264-1 オレンジ色の(前編)
なんにもなかった頃のゆかりさんと和樹さん。同僚として買い出しに行くだけだったはずなんです。
マスターに頼まれて、二人で買い出しへ出かけた。今回は大型量販店ではなく、近所のスーパーだ。
車の助手席に彼女を乗せて出かけるのもいいけれど、二人でのんびり歩くのも悪くない。
買うものは決まっているので、時間もそうかからなかった。
会計後に「休憩時間も兼ねているし、少し歩きませんか?」と言ってしまったのは、空が高く、日差しも夏に比べればずっと優しく、台風が湿った空気を追い払ってくれたおかげで乾いた空気が気持ちよかったからだ。他意はない、決して。
彼女は一瞬考え込んでから、小声で「……炎上」と言った。
ほんの少しの遠回りだ。マスターも怒らないだろう。少し大きな公園まで足を延ばすと、彼女は空いているベンチに荷物を置いて、走り出しそうな勢いで花壇へ近付いていく。その足取りは軽く、ワンピースの裾が細いふくらはぎの上でひらひらと踊っている。
ほら、と思ってにんまりする。ここへ来ること、あんなに乗り気じゃなかったくせに、来たら子供みたいにはしゃいでるじゃないか。
花壇は色とりどりの秋の花々で満開だ。
「和樹さん、和樹さん!」と呼ぶので、僕もベンチへ荷物を置くと(盗難はまあ、心配ないだろう。公園内は時間的に幼い子供を遊ばせている親子が何組かいるだけだった)彼女の傍へ近寄る。
「秋バラですよ…きれいですね」
「本当だ」と答えながら、つるりとした彼女のおでこに“きれい”と書いてあるのが見えるようで、僕は笑いをかみ殺す。
「夏の向日葵や朝顔や百日紅もきれいだけど、やっぱり秋の花はたおやかですねえ」
今度は“たおやか”と書いてある。
たしかに、秋バラやコスモス、それから見たことはあるが、名前を知らない花々で花壇はとても美しい。
「そうですね」
「あら、それだけ?」
「……それだけって?」
「いつもだったら、ここで蘊蓄のひとつやふたつ出るじゃないですか」
「え」
「秋の花について。さあさあ、何かあるでしょ?」
「――いや、それ、さすがに無茶ぶりでしょ」
「えー? 本当にないんですか?」
「ゆかりさん、いつも思うんですけど、僕のこと少し過大評価してますって」
「なーんだ。せっかく聞いてあげようって思ったのに」
「え? いつも頑張って聞いてくれていたんですか?」
「まさか! 知らないことを色々教えてもらって勉強になるし、とっても楽しいですよ!」
「そんなに楽しみなら言いますけど、俳句の季語で秋の植物といえば……」
「和樹さん、その話、長い?」
「ほら、聞く気ないし」
ふふふと彼女は笑うと、あ、写真撮ってマスターに見せてあげましょうと言いながら携帯をポケットから出す。しゃがみ込んでパシャパシャと角度や距離を変えて、今を盛りに咲いている花を何枚も撮っている彼女を、僕も撮った。広いおでこ、肩にかかる髪、秋の日差しに輝く頬、画面を覗く真剣な瞳、花に触れる優しい指先など――何枚も何枚も。
もちろん、脳内カメラに、だが。
その後、ベンチに座って、マスターがお駄賃にしていいと言ってくれたおつりで買ったペットボトルのお茶を飲みながら、ひと休みした。
彼女は機嫌よく、あれこれ話す。それは彼女の日常の徒然で、報告ではないし、連絡でもなければ、相談でもない話ばかりだ。しかし、ささやかで、若い女性の平和な生活を彩っているあれこれは、聞いている僕をとても穏やかな気持ちにする。
僕もここぞとばかりに蘊蓄を披露し、「なんでも知ってますねえ」と感心されたり、「その話、前にも聞きました」と嫌がられたりした。
「じゃあ、じゃあ、和樹さん、おはぎとぼたもちの違い、知ってますか?」
僕が淀みなく秋の七草を言い終えると、彼女から新たな挑戦が突き付けられる。
「もちろんです。基本両者は同じものですが、食べる時期で呼び名が違っていて、春のお彼岸に食べる時は牡丹に見立てて『ぼたもち』、秋のお彼岸には秋の花、萩にちなんで『おはぎ』と呼ばれるようになったようですね。まあ、ざっくりとですが」
「くうううう…全方位隙なしじゃないですか!」
はははっと思わず笑う。
「あ、おはぎ!」
「はい?」
「あのね、うちの」
と言いかけて、彼女はぱくんと口を噤んだ。
「……? ゆかりさん?」
「あ、いえ、なんでもありません」
と、何でもないアピールをするように手の中のお茶を飲む。
「言いかけて止めるなんてずるい。教えてくださいよ」
「なんでもありません。忘れてください」
「教えてくれないと、もう、賄い作りませんよ」
「えっ」
「もしくは、今日、急に階段から落ちて怪我しますから」
「何それ! どういう脅しですか!」
「さあ、さあ、おはぎがなんですか?」
「えーっと、ですねぇ……」
「はい」
彼女はすっかりうつむいてしまう。
「……我が家のおはぎが美味しいって話です」
「ほお」
「今年はもう、秋のお彼岸は終わっちゃったし……来年の春のお彼岸に……その、ぼたもちを和樹さんにもご馳走します……って言いたかっただけです……から……」
ちらりと僕を見上げる瞳が、揺れている。それを見返す僕は、どんな顔をしている?
