266-2 いつも通りケータリングを届けにきただけのはずなのに(中編)
「ゆかりちゃん、CM出てみない?」
「……へっ?」
意味がわからない。いったい暁弥さんは何を言っているのか。
たっぷり五秒はかかってから叫ぶ。
「ええぇぇえぇっ! ちょ、ま、待って! なんで私!?」
「ゴリ押しでCM撮影に入ってきたアレが使えないから」
すぅっと冷たい表情を作ってきっぱり言い切る三人に、こちらも冷や汗が流れ表情が引き攣る。
「どうしたんだい?」
給湯室からコーヒーの香りを連れて戻ってきたマスターが話に加わる。お兄ちゃんがマスターと入れ替わりでスタッフの皆さんにコーヒーをふるまいに行った。
マスターに簡単な説明をしてから小さく溜め息を吐いて、和樹さんが続ける。
「僕としても可愛いゆかりさんを衆目にさらすのは非常に不本意です。ゆかりさん、ストーカーとか危ないのに好かれやすいから。ですが、撮影日が今日しか取れないので仕方ありません。心配しないで。映るのは一瞬ですし、できるだけピントが合わないように撮ってもらいます。パッと見では絶対ゆかりさんとはわからないようにします。僕とリョウさんの腕はご存じでしょう? 大丈夫です。大船に乗ったつもりで。お願いします!」
二人の腕前は知っているけれど、モデルがわたしでは泥船に乗った気分にしかなれません。
「で、でも……私だと気付かれなくても彼女とはだいぶ年齢差ありますし、いろいろ不具合があるのでは?」
「ああ、それは大丈夫。むしろゆかりさんの方が元々のコンテには合ってるんだよ。そもそも歳の差婚設定なんかないんだから」
外面のいい二人が舌打ち混じりに告げてくる事実でいろいろなことがわかってしまう。本当に苦々しく思ってるんだ。マスターや子供たちまで同情の表情を浮かべ始めた。この流れは……ううう。
そこへCM撮影の監督さんという人がやってくる。
「石川さん。本当にお手数とご迷惑をおかけするとは思うのですが、なんとか! なんとか撮影にご協力いただけないでしょうか」
「す、スタッフさんで誰か……」
「撮影時に手が空いているスタッフはいません」
「あ……そうですよね、すみません」
畳み掛けるようなお願いと、こちらをじーっと見守るスタッフさんたちの視線が痛い。そこにとどめの一撃がきた。
「お母さんもCM出るの? じゃあ真弓とお揃いだね。嬉しい!」
にこにこと告げる愛娘の一言に、終わった……と目を閉じる。はあ、と息を吐いてからゆっくりと目を開ける。
「……わかりました。お引き受けします」
「ゆかりさん、ありがとう!」
抱き着いてきた和樹さんが、私を持ち上げてくるっと一周した。
「きゃあ!」
周りにいる女性スタッフから「なんか昔の少女漫画の告白成功シーンみたい」という声があがっていた。
「……あながち間違ってないな」
暁弥さんが苦笑気味の表情を浮かべて、ぽつりとつぶやいた。それから大きな声でスタッフに告げる。
「本日の主演女優が決まったよ! 以前このCMで僕の娘役をしてくれた真弓ちゃんのお母さんがこのCMで僕の妻役を引き受けてくれた! さあ皆、食事にしよう! その後本番撮影だ!」
嬉しそうな歓声が上がった。皆が喜んでくれるなら、まあいいか。
マスターや子供たちがふるまって、皆がケータリングを食べている間、私はメイク室でお兄ちゃんと和樹さんの手で別人になっていく。
CM撮影で私が出演するのは、ふわふわのセーターにロングスカートで撮る室内のシーンと、浴衣で花火を見るシーンの二カットらしく、先に浴衣のシーンと撮影するそうだ。
今回は浴衣でうなじを見せて後ろ姿を撮る前提だったのだが、先程の女性はこれでもか! というほど日焼け跡がくっきりしていて、普通のメイクで隠せるレベルではないらしい。カメラにばっちり映ってしまうとんでもない厚塗りドーランか、これから何時間もかかる特殊メイクしかないとか。それは叱りたくなるのもわからないでもないなぁ。
浴衣の着付けは、和樹さんがきっちりとしてくれた。用意されていたのは白地に藍色で模様の入った浴衣で、うなじをきっちりと抜かれる。
半幅帯をみやこ結びにしてくれて、帯締めもきっちりと。帯留めやウサギの根付まで用意されている。
「この根付、可愛いですね」
「気に入りましたか? それ、ゆかりさんのために買ったものです。よくお似合いですよ」
ぱちくりとまばたきを一つすると、和樹さんが嬉しそうに笑った。私もふわりと笑い返す。
髪型は、お兄ちゃんが夜会巻き風のアップスタイルにして、目を引く簪をつけてくれた。簪に目がいけばゆかりの顔は気にならない人も増えるはずだから、と言われた。なるほどね、そういうヘアアクセサリーの選び方もあるんだ。
浴衣での撮影は台詞のないイメージシーンのひとつで、五分程度で終わった。花火を見ながらおしゃべりしてるシーンが撮りたいと言われたので、ふたりで石段に座って、たまに上……というか空を見上げながらおしゃべりしてたら、あっと言う間に終わってしまった。
私は最近家族であの稲荷神社に行って花火大会の花火を見たという話をした。暁弥さんは笑いながら「そうかそうか」「へぇいいね」と楽しそうに聞いてくれた。一方的に私がしゃべっているだけだったような気がするけれど、大丈夫だったのかしら?
