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徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


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273 カチリとはまる

 交際の気配すらない頃の、ゆかりさんの失敗談。

 一歩一歩、気を抜くとアスファルトに縫い付けられてしまいそうになる足を何とか持ち上げて、ゆかりはぽつぽつと街灯に照らされた路地をゆっくり歩いていた。

 そこまで治安が悪いという認識はないけれど、大なり小なり様々な事件や事故についてメディアが取り沙汰しているし、警察がそういうサービスをしていると知ってすぐに登録した事件事故情報のメールもそれなりに届いているし。ゆかり自身は恨まれるような覚えはないつもりだけれど、それなりに警戒心も湧いていた。そのつもりだった。

 つまり、酔っ払って眠気に負けそうになりながら千鳥足で薄暗い夜道を歩くなんて失態を犯すつもりはまったく、これっぽっちもなかったのだ。


「うう……いくらなんでも浮かれすぎてた……」

 ぼんやり霞がかかりそうになる頭を振って、この数時間の記憶をなぞる。

 わりと頻繁に開かれる気心の知れた友人グループでの食事だった。滑り出しから絶好調だったのだ。今回の幹事が予約を入れてくれた古いレンガ倉庫を改装したレストランを、ゆかりは一目で気に入った。温かみのあるアンティークの家具で不揃いに纏められた内装も素敵だったし、フランスの家庭料理をベースにしたというメニューは説明を読むだけでもワクワクした。そこへ来て、友人の一人が照れくさそうに告げた結婚報告。

 わっ! と思わずみんなで歓声を上げてしまって、慌てて口を押さえて肩を竦め合う。それから堪えきれないという風に顔を見合わせて破顔して、何度も何度もおめでとうが飛び交い、誰からともなく目尻を濡らした後、みっともなく鼻声で泣いた。

 それじゃあ乾杯しようと言い出したのは誰だったか。ワインを一本空け、二本空け。四本目を頼んだ時点ですでに正常な判断ができなくなっていたんだろうな、とゆかりはため息を吐いた。

 良いのだ。おめでたいことだし、幸せな気分だったし、きっちり終電に間に合う時間に、お互い赤く緩んだ顔で解散したのだから。


 それなのに。

「まさかホームで居眠りするなんてねぇ」

 ゆかりはさして酒に弱い方ではないけれど、うわばみというほど強くもない。外食の時は甘いカクテルを頼むことが多かったが、ワインや日本酒など滋味深い醸造酒を少量試してみるのも好きだった。職業柄、美味しいものは何でも経験してみたいというのが根底にある。そもそも単純に食べることが大好きだ。

 そういう訳で、大当たりだった食事を相乗効果で引き立てるワインに「お祝いごとだし」と、普段は超えないラインをうっかり踏み越えてしまったこの結末だった。


 けたたましいベルの音にはっと目を覚ます。反射的に電光掲示板を見ると、まさに今、終電が発車するという車掌の声が耳を突いた。途端に沈殿していた意識が怒涛のように渦を巻いて加速する。ゆかりは脱力していた身体をなんとか気力で持ち上げると、荷物を掴み、慌てて地面を蹴った。そうやって滑り込みで飛び込んだ車内で息を吐き、腰を下ろしたタイミングで流れたアナウンスに愕然とした。最寄駅までは行かない電車だった。


 最寄りまで行かないと言っても二駅手前。ゆかりは歩くのが苦なタイプではないので、普段であればさほど問題ではない距離だった。幸い初めての道でもないので土地勘もある。けれども時間が悪い。さらに言えば、盛大に盛り上がって餞別にといつもより一名少ない数で割ったお会計のおかげで、財布の中身もタクシーを呼ぶにはだいぶ心もとなかった。

「やっぱりお金下ろしてタクシー呼べばよかったなぁ」

 とぼとぼと音がしそうな足取りで進みながら、誰もいないアスファルトに独りごちる。昼間は閑静な住宅街は、深夜ともなれば不気味な程静まり返って人通りもない。もうあとほんの三十分程度の距離が永遠のように感じられて、ゆかりがまた大きなため息を吐いた、その時。


 唐突に細かい振動を感じて、ゆかりはぴくりと立ち止まった。腰に当たっていたポーチを探ると、点灯するスマホのホーム画面に通知が一件。その名前に何となく内容を予想しながら、ある種の閃きを持ってアプリを立ち上げる。薄暗い道にディスプレイのライトが眩しい。思わず細めた瞳が緩む頃、思った通りの文章がそこにあった。


『夜分にすみません。明日……というかもう今日のシフトなのですが、本業が立て込んでしまって入れそうにありません。申し訳ありません。明日のシフトに入っていただくことは難しいでしょうか?』

 帰宅さえできれば、そのままゆかりは丸一日休みの予定だった。最近はカレンダーやら商店街やらの行事が続いているせいで連勤が続いていたから、本当に久しぶりのオフだったのだ。それもあって飲みすぎたのだけれど、今はそんなことはどうでもよかった。


