263 うちの子におなり
ゆかりさん妊娠中のお話。
ゆかりが初めての妊娠を和樹に伝え、自宅に帰って数十分後。
ウキウキというかほくほく笑顔の和樹がそこにいた。
「初心者向けの雑誌とか育児本とか、ネットでいろいろ購入してみました。明日中には届くはずですから、一緒に読んで勉強しましょうね、ゆかりさん」
「はい! あ、それでですね、ブランくんのお散歩なんですけど」
「うん?」
「ゆっくり歩く分には問題ないそうなんですけど、さすがに運動させてあげるのは難しそうで。ただでさえ私との散歩だと運動量が足りないみたいで、いつも帰ってきてもまだ興奮して家じゅう飛び回ったりしてるから」
「ああ……僕に合わせちゃったもんな。いつもすみません」
「いえいえ。なので、便利屋サービス検討してみたんですけど」
「はい」
ゆかりはチラシを数枚取り出して見せた。
「このチラシの便利屋さんをいくつか使い比べてみたんですけど、こちらにお願いしたときがブランくんが一番満足そうだったんです」
「うん、よく見てくれててありがとう。でもゆかりさん、本当に無理な運動とかはしないようにね?」
「はーい。あ、でもね、駅のちょっと向こう側にマタニティヨガの教室とかあるみたいなんで、そこに行きたいなぁと思ってるんですけど……ダメ?」
「専門家の許でしたら、僕も安心できますよ。ああ嬉しいなあ、本当に」
とろけた天使のような美貌が泣き笑いでゆるりと抱きしめてきて、今度はゆかりが泣きそうになった。
◇ ◇ ◇
すっかりゆかりのお腹も大きくなって、いつ産まれてもおかしくない時期になった。
自分では靴下も満足に履けなくなってしまって、心もちしゅんとしていたゆかりに、和樹はヘアサロンとネイルサロンを予約してくれた。ブランを連れて店に行き、店の人にブランを預けて自分は施術を受ける。ヘアサロンでは髪を短くして、最近行き届かなくなっていたシャンプーと頭皮ケアをしてもらう。その足で隣接するネイルサロンへ行く。ネイルサロンでは手足の爪を切り揃えるのはもちろん、最近むくみがちな手足のマッサージもしてもらって、ゆかりは笑顔で店を出た。
「じゃあブランくん、喫茶いしかわに行こうか」
「アンッ」
「いらっしゃいませ」
「いらっしゃいましたー。えへへ。ブランくんも一緒だから、テラス席にしますね」
「あら、大きなお腹抱えてるんだから、中にいたほうがいいんじゃない?」
「でもブランくんが……」
「じゃあ、ブランは俺たちと遊びに行かないか?」
「アンアンッ」
十年来の常連客である大学生たちの提案に、ブンブンと尻尾を振って喜ぶブラン。
「そこの河原で二時間くらい遊ばせてこようと思いますけど、いいですか?」
「ええ。ブランくんも遊び足りてないみたいだし、むしろこちらからお願いします。ありがとね」
「どういたしまして」
「お礼に、このお会計はこちらで持たせて」
「えっ、いいんすか?」
「もちろん!」
「ありがとうございます! ご馳走になります!」
にかっと笑った大学生たちは、ブランを連れて店を出ていった。
「……もしかして、気を遣わせちゃったかしら」
「いいんじゃないか。こういう時に他人を頼ったって」
「そうそう。どうしても気になるなら、あとでちゃんとお返しとかお礼とかすればいいよ。和樹くんに相談してもいいんじゃないか。元々は和樹くんの飼い犬だったんだろう?」
休憩に来たらしい商店街のおじさまたちになだめられた。
「そうですね。うん、そうします」
トレンチにお冷や代わりの白湯とおしぼりをのせた梢が楽しそうに言う。
「さすがにカウンター席じゃお腹つかえちゃうから、今日はテーブル席ね」
「はい。あ、お腹蹴った」
「あらあら。食いしん坊なゆかりの子だから、コーヒーやごはんの匂いに反応したのかしら? ふふっ」
「お母さんたら、もうっ」
「ははは。ゆかり、何食べたい? なんでも作ってやるぞ」
「うーん。今日の賄い! たまに食べたくなっちゃうの」
「くすっ。了解」
「お待たせしました」
「わあっ。今日は豚汁と八宝菜なのね。やったぁお母さんの糠漬けもついてる。いただきます」
豚汁を一口飲んでほうっと息を吐くと、糠漬けをパリポリと齧る。