ほら、早く返事をしろ! 奇妙な間を作るんじゃない!
それなのに、僕は彼女に返す言葉を持っていない。唇には笑顔を張り付けたまま固まってしまっている。
――素敵ですね。楽しみにしています。
そう言えばいいんだと分かっている。息をするように嘘を言って、決して果たされない、来年の約束をすればいいんだ。
さあ、笑って。頬をもっと上げて。
言え。虚しい嘘を吐け。
お前ならできる。できるはずだろう――!
気付くと、彼女が僕を見上げていた。その大きな瞳に浮かんでいる戸惑うような光で、ようやく気付く。
彼女は知っているのだ、と。いつまでも、彼女の傍にいる訳ではないことを。
さっき突然会話を打ち切ろうとしたのがその証拠だ。彼女は、自分に嘘を吐かせまいとしたんじゃないか? ある日突然姿を消すだろう男に、来年の約束をさせまいとしたんじゃないか? 自分が傷つくからじゃない。俺の気持ちに負担をかけまいとして……。
「――和樹さん?」
その声に、ふっと息が抜けた。
「すみません、ゆかりさん。実は、僕、あんこが少し苦手で」
「え? あっ、そうなんですか?」
「ええ……お饅頭に入っているくらいなら大丈夫なんですが、ぼたもちは少し重いというか……」
彼女はほっとしたように笑った。おでこには“助かった”と書いてある。
「知りませんでした。和樹さんにも苦手なものがあるんですね」
「そりゃありますよ」
「弱点発見ですね」
「弱点」
「これをネタに強請ります!」
「ゆかりさん、見かけによらず、中々の悪女ですね」
彼女はふふふっと笑った。僕もはははっと笑う。
けれど…彼女のおでこには、はっきり“嘘つき”と書いてある。そして、前髪に隠れてはいるけれど、自分の額にはきっと“その通り、それの何が悪いんだ?”と書いてあるに違いない。
「そろそろ帰りましょうか」
彼女はお茶にキャップをすると、荷物を持って立ち上がる。
「そうですね」
僕も、そそくさとそれに倣った。並んで歩き出す。先ほどまで二人の間にあった、暖かで穏やかな空気は既にない。
「マスターに悪いことしちゃいましたね」
「少し、のんびりし過ぎちゃったかな」
空々しい会話をしながら、足早に公園を横切る。ふっと鼻腔を掠める香りに気付き、足が止まった。
「あ、これ……」
と思わず口にして、数歩先の彼女が「はい?」と振り向いた時だった。
突然、右手の植え込みの陰から勢いよくスケボーに乗った少年が飛び出してきた。
先ほどの会話を反省しつつ、何でもない振りをすることに気を取られていて辺りの警戒を怠った自分のミスだった。公園前の通りの工事の音で、スケボーの音が紛れてしまったなんて言い訳にしかならない。
「ゆかりさ……っ!」
彼女は悲鳴を上げる暇もなく、その少年との衝突を避けようとする。両手は重くて大きい荷物でふさがっているし、見ることも敵わない足元で、彼女はあっけなくバランスを崩し、大きくよろけた。少年との衝突は回避できるけれど、このままでは倒れて――!
僕は荷物を放り出す。
一瞬で倒れかかっている彼女の背後へ駆け、その全身を抱え込み、無理な体勢を堅持しつつそのまま一番安全な場所へダイブする。
メリメリとか、バキバキとか、耳元で音がした。
それでも、腕の中の大切なものを守るために、ぎゅっとその体を抱きしめる。