『和樹さん!』

 間髪入れずに文字を打つ。字面から勢いが伝わったのか、罪悪感からか、そのまま音信不通になることも多い同僚から、珍しくすぐに返信があった。

『はい?』

『今暇ですか?』

『え?』

『少しお時間ありますか?』

『えーっと、このあと仕事で出かけるので30分位でしたら』

『最高です! それではちょっと待っててくださいね!』

 続けて、ぐっと親指を突き立てたキャラクターのスタンプを送ると、ゆかりは画面の右上に表示されたマークを遠慮なくタップした。


「それでうっかり寝過ごして電車に置いていかれたゆかりさんは、危なっかしく夜道を一人で帰宅中なんですね」

「い、いやまあ、そうなんですけどぉ……改めて言わないでくださいよ。私だって反省してます。それに終電には間に合いましたよ! 一応、ですけど……」

 熱を持ったディスプレイを当てたままゆかりがむっと頬を膨らませると、電話の向こうで呆れたような気配が溜息をついた。

「それは間に合ったとは言えませんし、そもそも現在進行形で色々間に合ってないじゃないですか。今何時だと思ってるんです?」

 そんな時間になってようやく翌日の勤務交代願いを連絡してきたのはどこの誰なのかという事実を棚に上げて、いけしゃあしゃあと説教を続ける和樹に反論したい気持ちはあったけれど、しんと眠りに沈んだ家々の間で大声を上げるのは憚られて、ゆかりはぐっと言葉を飲み込んだ。

 ちょっと大袈裟な和樹の説教が今は返って励みになっているのも事実だ。さっきまで眠気で崩れそうになっていた膝もしゃんとしたし、独りぼっちの不安もどこかへ行ってしまった。おかげで歩くスピードも上がって、いつの間にか辺りはすっかり見慣れた景色になっていた。


「も、もうマンション見えてきましたし! はあ……。実を言うとすごく心細かったんです。眠いし、怖いし……寂しくて。でも和樹さんの声を聞いたら急に元気が出ました。その、繋がってよかったです。用事の前にすみません。本当にありがとうございますね」

 一息に言った。ちょっと恥ずかしい台詞だったかも。気持ちを素直に伝えたものの妙に落ち着かない心地になってしまって、ゆかりははにかみながら唇を閉じた。

 つま先から伸びる影がゆらゆらと揺れている。

 和樹が何も答えないのて、辺りは本当にしんと静まり返ってしまった。


「和樹さん?」

「……いえ、お役に立てたようで何よりです」

 ゆかりが問いかけると、掠れた声で和樹が呟いた。なんだか拗ねたような喋り方だ。

 ──そんなに変なこと言ったかしら?

 ゆかりが黙っていると、今度は和樹がおずおずとゆかりの名前を呼んだ。こんなにぎこちない同僚の姿は本当に珍しい。そう思うとなんだか可笑しくて、ゆかりは堪えきれずに声を上げて笑った。

 電話の向こうの気配はいよいよ拗ねてしまったけれど。


「ゆかりさんが部屋に入るまでは電話切らないでくださいね! 何があるかわからにんですから!」

 と頑なに主張した和樹に従って、玄関の施錠を内側から確認する。続けて幾度目になるかもはや数えてすらいない感謝の言葉を伝えつつ振り向いた視線の先で、見慣れた時計の示した数字にゆかりは思わず大きな声を上げた。


「あ! すみません長々と! もう時間ですね」

「ああいえ、大丈夫ですよ。準備は済んでいたので。それではゆかりさん、こんな日の翌朝から申し訳ありませんがシフトの件よろしくお願いします。明後日は出ますので」

「はいはい、今更ですよ! 任せてください! ええっと、和樹さん」

「はい」

「お仕事頑張ってくださいね! いってらっしゃい!」

「はい、いってきます」

 和樹らしい明るい声が電話口から応えて通話が切れる。


「あ。今、なんだか……」

 ゆかりの中でカチリと歯車が回ったような感覚があった。

 なんとなく点灯したままのディスプレイに残る文字を指で辿る。意外といいかもしれない。こういうの。

 ぼうっと潜りかけた意識をふるふると横に首を振って浮上させたゆかりは、少しむくんだ足から靴を外し、なんとなく固くなってしまった身体を伸ばす。キッチンに移動して水を一杯飲む間も、小さな違和感が残り火のように燻っていた。早くメイク落とさないとなぁと思いながらリビングに移動し、ビーズクッションにぽすんと顔を埋める。


 ――いってらっしゃい

 ――いってきます


 また、明日。なんて。


 この時のゆかりさんの違和感と自覚は、酔いと眠気の中に溶けてゆきました(苦笑)


 終電終わってから連絡って! と思いますけれど。

 和樹さん曰く、マスターに連絡したけど繋がらず(いつも就寝早いから)、仕方なくゆかりさんに連絡した……らしいですよ。

 へー。ほーぉ。へー。


 私にもね「別に、ゆかりさんとやりとりしたくてわざとその時間まで連絡しなかったわけじゃありませんよね?」とご本人にツッコまない程度の優しさはあるのです。←ここで言ってたら一緒!(苦笑)


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