真剣な眼差しで撮影した映像をチェックしていた暁弥さんと和樹さんと監督さんが顔を見合わせ頷き合っている。
「オッケーでーす! 次のシーン準備しましょう!」
監督さんの号令で空気が弛む。わたしもホッとした。暁弥さんがこちらに来て、肩をポンと叩く。
「ゆかりちゃん、お疲れ! 次のシーンの撮影は僕だけだから、着替えて少し休憩してて。その後にもうひとつ、ゆかりちゃんのシーンね」
「あ、はい」
それじゃリョウ借りてくよとひらりと手をふって去っていった。
メイク室に入ると、お兄ちゃんから声がかかる。
「あ、ゆかり。お疲れさん。次の衣装そこだよ」
黒のタートル、ベージュ色に紺色と灰色と山吹色を使ったアーガイル模様の入った大きめのカーディガンに、キャメル色でロング丈の巻きスカートと深緑色のタイツが置かれていた。
衣装を手に取ると、シャーッと音がした。さっさと次の衣装に着替えた暁弥さんが更衣室から出てきたところだった。
「さあどうぞ、お姫様」
「あ、ありがとうございます」
更衣室のカーテンを開けたまま案内される。昔から知っているお兄さんだけに、ちょっぴり照れてしまう。中に入ると、外からカーテンをきっちり閉めてくれた。すぐに「それじゃリョウ、頼む」「任せろ」と会話が聞こえてきた。
そそくさと着替えて外に出ると、兄が驚いていた。
「ゆかり、もう浴衣畳めたの?」
「ううん、まだ」
小さく首を横に振る。浴衣は持ち運べるように小さく折り畳んだだけで、まだちゃんと畳めていない。
「なんだ、びっくりした。浴衣はそこの衣紋掛けに掛けてくれればいいよ」
たくさん衣裳が並んでいるところに、何も掛かっていない衣紋掛けが二つさがっていた。ゆかりはそこに浴衣を掛ける。半幅帯も一緒に掛けた。もう一つの衣紋掛けには肌襦袢をかける。
鏡台前のスツールにふうと腰をかけると、お兄ちゃんがコーヒーを持ってきてくれた。
「ありがと。ふう、やっぱり普段の味は落ち着くね」
「そっか。良かった。それ飲みながら次のメイクの話しよう。浴衣の時は照明が暗いから、全体的に、ふだんゆかりがしないような赤が強めの濃いメイクにしてたんだ。ほら、ルージュもだいぶ赤いだろう?」
「あ……ほんとだ」
紙コップに付いた口紅はワインのような色をしていた。
「次は明るい室内のシーンだし洋服だから、髪型もメイクも変えようと思う。チークやシャドウはオレンジ系で、口紅は肌に馴染む自然なピンクベージュ。ラメは使わない。まあ顔はほぼ映らないはずだけどね。それで髪型なんだけどね、最初は普段のゆかりと同じようにポニーテールで一つにまとめようかなと思ってたんだけど、顔バレしにくいように、まとめないでふんわりさせたほうがいいかなとも思ったんだよね。どっちがいいかな」
「え、えーっと……それって、元々ポニーテールの設定だったってことだよね? どっちがいいのかな。監督さんや和樹さんに確認したほうがいいよねぇ」
「監督は好きにしていいって言ってたよ。ゆかりならどんな髪型でもCMのイメージが崩れることは絶対にないからって」
「そ、そう……?」
女優でもなんでもない平凡一般人な私への過大評価にちょっと気後れする。




