28 Case3の裏側・リップの行方
突発の仕事でデートをドタキャンしたお詫びにと、彼女に似合いそうなネックレスを買っていったら、ため息を吐かれた。
「なんでもない日にそんなもの買ってきて……そんなお詫びいらないですよ。デートをドタキャンするたびにこんなことしてたら、とんでもない金額が積み上がるの目に見えてるじゃないですか」
そう言われて言い返せず、ぐっ……と言葉に詰まる。
「和樹さんはその顔面偏差値であまたの女性を落としてきたと思いますが、釣った魚に餌を与えないタイプではなく、魚が求めている餌が分からず見当違いの餌をあげるタイプなんですね」
しみじみと追い討ちをかけるように呟かれて、ぐうの音も出なかった。
そんなお叱りを受けてから、お詫びの品は彼女好みのお菓子などにしようと考えていたところ、たまたま見た雑誌で彼女に喜ばれそうなコスメを見つけた。
こちらの化粧品メーカーは超高級ブランドというほど高くはなく、ゆかりさんの価値観寄りの価格帯である。それに彼女がこのメーカーのコスメを気に入っているのは把握済みだった。
倹約家の彼女は、普段のメイクにはプチプラのコスメを使用するが、特別な日であるとか気合いを入れたい日にはそれなりの値段の物を使用している。
そのひとつがこの化粧品メーカーのはずだ。
「わあああ、猫ちゃん!」
ゆかりさんの手元には手鏡とリップスティックが広げられていた。
鏡面の裏側は写実的でありながら可愛らしい猫の柄だ。薔薇やガーベラに囲まれた白いペルシャ猫が澄ました顔をして座っていた。
繰り出したリップの部分は猫の顔を再現している。目や鼻はもちろん、三角形の両耳まで再現している徹底っぷりだ。店頭には保湿重視ときらめき重視の二種類があり、甲乙つけがたかったので両方共購入した。
「和樹さんが買いに行ったの? デパートに? 直接?」
「そうだよ。ついさっきね」
僕の答えにゆかりさんはまじまじと商品を見つめると、不意に「ふふ……えっへへへ……」とふにゃふにゃに顔を崩して笑ってくれた。
どうやらお気に召してくれたらしい。気取られないよう、和樹は胸を撫で下ろした。
贈り物を鏡台に収納したゆかりさんは、僕のとなりにちょこんと腰かけるとこちらにもたれかかってきた。腰に腕を回し、胸元に額を押しつけてくるのがとてつもなくかわいらしい。
赤くなった耳を喰んでこのまま押し倒してしまいたい衝動にかられたが、ここはぐっと堪えた。
自分の欲を満たす前に、まずはゆかりさんの話に耳を傾けてからだ。
「この前雑誌で読んだんですけど。和樹さんは口紅を相手に贈る意味って知ってますか?」
「ん? アクセサリー類なら相手を束縛したいとかそういう?」
「そうそう。口紅はね……」
ゆかりさんは僕の膝に手を乗せた。何をするのかと思ったら、触れるだけのキスをしてくれた。
ちょん、と触れてすぐ離れてしまったのが残念だったが、面映ゆそうに笑った顔が愛らしかったから百点満点だ。
「『少しずつ取り戻したい』」
「え……」
瞳を優しげに細めたゆかりさんの言葉に、僕は心の中を読まれたのかと思った。
「そういう意味があるんですって。贈った口紅を塗って、こんな風にキスして返してねっていうことみたいですよ」
「そうなんですね。いいことを聞きました」
「でも私は、いま和樹さんにキスしたいと思ったからキスをしました。それはあの素敵な贈り物があってもなくても、変わらなかったです」
動揺などおくびにも出していないはずなのに、ゆかりさんには僕の心の内は筒抜けであったらしい。
「約束をしていても守れないことがあるのはお付き合いする前から聞いていたから承知の上です。お仕事に誇りを持っている和樹さんごと私は好きになったんです。毎回お詫びなんていりませんからね。コスメにあんなに喜んじゃった後だと説得力ないかもですけど」
ゆかりさんは苦笑しつつ続ける。
「私、和樹さんとの約束が駄目になったとしても、やることもしたいこともなくて途方に暮れるなんてことにならないようにしてるんです。会えなくて残念だな、寂しいなって気持ちはもちろんありますけど」
ゆかりさんがそう簡単にその境地に至ったわけがないことは察するに余りある。知らないところで自分は何度ゆかりさんを泣かせたのだろうか。
考え込む僕に構わず、ゆかりさんは僕のシャツの袖口をちょんと引っ張った。
「贈り物はとっても嬉しいです。でもできたら……次からは、まっすぐ私に会いに来て」
後半は小さな小さな声だった。だが、僕の憂いを殴り飛ばすには十二分の成果をあげていた。
「和樹さんに会えないのが寂しくて苦しくて、こんな風に冷静に言ってられなくなる日もあるかもしれない。その時はきちんと和樹さんに言います。そしたら……聞いてくれますか?」
「もちろん」
間髪入れずに肯定したのは、僕にできる数少ない誠実な姿勢だったからだ。僕は彼女の覚悟を心のどこかで少し侮っていたのかもしれない。僕の手を取ってくれた時点から、ゆかりさんの覚悟は少しずつ確かなものになっていっていたのだろう。
僕はようやくゆかりさんを腕の中に閉じ込めた。こんな華奢な体に僕を圧倒する覚悟を秘めていたとは驚嘆である。男にはないしなやかな強さに僕は己の不甲斐なさを恥じていた。
「ああああ……」
「ふふっ、なあにその声。湯船に浸かったおじさんみたい」
聞き捨てならない指摘に腕に込めた力を強くすると、ゆかりさんが「ギブギブ! 和樹さんは素敵なお兄さんです! まだ!」とフォローになりきらないフォローをしてきた。
「僕にはもったいない、いい女だなって思ったんだ」
拘束をゆるめて、彼女の額に自らの額を寄せる。きょとんとしたゆかりさんは二、三度まばたきをしてから胸を張った。
「ふふん! なんたって、石川ゆかりは和樹さんが惚れた女だもん。和樹さんだから、私はいい女になれるんですよ」
得意気に笑うゆかりさんに和樹は吸い寄せられるように唇を重ねた。
次に会うときには、お詫びの品ではない、左手の薬指に一生つけてもらえる指輪を贈りたい。
そんな想いを湧き上がらせながら。