「んーっ、美味しいぃ」
そこからは、一口は小さめながらも箸が止まらず、すべてぺろりと平らげた。
食後のコーヒーをいただく頃にはランチタイムも終了し、アイドルタイムに突入していたため、お昼の賄いを食べるマスターや梢とおしゃべりしながらまったりと過ごしていた。
「ほんと、すっかり大きくなったわよね」
梢が目を細めながらゆかりのお腹を撫でる。
「うん。たくさんお腹蹴ったりしてくるし、きっと元気な子だと思う」
「そういえばゆかり、ブランくんのお世話、普段はどうしてるの?」
「和樹さんができるだけ自分でやるよって言ってくれるんだけど、出張の多いお仕事だからどうしてもなかなか。お散歩はハードな運動になっちゃうから、妊娠が分かったときから定期的に便利屋さんにお願いしてるの。ただね、最近はお腹が大きくなったから、ブランくんの餌やりが大変で」
「ああ、そうか。しゃがんで置いてやるから」
「うん」
くすくすと笑いながら話すゆかりはあまり苦労を感じさせない。
「……ねえ、ゆかり」
「何?」
「ブランくん、しばらくうちの子にしてもいいかしら?」
「え……?」
いきなりの梢の提案にゆかりはびっくりして、ぽかんと口を開けてしまう。
「今はお腹が大きくてお世話が大変みたいだけど、これから子供が産まれたら、もっと大変になるわ。授乳で寝る暇もなくなるし」
「あ……」
「もちろん和樹さんと相談してから結論を出してくれればいいけれど。うちで預って、喫茶いしかわに一緒に出勤するようにしたら、お客さんが遊んでくれるだろうし。もちろん運動量が足りないようならその、ゆかりたちがお願いしてる便利屋さんに頼むようにするわ。どうかしら?」
「う、うん……和樹さんに相談してみる」
「こんにちは」
そのとき、カランというドアベルの音とともに入ってきた客は和樹だった。
「ああ、いらっしゃい。そこにゆかりが来てるよ」
「ゆかりさん!」
ゆかりを見てぱっと表情を明るくする和樹。ささっと近付いてゆかりの手をとる。
「ああ、爪が綺麗になってますね。ネイルサロンはどうでしたか」
「とっても良かったです。腕や足のマッサージもしてもらってすっきりしました」
「それは良かった」
表情を緩めながらゆかりの指先にキスを落とす和樹。ゆかりはぱちくりと大きく瞬きをすると、ほんのり頬を染める。
「あらあら、相変わらずお熱いわねぇ」
ころころと梢が笑った。
「はい。僕はゆかりさんのおかげで毎日幸せです。あ、コーヒーひとつ、お願いします」
ゆかりは手を掴まれたまま、勢いこんで告げる。
「あ、あのですね! お母さんから提案されたんですけど!」
「お義母さん、ですか?」
ブランを実家で預ってもらうことについて、和樹に話した。今、ブランの散歩をお願いしていることも。ゆかりの話を静かに、ふむふむと聞いていた和樹は「わかりました」と落ち着いた口調で言う。
「それでは、ゆかりさんのご実家にお願いしましょう。僕も、しばらく出張が減ることはなさそうですし」
くるりとマスターと梢のほうを向くと、頭を下げる。
「お義父さん。お義母さん。ブランのこと、よろしくお願いいたします」
「ああ」
「もちろんブランくんなら大歓迎よ。ただ、一つだけ文句言ってもいいかしら?」
「は、はい。なんでしょう」
「なんで“ゆかりさんの実家”なの? ウチは、あなたの実家でもあるのよ! そうでしょ?」
ほんの一瞬だけ目を見開いて、何かを噛みしめる表情をした和樹。
「……そうですね。本当にそうだ。失言でした。すみません」
「そうそう。わたしたちは、和樹くんも大事な自慢の息子だと思ってるんだから」
にこりとして、和樹の頭を撫でる梢。
「うふふ、ブランくんが帰ってきたら、『ウチの子になって』ってお願いしなきゃ」
「ブランくんに、直接?」
「そうよぉ。嫌がることはしたくないもの。ま、渋られても説得するけどね」
からりと笑いながらの梢の一言に、思わず笑いがこぼれる。
和樹は頭の中でブランの引っ越しに必要な荷物の移動の算段をつけ始めた。
ということで、ブランくんは見事にお引越しを果たしたのでした(笑)
今ではふたつの石川家を行ったり来たりする生活を送っております。




