの頃とは確かに変わっていた。
「和樹さんの大きな手、前から好きだったんです」
「前からって、いつから?」
「いつからでしょう?」
ふふふ、と笑う彼女の手を掴む。彼女の白く細い指と僕の指が絡みあう。彼女の滑らかな手の甲を指先でなぞった。
「和樹さんの手、温かいね」
「ゆかりさんも」
親指ですりすりと指の腹を撫でると、くすぐったそうにゆかりさんは笑う。離れそうになる手を掴み、握る力を少し強くすれば、意図が伝わったのか恥ずかしそうに目を伏せた。
「和樹さん、夕ごはん……」
「会社で軽く食べてきたって言いましたよね?」
「軽くじゃだめです。ゆっくりできる時ぐらいちゃんと食べなくちゃ」
そう言って手を解かれてしまい、僕はあからさまに不満な顔をしたのだろう。ゆかりさんに笑われてバツが悪くなる。
「あのね、今日はおでん作ったんです。和樹さん前に食べたいって言ってたでしょう?」
年下のはずの彼女は、弟に言い聞かせる姉のように優しい口調で僕に言う。
「ゆかりさんのおでんは、魅力的すぎる……」
コンビニのサンドイッチしか食べていない体が思い出したように空腹を訴えてくる。
「ふふ、よそってきますね」
ゆかりさんは立ち上がり、僕を残して台所へ行ってしまった。まあ良い、明日は休みだ。時間はたっぷりあるのだから。
小一時間後、僕は味の染みたじゃが芋を箸で割りながら、先ほどとは違う理由で顔を赤らめているゆかりさんを眺めていた。
「このお酒、飲みやすくて美味しいですねぇ」
「そうだね。でも、もうそろそろやめておいた方が……」
お土産でもらったという富士山を逆さにした色合いのお猪口に日本酒を注ごうとする彼女をたしなめる。不満げに尖らせた唇は桜色をしていて、食べてしまいたくなるほど可愛い。酔いつぶれて寝落ちされてしまうのは御免だ。何といっても久しぶりに会えたのだから。
「だってひさしぶりだから、もっと飲みたいです……」
「あんまり飲むと頭が痛くなりますよ。久しぶりって僕と飲むのが?」
「うん、かずきさんと飲むのも久しぶりだし、お酒自体最近は……かずきさんがあんまり外で飲むなって言うから」
「僕の言ったこと、守ってくれてたんですね」
モラハラ男じみた忠告を僕はなるべく冗談めかして伝えたのだが、ゆかりさんは律義に守ってくれていたらしい。あまり外で飲んでほしくないというのは本心だった。なんて独占欲の強い男だと自分に呆れるが、酔っぱらった彼女が危なっかしいのは事実だった。昔から――ただの同僚として傍にいた頃から、何度か肝を冷やしたものだ。
ただでさえ甘い印象を受ける、眦の下がった瞳は、酔うと熱を帯びてもっと甘く蕩けて見える。上気した頬に手をあてて、引き寄せてしまいたくなる。
「かずきさん、そっち行っていい?」
小首をかしげる彼女は幼げな口調と裏腹に妖艶だ。おいで、と手を伸ばすと嬉しそうに床に手をついてすり寄ってくる。まるで猫みたいだ。
腕の中にとびこんできたゆかりさんを抱え上げて脚の間に座らせる。身体をぴったり寄せて、背中に腕をまわした。目を閉じて、柔らかくてあたたかな彼女の感触を味わっていると、ゆかりさんの手に髪を優しく撫でられた。ふいに自分が小さな子供になって甘やかされているような心地がした。けれどすぐに、そのマザーコンプレックスじみた幻想を打ち消した。
たびたびゆかりさんはこうして、様々な一面を僕に見せる。姉のようであったり、母のようであったり、妹のようでもあり、娘のようでもあり……色んな顔を持つゆかりさんはとても魅力的な女性だが、彼女は僕にとって、何にも代えがたい大切な恋人だ。
近い将来、恋人よりもっと強い関係性に持ち込む予定ではあるが。
抱きしめる腕を緩めてそっと体を離すと、ゆかりさんは潤んだ瞳で僕を見上げていた。望んだとおりの表情に、静かに歓喜しながら、首を傾けて深く唇を合わせた。吸い付いて、離れて、また触れ合ううちに、彼女の甘い声が上がって耳を刺激する。呼吸が荒くなるのを隠す余裕などなかった。ニットの中に手をいれて背中の金具を性急に外そうとすると、「待って」と慌てたように止められる。
「……待てません」
「でも、お風呂入りたいんです。沸かしちゃったし」
「後で良いでしょう?」
「いけません! 今入りたいの!」
何がいけませんだ、と思ったが、こうなるとゆかりさんは存外頑固なのだった。
「いいでしょう。ただし僕も一緒に入ります」
「え?」
「酔っている君を一人で入らせるわけにはいかないので」
でも、と続けようとする彼女の唇をまた塞いで黙らせる。以前から一緒に入浴してみたいと思っていたのだ。にっこり微笑んで両手を掴めば、ゆかりさんは観念したように目を伏せた。僕は彼女に甘いが、彼女も大概僕には甘い。




