280-2 if~勘違いして、期待して~(中編1/3)
告白を決意した日から五日後。会計を終えたお客様を笑顔で見送り、ゆったりと流れるBGMを聴きながらゆかりはフロアへと移動し、テーブル席の後片付けに取り掛かった。
カランコロン。
まとめた食器を洗い場に置くと同時にドアベルの音が店内に響く。
「いらっしゃ……」
お客様を迎える笑顔で入り口の方に顔を向け、そこに立つ来客を見た瞬間、心臓がドキッと大きく跳びはねた。
「ゆかりさんこんばんは」
グレーのスーツを纏い微笑むのは、ゆかりが次に会ったときに告白しようと決めていた相手。
「こ、こんばんは和樹さん」
緊張を隠しながら、いつもの笑顔で挨拶を返す。
「コーヒーいただけますか?」
「はい、かしこま……って和樹さん隈がすごいですよ!?」
カウンター席に腰を下ろす和樹の顔を見てゆかりは目を丸くした。目の下に住み着く、日焼けした肌でもわかるほどの濃い隈。あきらかに寝不足の証だ。
「何日寝てないんですか?」
「……三日」
「三日っ!?」
思わず声をあげて驚くゆかりに、和樹は苦笑いを浮かべながら人差し指で頬を掻く。
ここに来る時間があるのなら、その分の時間を睡眠に費やしてほしい。
けれどそんな寝不足の状態でもここに来るということは、まさか、ひょっとして私に会いに……。
「ゆかりさん?」
「ひえっ」
名前を呼ばれハッとする。
期待ができる恋になり、つい前向きすぎる考えになってしまった。
不思議そうにする和樹に対し、ゆかりはアハハと笑って誤魔化し、すぐに注文を受けたブレンドコーヒーを淹れる準備に取り掛かった。
「この後、食事にでも行きませんか?」
カップを静かにソーサーに置いた和樹に訊かれ、食器を洗うゆかりの手がピタッと止まる。
泡のついた食器とスポンジを持つ自分の手から視線を上げれば、微笑みながら小首を傾げる彼の姿。
好きな人からの嬉しい誘いなので、即答で「はい」と首を縦に振りたい。しかしあの濃い隈をなくすためにも早くお家に帰って寝てほしい。
「……和樹さん寝不足でお疲れなんだからまた別の日にしません?」
「このくらいだいじょ……」
話す途中で和樹は、ふわっと口元を手で覆いながら欠伸をした。
「ほら、大丈夫じゃないでしょ? 今日は早く帰ってゆっくり休んでください」
「でも」
「でも、じゃありません!」
「うっ。……じゃあ、ゆかりさんのことは送らせてください」
「えっ?」
「ゆかりさんのことを送ったら、言われた通り家に帰ってゆっくり休みますから」
だから送らせて、と彼は柔らかな笑みを浮かべる。
ああ、ほら。睡眠時間を犠牲にしてまで私と一緒にいたいのかなって、また期待しちゃう。
「……わかりました」
ゆっくり休んでほしいと思うくせに断れないのは、少しでも彼と長く一緒にいたいからで。
「よかった」
安心したように笑う和樹を見てゆかりは、彼も同じ自分と同じ気持ちだったらいいなと思った。
「じゃあ閉店までまだ少し時間あるし、その後も閉め作業で時間かかるから、その間だけでも目を瞑っているだけでもいいから休んでください」
一緒にいられる時間が少し長くなったとはいえ、やはり目の下に住み着く濃い隈が気になってしまう。
「大丈夫ですよ。それに僕もクローズ作業手伝うから」
「和樹さんはお客様なんだからそんなのしなくていいの!」
「でも」
「もうっ! でもじゃありません! それに、さっきから大丈夫って言ってるけどそんなとろんとした眠そうな目で言っても説得力なんてありませんよ! 相当眠いんでしょ?」
わざと仁王立ちしてジト目で言うと、和樹は反らすように視線を横に向け、しかし観念したのかすぐに視線を此方に戻した。
「ゆかりさんの言うとおりです」
「ほら、やっぱり!」
「ここに来るまでは本当に全然大丈夫だったのになぁ。ゆかりさんといるとすっかり気が緩んでしまう」
「え……」
「お言葉に甘えて少し休ませていただいても?」
「も、もちろん! なんならあっちのソファーで横になっちゃっても大丈夫ですよ。この時間じゃお客様ももう来ないし」
「ここで大丈夫ですよ」
「でも洗い物の音とか近くて気にならない?」
「全然。 むしろゆかりさんの気配が近い方が落ち着くので、僕のことは気にせず洗い物でも何でもしてください」
「は、はい。……ではクローズ作業が終わったら起こしますね」
「ええ、お願いします」
「あっ、ブランケット使います? 常備してるのがあるけど」
「いえ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
そう言って和樹は残るコーヒーを飲み干し「ご馳走さまでした」とカップを乗せたソーサーを渡してくる。
ゆかりは手に持ったままの食器とスポンジを一旦置き、手についたままの泡を水で流し、カウンター越しにそれを受けとろうと手を伸ばす。
ソーサーから手を離した彼は眠たげな瞳を細めながら「お言葉に甘えさせていただきます」と言ってゆっくりと机に顔を伏せた。
『ゆかりさんといてすっかり気が緩んでしまったようです』――どうして私といて気が緩むの?
