270 君とこたつと洗濯物と
前話の続きです。単独でも読めます。
……。
…………。
はっと目を開ける。どうやらうたた寝してしまったようだった。
喫茶いしかわにいる時……そして彼女と接している時は特に、警戒心が緩んでしまっている自覚はあったが、まさか。まさか他人の家で眠るなんて。
体はそのまま、視線だけで辺りの様子を窺う。
僕を起こさないように配慮してくれたのか、照明は消されたまま。少し薄暗くなった室内には夕陽が差し込んで、白い壁を柔らかなオレンジ色に染めていた。
こたつ布団の上から、肩口にブランケットが掛けられている。体温で温まったブランケットを口元まで引き上げると、いつも隣にいる彼女の香りがした。
ゆかりさんは……。
ゆかりさんは床に座って、小さく鼻歌を歌いながら、膝の上で洗濯物を畳んでいた。名前を呼ぼうかと思ったが、なぜだかその光景を見ていたくなった。
次はどれを畳もうかと、時々迷いながら、くるくる動くきれいな手。細い首のシルエットと、光を絡めた長い睫毛。音符が躍るような鼻歌はなんだかとても上機嫌だ。
どこにでもある光景だと分かっていたが、とても眩しくて。今の自分にはあまりにも不似合いな気がして、神々しい気すらして泣けてくる。
眠気が抜けきっていない頭で、ぼんやりと彼女を眺めながら考える。
遠くない将来、ゆかりさんの元を去らなくてはいけない日が来るのは分かっていた。
きっと彼女は「和樹さんが辞めてしまった」と、ときどき店にふらりと立ち寄る猫に話すのだ。そして時が経つうちに、僕と過ごした日々は遠いものになってしまう。
僕の名前ですら、彼女の記憶から消えてしまう日が来るのだろうか。
いやだ、と心が叫んだ気がした。
視線に気付いたのか、鼻歌が止んだ。
「おはようございます、和樹さん」
自宅でリラックスしているせいだろうか、喫茶いしかわでの笑顔より心なしか柔らかい。
「和樹さん?」
「すみません、寝てしまうなんて……」
「うふふふふ。こたつ、気持ちよかったでしょ」
上半身を起こして時計を見る。最後に時間を確認してから一時間半は経っていた。
「こんなに熟睡したの、久しぶりです」
「お疲れでしたもんね。よく眠れたなら良かった」
電気点けますね、と立ち上がろうとしたゆかりさんに向けて手を伸ばす。
見開いた目をぱちぱちと瞬かせて、躊躇いながらちょこんと手を乗せてくれた。
「えーっと……お手?」
そのまま指先を握る。きっとまだ疲れているのだと自分に言い聞かせながら。振り払われないことを祈って、ゆっくり体を抱き寄せる。
「え、あ、あの、か、かずきさん!?」
「すみません……ちょっとだけ」
ゆかりさんはしばらく固まっていたが、やがてぎこちなく背中に手を回してきた。小さな子をあやすように、ぽんぽんと指先でゆっくりリズムを取る。不安な表情を隠したくて、首筋に顔を埋めると、甘いシャンプーの香りがした。
「……怖い夢でも見ました?」
怖い夢。彼女に忘れられるのが怖かった。覚悟さえ不要なほど、出会いは簡単だったのに。
「ゆかりさん」
声を絞り出す。
「僕がいなくなっても」
「……いなくなる?」
「必ずまた戻ってきますから」
抱き締めた腕に力を込める。
「いつか、本当の気持ちをあなたに話せる日まで……待ってて。僕のこと」
我ながら唐突すぎると思った。何も知らないゆかりさんに意味が伝わるわけもない。
それでも彼女は僕の背中を優しく抱きながら。
「大丈夫。待ってます」
そう力強く答えてくれた。
◇ ◇ ◇
……。
…………。
はっと目を開ける。どうやらうたた寝してしまったようだった。
「よく眠ってたね、ゆかりさん」
「んん……和樹さん……?」
どれくらい眠っていたんだろう。
「ゆかりさん、もしかしてまだ寝ぼけてる?」
「んむぅ」
目の前の彼は、揶揄うように優しく笑う。私の髪をくしゃくしゃと掻き回す大きな手には遠慮がない。
