282 真のヒーロー
冒頭は、お付き合いとか考える前のふたりの会話です。
店内が無人なのをいいことに、ふたり並んでカウンターで賄いを食べていた時、話の流れで問われた。
「和樹さんの夢は、本業でトップの成績を残すこと?」
コンマ数秒の間があったが、そこは賄いのパスタを呑み込む振りで誤魔化す。
「そうですね。まずはそこが目標ですね」
とにっこり笑って答える。
隣の先輩はくるくるっとフォークの先にパスタを巻き付けながら、「ですよねえ」と呑気に頷いている。
「ゆかりさんは?」
と聞いたのは社交辞令だ。この会話の流れだと、普通はそうなるなと思ったのだ。
彼女の答えに興味があったわけではないし、二人の間に存在する見えないラインを超えるほどの質問でもない。日常会話の範囲内だ。
「私はね」
彼女は、唇の端にのぞいていたパスタの端っこをチュルンと呑み込んでから、当たり前のように答えた。
「お嫁さんです」
「え?」
その答えになぜか焦り、動揺が言葉に出てしまった。
「そっ……その予定が?」
「ありませんよー」
彼女はニコニコ笑いながら、楽しそうに答える。
「あったらそれは夢じゃなくて、現実じゃないですか」
「――確かに」
そこで彼女は声を潜める。言っておくが、店内は無人だ。もっと言っておくと、盗聴器の類も、防犯カメラもないので、小声になることに意味はない。彼女の声を聞いているのは、今現在、世界中で和樹だけだ。
「あのね、これは和樹さんだから言うんです」
「どうしてですか?」
「だって、今時ですよ? たくさん難しい勉強して、資格を取って、社会に出て自分にしかできないことで、大勢の人を助けるためにバリバリ仕事している女性が大勢いるのに……そんな中で『私の夢はお嫁さん』なんてふた昔は前の理想の女性像みたいなこと言えませんよ。恥ずかしいです」
「はあ」
我ながら情けない相槌しか打てない。
「まあ、人のために働くって言う点では和樹さんもおんなじですけど、同僚としての特典で打ち明けました。いつも、この手の質問には『マスターの跡を継ぐことです』って答えるようにしているので」
「それは、すごい秘密を教えて頂いて、光栄です」
「やだぁ! 秘密ってほどじゃないですよ」
「そうなんですか?」
「そうですよ。そっちも夢ですから」
「え? どっち?」
「ですから」
彼女は物分かりが悪い後輩を、ちょっと憐れむような眼で見て言う。
「私ね、一人の人を幸せにするには、やっぱり一人以上の人が必要だと思っていて」
「そうなんですか?」
「そうなの。黙って聞いて」
「すみません」
彼女は、グラスの水を一口飲んでから、語りだす。
「えーと……いつか、私が本当に好きな人ができて、そうして、運よく、その人も私のことを好きになってくれたら、絶対その人を幸せにしたいの」
「――なるほど」
「だからその人にね、“ああ、ゆかりさんと結婚して良かった、俺は幸せだ!”って思ってもらえるようなお嫁さんになりたいんです」
「ふむ」
「それでですね、幸せってどんな状態かなって考えて……」
「はあ」
「やっぱりお腹がいっぱいで、好きな人が傍にいる時だろうなって思いつきました!」
思いつきましたって、世紀の大発見みたいに言うけれど、それは古今東西、一般的に言われていることではないだろうか……と、思うと、思わずふふっと吹き出してしまった。
「あ、バカにしてますね」
彼女がチラリと冷たい目で見る。
「いえいえ、ゆかりさんらしい」
「いいんです。まあ、今のところ本当に夢ですし」
「ああ、そうか。それで喫茶いしかわを継ぐことが」
「さすが和樹さん! そうなんです! 喫茶店だってお腹いっぱいになって、幸せになれるでしょ? だから、そっちだって間違いなく夢なんですよ~」
彼女は最後のパスタを呑み込んで、笑った。
「たしかに、お腹がいっぱいで、好きな人が傍にいるって、いいですね」
今がそうじゃないか、なんて思っても口には出さないが。
「でしょ?」
「まるで顔を分け与えるヒーロー……」
「え?」
「まあ、ゆかりさんの顔はあそこまで丸くないし、二頭身でもないですが」
「なんですって?」
「顔が濡れても力が出ないなんて弱点もありませんし」
「こらこら、いくら和樹さんでも許しませんよ!」
むうっと唇をへの字にして、顔を歪めているけれど、ちっとも怖くなかった。
そのタイミングで、カランとベルが鳴る。
「いらっしゃいませ!」
彼女は、すっと休憩モードから、看板娘へ変身する。
「お好きな席へどうぞ」
と、案内の声を上げながら、働き者の手がさっとグラスに水を準備している。
自分も、空になった二枚の皿とグラスを片付け、これからティータイムへ突入し、混むだろう店内の準備にかかった。
顔を分け与えるヒーロー……もとい、ゆかりさんはトレンチとメニューを持って客の元へ歩き出す。
なんだかその後ろ姿が眩しくて、目を細める。
ゆかりさん。
あなたの(かなり少女マンガ的な)夢を揶揄ってしまってごめん。
でもね、知ってるかな?
空腹な人を満たし、疲れ、傷ついている者の傍にいる、彼の国民的人気キャラクターは、究極の正義の味方なんだよ。正義や聖戦の名の元、一瞬にして大勢の命を奪い、その日常を根底から壊すような力(=暴力や武器や兵力)を以てしても、彼には敵わない。彼以上に強い者はこの世のどこにもいないんだ。
なぜなら、空腹を満たす者こそが正義だから。
それを行う、彼は、正義そのもの。人類最初で最後のヒーローなんだ。
◇ ◇ ◇
数年後。
和樹が鮮やかな手口であっさりと難しい契約をまとめるのを見ていた部下は高ぶった気持ちを抑えきれぬ様子だった。取引先のビルを出るとくるりと和樹のほうを向く。
「石川さん!」
「なんだ?」
「すごくかっこいいです! まるで正義の味方ですね!」
と早口で言う。和樹はちらりと部下を見て、小さく息を吐く。
「三重野」
三重野はさすがに、上司に向かって失礼なことを口走ったと考えたようで
「もっ申し訳ありません!」
と九十度に深く腰を曲げる。
「いや、叱責じゃない。言いたかったのは……こんな所に正義の味方はいないってことだ」
三重野が怪訝そうに顔を上げる。
「本当の正義の味方は、パン工場にいる……」
「え?」
「もしくは喫茶店だ」
「そこにもいなきゃ、俺の家で待ってる」
何年か前に、妻と交わした会話が蘇った。三重野は意味が分からないからか、ぽかんと和樹を見ている。
中途半端な敬礼の形で動かなくなった三重野の肩をぽんと叩き促す。
「ほら行くぞ。さっさと帰社しよう。報告書は今日中に出せよ」
和樹は思う。
今夜はカツカレーだって言ってたな。早く帰ろう。
家に帰れば、最強のヒーローが待ってる。
――お帰りなさい! ご飯できてますよー!
うん。待ってて。絶対に帰るから。
ということで、気付けば400部分です。わーお。
……こんなお話でよかったのかな?
ヒーロー、名前は出してませんけどわかりますよね?
ただ、その理論でいくとJおじさんは何になるんだろう? という疑問がチラリ(笑)