『むしろ、ゆかりさんの気配が近い方が落ち着くので』――どうして近い方が落ち着くの?
受け取ったソーサーとカップを持ったまま彼に向かって心の中で問うが、答えが返ってくるはずはない。しかしどうしたって良い方向へと考えてしまうゆかりは顔を緩ませながら洗い物を再開させた。
少し経って喫茶いしかわは閉店の時間を迎え、寝ている和樹を起こさないようゆかりは、なるべく音をたてずにクローズ作業を進めた。
バッグをテーブルに置き、和樹の隣の席の椅子を静かに引いてそこに座わる。
疲れている体をもう少し休ませてあげたい。ゆかりはそう思いながら、組んだ両腕を枕がわりにする彼の真似をしてぐっすりと眠る横顔を眺める。
とても穏やかな、あどけない寝顔。
きっと素敵な夢でも見てるんだろうな。幸せそうな彼の寝顔にゆかりの頬は自然と緩んだ。
BGMが消え壁掛け時計の秒針の音だけが響く店内。瞬きするのも惜しいほど綺麗な寝顔をジーっと眺めていると突然、閉じていた彼の口が動く。
「……ゆう」
「……っ!」
勢いよくゆかりは起き上がり、目を丸くして和樹を見る。『ゆう』って誰……? 女の人の名前だよね……?
ゆかりの知らない名前を呼んだ口は弧を描いている。嬉しそうに呼んで、嬉しそうに笑う口元を見る限りそれは――特別な人の名前。
ああ、そっか。そうだったんだ……『ゆう』さんは和樹さんにとって特別な人。要するに恋人さんだ。
ゆかりは和樹の寝顔からゆっくりと自分の手元に視線を移す。
この間のイルミネーションはきっと彼女と行くための下調べ。さっきの食事の誘いは、彼女と都合が合わないから私を誘っただけ。
今日だけじゃない。今までの誘い全部、特別別な理由なんかなかったんだ。
帰り道送ってくれるのは、ただ単純に夜道が危ないから。
お仕事で忙しいのに。寝不足で疲れているのに。それでもここに来てくれるのは、ただ単純に喫茶いしかわのコーヒーが好きだから。
私といて気が緩むのは、ただ単純に気を使う必要がない人間だから。
私の気配が近い方が落ち着くんじゃなく、ただ単純に物音が近くで聴こえる方がよく眠れるから。
あの日手を繋いでくれたのも、ただ単純に冷えた手を暖めてくれただけ。
特別な理由なんてひとつもなかった。彼も私のことが好きなんじゃ……なんて勘違いも甚だしかった。恥ずかしい勘違いだって告白する前に知れてよかったじゃない。直接振られることもないし。
――でも、でも! もっと早く気持ちを伝えていたら、何かが変わっていたのかな。自分が彼の特別な存在になれていたのかな。
視界がぼやけ、ぽたぽたと落ちる涙の滴が乾いたテーブルを濡らしていく。
「……ん」
隣に座る和樹が小さな声を漏らし、もぞもぞと動き出す。ゆかりは急いで指で目元を拭い、自分の涙で濡れたテーブルをコートの袖で拭きとる。
彼に恋人がいることを知った以上、もう前みたいにはやっていけない。