「夢、見てました」
「そう。どんな夢?」
「うーんと、和樹さんが長期海外出張に行っちゃう前の……ほら、うちで寝ちゃったことあったでしょ? あの時の夢」
「ああ、あれか。実は三徹してたんだよ、あの時。でも自分でもびっくりしたなぁ」
和樹さんは苦笑いする。
「でもあの日、ゆかりさんが部屋に誘ってくれなかったら、今頃一緒にいなかったかも」
そう言いながらこたつから出て、私の隣に場所を変え、体を寄せてくる。彼の前髪がさらりと触れた。
「ゆかりさんが洗濯物を畳んでるところを見て、奥さんにしたいって思ったんだから」
「うっそぉ! 付き合ってもなかったのに!」
「そこから怒涛の展開だっただろ」
怒涛の展開。確かにそうだった。
「あんなに思わせぶりに抱き締めておいて、あの後いきなり海外出張に行くってマスターにだけ言って辞めちゃったこととか?」
「そうそう」
「一年以上も一切連絡しないどころか連絡先も変えちゃったくせに、「やあこんにちは、ゆかりさん」とか言って急にまたふらりと喫茶いしかわに立ち寄るようになって」
「声真似やめて」
「マスターもびっくりしてました」
「いやいや、実はゆかりさんがお休みの日にマスター夫妻にはご挨拶しててね。その時に全部説明してたんだよ。びっくりしてたのはゆかりさんだけ」
「挨拶ついでにさらりと手をとってキスしてくるから、すごく恥ずかしかったです」
「はは。ごめんごめん」
あの時は本当に驚いた。
和樹さんに好意を抱いているという自覚のないまま、和樹さんに抱いたいろんな感情を消化不良でモヤモヤさせたまま、和樹さん不在の時期を私は過ごしていたというのに。
驚きと、嬉しさと、それからいろいろな気持ちが混ざって、私は喫茶いしかわで大泣きしてしまったのだ。
ぽかんとした和樹さんの顔を思い出すと、マスターはいつも笑いのツボに入ってしまう。
「和樹さんは病弱なんだと思ってたし、「僕がいなくなっても」なんて言うから、きっと命にかかわる病気を患っているんだと思ってて。だから私たちに心配をかけないようにそっと喫茶いしかわを去って、生死をかけた大手術をするんだと思ってて……私、目が開かなくなるくらい泣いたんですから」
すべてが勘違いだと知り、不在の間の和樹さんの話を聞かされ……人生で二番目に頭が混乱した日だったなぁと思う。ちなみに一番はつい最近、お付き合いを始めるときの和樹さんの告白だ。
再会した日は、なんだかすごく暑かったな。そんなに、何年も前のことってわけではないけど、なんだかちょっと懐かしい。
「こたつもそろそろしまわなきゃ、ですね」
「明日片付けようか。ゆかりさんのことだから引っ越し当日まで置いておくって言いだすかと思った」
「もう! たしかにすーっごく名残惜しいけど!」
「新居生活まで、一日だけの辛抱だよ。もちろん新居にはちゃんと用意してあるから。大きい座卓型のこたつ」
片付けちゃったら寒いなぁ、と天板に顎を乗せてぶつぶつ呟いていると。
「寒くても、僕が暖めるから大丈夫」
と、腰に腕が回される。
「なんかセクハラおじさんみたいでしたよ、今の」
「おじさんって言わない」
「ふふふ」
彼の肩に軽くもたれかかる。
「新しいおうち、楽しみです」
「ゆかりさん」
和樹さんの心地いい声。長い指が頬に触れた。
「これからも」
見つめる瞳は、とても穏やかで優しい。
「ずっと、よろしくね」
頷く代わりに目を閉じると、幸せなキスをひとつ。
「これからも。ずっと、よろしくお願いします。和樹さん」
ということで、こたつの話は同棲直前のお話へと繋がりました。
和樹さん、ゆかりさんを妻にしたいポイント、いくつあったんでしょうね?(笑)
同棲始めるのは年始特有のバタバタが少し落ち着いた時期なので、季節はちょっとずれるんですけれど。一番寒い時期ですよねぇ。そんな時期にこたつないの、辛い!




