262 警戒心の正体
「33 赤い糸の行方」のしばらく前くらいのお話。
好意を持たれでもしたら厄介だ。はじめはそんな風に思っていた。しかし、石川ゆかりという人間に、自分はさして魅力的には映らなかったらしい。
「和樹さん、先に休憩入っちゃってください」
テーブルを拭き終えた彼女の笑顔がこちらを向く。店内に客はいない。休日の午後。ついさっきまで目が回るほどの忙しさだったにも関わらず、彼女の顔に疲弊の翳りはなかった。ついつい目を細めてしまいそうになる。
「僕が先でいいんですか。ゆかりさんも疲れたでしょう」
和樹らしく気遣えば、彼女は途端にじっとりとした視線で和樹に向けた。用の済んだ布巾を手に、こちらへずんずん近付いてくる。
「何言ってるんですか。分かってるんですよ。和樹さん、また寝ていませんね? お疲れなのはあなたでしょう」
白くて細い人差し指で、つんと胸をつつかれる。また、ばれていたらしい。今日の出勤前に鏡を確認したが、隈などは見当たらなかった。疲労など、微塵も見せていないつもりだった。それでも、また、暴かれてしまった。
彼女がこんなふうに自分を心配するのは、それが彼女にとって当然であるからだ。打算や他意などない。だからこそ、危なっかしいといつも思う。躊躇なく密接と言える距離まで入ってくるその無防備さも、まるで無意識のような接触も。他意がないと分かる相手であればいいが、もしも馬鹿な男の馬鹿な勘違いを誘発したら?
「ゆかりさんは何でもお見通しですね」
白旗を挙げるふりをして、胸に突き付けられた指を捕らえる。そのままその小さな手を包み込むように握った。滑らかな甲を、親指の腹でゆっくりと撫でる。彼女はきょとんとした後で、得意気に胸を張った。
「そうですよ。だから隠したって無駄なんです。さ、分かったら休憩、先に入っちゃってください」
大して力を込めずに捕らえていた手が、するりと逃げていく。特に恥じらうような様子もなく、彼女はバックヤードへ僕を押し込んだ。
警戒も、動揺もない。予想通りの彼女の反応は、しかしこれまでの経験則とはあまりに異なる。かつて自分があんなふうに触れて、頬を染めなかった女がいただろうか。彼女は和樹に異性的な目を向けることがまるでない。そのことに、はじめは随分戸惑った。今もまだ、多少戸惑う。
「……ありがとうございます」
「しっかり休んでくださいね」
まるで子供に言い聞かせる様な口調。分かりましたね、と更に念を押されて、ぱたんとバックヤードの扉は閉じられた。当然のことながら、彼女の姿は木目調のそれに遮られて見えなくなる。
勝手に、手が伸びた。ドアへ掠めるように触れてから、はっとして引っ込める。自分をここへ押し込めて、満足そうだった彼女とは裏腹に、胸の内にはじわじわと不満が広がっていた。
彼女の、まったく色情の灯らない澄んだ瞳は美しいとは思う。しかし、はじめは戸惑いばかりであったそこへ、いつの間にか、どこからともなく他の感情が混ざるようになった。物足りなさと言おうか、得も言われぬ焦燥と言おうか。取るに足らないとするには少々手に余る、しかし足元を掬うほどの激しさはない感情。
ドアにくるりと背を向けて、外したエプロンをテーブルの上へ放ると、ソファへぼすりと身を沈めた。確かに、疲れている。目を閉じて、天井を仰ぐように、背もたれの上へ後頭部を乗せた。フロアから彼女の鼻歌が聞こえてくる。時折微かに陶器のぶつかり合うような音もするから、おそらくは食器を洗っているのだろう。
見てみたい、だなんて。
こんなことを、一体いつから、自分は考えるようになったのか。
カラン、とドアベルの音がする。誰か──客が来たようだった。「いらっしゃいませ」と軽やかなソプラノが聞こえる。洗い物をしていた手を止めて、来客に笑顔を向ける彼女の姿が浮かんだ。うつらうつらと意識が遠のく。ここは、居心地が良い。喫茶いしかわは、彼女の声は、ここは。
眠気に押し潰されたのは一瞬だったような気がする。しかし、途切れた意識がぱちりと繋がった瞬間、時計を確認すれば、すでに一時間が経過していた。
「──は?」
ぎょっとして、ソファから飛び起きた。迂闊としか言いようがない。休み過ぎだ。彼女はなぜ、自分を起こさなかったのか。気遣われたのか。まさかこんなところで、こんなに眠りこけてしまうなんて。
有り得ない失態に、慌ててエプロンを付け直す。そうして勢いよく、バックヤードのドアを開いた。
「すみませんゆかりさん、僕──」
眠ってしまいました。そんなふうに続けようとした言葉が、喉の途中で突っ掛かる。ドアを開いて目に飛び込んできたのは、あろうことか、フロアのど真ん中で見ず知らずの男と抱き合う彼女だった。
「──は?」
また、驚きの声が漏れる。否、驚きばかりではなく、そこには明らかな不快感が混ざっていた。和樹らしからぬ声。しかし目の前の彼女は、そんなこと気付きもしない。こちらを、振り返りもしない。何やら慌てた様子で、男の胸に手をついたまま、ぱっと男を仰いだ。その頬は、うっすら染まっている。
「す、すみません! 思いっきり頭から激突しちゃって……痛くなかったですか!?」
「大丈夫です。それより、怪我はないですか?」
「はい! キャッチしてくれてありがとうございました!」
そんな会話を聞きながら、ドアの前で立ち尽くす。事情はすぐに飲み込めた。どうやら彼女が転んだのを、男が抱き止めた……らしい。自分が目にしたのは偶発的に起きた抱擁だったのだ。しかし、どうにも気分が悪い。彼女の腰に回された男の手を、今すぐに振り払いたい。その距離を許したまま、至近距離で男を見上げている彼女を、今すぐにこちらへ引き寄せたい。
「ゆかりさん」
「あ、和樹さん。おはようございます」
呼べば彼女はようやくこちらに気付いた。舌打ちしそうになるのを堪えて、つかつかと近付く。男が多少気まずそうな顔をしたのを見て、また、苛立ちが増した。いまだ呑気に男から離れようとしない彼女の手首を、がしりと掴む。そうしてぐいと引けば、その身体は簡単に傾いた。
きゃ、と軽い悲鳴を挙げた彼女を、そのまま自分の背後へ引き込む。男は眉をしかめた。その目に、自分が邪魔者として映っているのが分かる。
馬鹿な勘違いをする、馬鹿な男か。
その手には伝票が握られていた。にこりと愛想の良い笑みを浮かべる。
「お帰りですか、お客様」
ち、と舌打ちしたのは男の方だった。さっき彼女に見せていた、紳士的な笑みは自分の登場と共に消え失せ、あからさまな敵意がその瞳の奥に光っている。
失せろ、と言われた気がした。しかしそれはこだまであったのかもしれない。
男は会計を済ませて店を出た。レジは、自分が打った。去り際「またね」と負け惜しみのような台詞を彼女に吐いて、男は消える。また、店内に客はいなくなった。フロアの真ん中に置いてけぼりを食らって、いまだ戸惑っているような彼女に、和樹はにこりと笑う。
「さっきの方。よくいらっしゃるんですか」
「はい……たまに。和樹さん、どうしたんですか?」
「どう、とは?」
「何か、変です。何か怖い。怒ってる?」
首を傾げる彼女は、きっと何も分かっていない。さっき染まっていた頬は、平常に戻っていた。あれは失態に対する羞恥心であったのか、異性に抱き止められたことに対する羞恥心であったのか。男の行動をすべて善意で片付けてしまっているような彼女に、いっそのこと、思い知らせてやりたくなる。それができれば簡単だ。しかし、できないから難しい。
「もしかして、起こさなかったからですか?だって、気持ち良さそうに寝てたし……起こしたら可哀想だと思って」
「本当ですか? 僕、邪魔者だったんじゃないですか?」
「どうして?」
「だって。随分といい雰囲気に見えましたよ。さっき」
「やだ! そんなんじゃないですよ!」
かあっとまた、彼女の頬に色が付く。それが、気に食わない。そんな反応を望んでつついたわけじゃなかった。常連客に和樹との仲を疑われたときは、むしろ真っ青になるくせに。
「──ゆかりさんに、その気がなくても」
さっき男の手が添えられていた場所へ、華奢な腰へ、手を伸ばす。それを静観する彼女にまた腹が立つのは、一重にその身が良からぬ輩の毒牙に掛かることを案じているため、であるはず。彼女の美徳とも言える清廉さが、汚されることを危惧しているから、であるはず。
「相手は、分かりませんよ」
「えっ」
ぐい、と引き寄せたところで、初めて彼女は動揺を見せた。しかしそれでは遅いのだ。あっという間に腕の中に彼女は収まる。さっき見た光景。フロアの真ん中で、抱き合う男女。見ず知らずの男と彼女、ではなくて。自分と、彼女。
「あ、あのっ……和樹さん?」
「あまり心配を掛けないでください」
あくまでも、ただの同僚として。彼女の平和な日々を願って。「心配」だなんて言葉で飾り付けておいて、しかしこの時自分を満足させたのは、ようやく染まった彼女の肌だった。頬は生憎と見えなくても、この耳の赤色は、紛れもなく自分が染め上げたものだ。馬鹿な男の馬鹿な勘違いを、煽る色。つい、腕に力が籠る。ひ、と彼女は喉を鳴らした。
「炎上! 炎上します! 離れて!」
小さな手が胸板を押す。今の和樹ではこの辺りが限界だ。自分が“良からぬ輩”に成り果てるわけにはいかないから、あっさりと解放してやった。彼女は素早く距離を取る。まだ赤みの引かない頬を、やっと目の前に拝むことができた。さっきより、一層赤い。気分は、悪くない。
「すみません。でも、いつも言っていますけど。ゆかりさんはもう少し警戒心を持った方がいい」
「人並みには持ってます!」
「どうだか。今みたいに、僕に簡単に捕まってしまうようじゃ、説得力がありませんね」
「それは和樹さんだからです!」
「信用していただけるのは嬉しいんですけど。僕だって、男ですからね」
誰にも触れさせたくないと思うのは、庇護欲から生じるもので、独占欲などではない。そうは思うのに、あくまでも自分は「男」であると彼女に認識させたいのは、自尊心からくる願望であろうか。
「……何か、やっぱり、今日の和樹さんは変です。違う人みたい」
彼女のその台詞に、核心を突かれたような気分になった。
ということで、和樹さんが自覚を否定したくて必死で抗っている頃……かな?
つい「和樹さん、そういうのを無駄な抵抗って言うんですよ?」と思いながら喫茶いしかわの壁になってにまにま眺めたくなっちゃいますよね。




