255-3 if~とろけるキスをしたのなら~(中編2/2)
和樹さんは本当に忙しいようで、食事に行ったりお出かけする時間はその後も一度も取れなかった。
その代わりに、ラストオーダーの時間に頻繁に店へと訪れ、私を家へと送ってくれるようになった。
道中、色気を含むような話をすることはないけれど、たまに熱い視線が絡まることはあった。
別れ際もまちまちだった。
先日のように熱いとろけるキスをしてくることもあれば、頬に軽く触れるだけで終わる日もある。何かの法則があるようにも思えず、それは単に気まぐれなのかもしれない。
この関係をどう言えばいいのだろうか。
私はそれをずっと悩んでいる。友人や元同僚としての関係ならあんなキスをすることはないだろう。しかし、交際を申し込まれたりもしていない。それどころか明らかな好意を口にしてもらったこともない。
いっそのことキスから先を求められたりしていたら、そういった割り切った関係を求めているのだと納得できるのに……。まぁそれには、なぜ和樹さんのような人が私みたいな平凡オブ平凡を選ぶのか……って疑問も付きまとうのだけれど。
とにかく私はまったく答えが見いだせずにいた。かといって自分で聞く勇気もないのだ。
「はぁ……」
私は小さくため息をつく。今日もそろそろラストオーダーの時間だ。もし和樹さんが来るとしたら……なんて考えていると、軽快なドアベルの音が店内に響いた。
カランカラン。
「いらっしゃいませ」
声をかけながらドアの方を見ると、予想通り和樹さんが入ってきた。
「こんばんは、ゆかりさん」
にこやかに微笑みながらいつもの席へと着く。
「今日も同じで良いですか?」
「はい。よろしくお願いします」
「かしこまりました」
いつも通りのやり取りだ。
おそらくコーヒーを一杯飲んだ後、閉店作業を手伝ってくれて、家まで送ってくれる。
他愛もない会話をし、そして帰り際に……。
私はそこまで考えると赤面するのを紛らわすように、小さく咳払いをした。
結局こうして答えの出ない日々がまた積み重なっていく。
このままじゃいけないって思っているのだけど……。
すると、決着をつけたい、との私の願いが神様に届いたのだろうか。
この日、事態が大きく動いたのだ。
「お待たせしました」
私が和樹さんへ、いつも通りにコーヒーを差し出す。すると、ここで思わぬ来客があった。
カランカラン。
ドアの方を見ると、最近よく来店されるお客様が息を切らせて立っていた。
「いらっしゃいませ! あっ酒井さん!」
「ごめん、ゆかりちゃん。まだ大丈夫? コーヒー一杯だけ飲ませてほしいんだけど」
どうやら急いで走って来てくれたようで、肩が激しく上下に揺れている。
「ふふ……大丈夫ですよ、空いてる席へどうぞ」
なぜかカウンターの端から妙なオーラを感じながらも、私がそう案内すると「ありがとう」と言って酒井さんは和樹さんから一つ空けて席に着いた。
「いつものブレンドでいいですか?」
「ああ。ありがとう。いやぁ、明日からしばらく海外出張なんだよ。だからどうしても今夜、ゆかりちゃんに会っておきたくてさ」
酒井さんはそう言ってふぅっと息をつくと、爽やかに微笑んだ。
「海外ってどこに行かれるんですか?」
「イタリアだよ、ちょっと買い付けにね。お土産買ってくるよ。何がいい?」
ポンポンと軽快に飛ぶ会話は心地良い。酒井さんは三十代前半の、明るく爽やかな青年だ。
「いいですよお土産なんて。お気持ちだけで。はい、ブレンドです」
「あ、ありがとう。いや、何か買ってくるよ。ゆかりちゃんにはお世話になってるし」
酒井さんはそう言って嬉しそうにカップに口をつける。小さく「うまい」と呟くと、もう一口、今度は味わうようにゆっくりと飲んでいく。
ふと気になってチラリと和樹さんを見ると、私をじっと見ていたみたいで、バッチリと目が合ってしまった。なぜか責めるような眼差しをしている。そのあまりの鋭さに、慌てて視線を酒井さんへ戻してしまった。
え、なんで? 怒ってる……?
怒らせるようなことをしただろうか。まぁ、こんなギリギリの時間に和樹さん以外の来客があることは滅多にないけど……。
「ところで、ゆかりちゃん。あの話……考えてくれた?」
少し経ってから酒井さんがおずおずとそう口にした。
「あぁ……あの話ですか?」
私は、和樹さんに聞かれたくないなぁ……とチラリと考えてしまう。
「そう、デートの話。帰国したらさ、お土産も渡したいしどっか遊び行こうよ」
その瞬間、カチャンと和樹さんがカップを置く音が妙に大きく響いた。私はビクリと反応してしまったが、酒井さんは気にする様子はない。
どうしよう……参ったなぁ……。
私は気まずさを感じながらも、覚悟を決めて口を開いた。
「あの……私、今はまだそう言う気持ちになれなくて……その……ごめんなさい」
酒井さんは良い人だ。少し強引なところはあるけど、気持ちは素直に表してくれるし、見た目だって爽やかで清潔感がある。本当ならデートくらいしてもいいのだろうけど、今、この中途半端な気持ちのままではそんなふうに思えなかったのだ。
「堅苦しく考えなくてもいいんだよ。軽い気持ちで遊び行くだけだからさ、なんなら食事だけでも」
「いや……でも……」
「だってゆかりちゃん彼氏いないんでしょ? 先週そう言ってたじゃん」
その瞬間、空気が凍ったのが分かった。
私はその時、和樹さんの方は一切向くことができなかったけど、どんな顔をしているのかはだいたい想像がついてしまった。
でも考えてみれば、間違ったことは言ってない気もするけど……彼氏……じゃないもんねぇ。
「そ、それは……」
「ねぇ、食事だけでもさ」
「でも、やっぱり無理です」
「そう言わないでさぁ……」
「うぅ……」
「あの、お話中すみませんけど、彼女、困ってますよ」
私が返答に窮していると、耐えきれなくなったのか和樹さんが会話に割って入ってきた。
「は? あなたには関係ないでしょう?」
酒井さんは和樹さんの方を見て、その外見に一瞬驚いていたが、すぐに強い口調でそう言った。
「関係あってもなくても、彼女が困ってるのは見てわかる」
和樹さんはそう言いながら、恐ろしいほど冷たい視線を酒井さんに向けた。横顔しか見ていない私でもゾッとしてしまうほどの表情だ。
「はっきり君の誘いは断ってるんだから。ねぇ、ゆかりさん?」
「は、はい! あの……その……ごめんなさい!」
和樹さんに促されるようにそう言うと、私は酒井さんに深く頭を下げた。和樹さんはそれでも不満なようで「頭なんか下げなくていいのに」とかブツブツと呟いている。
「わ、分かったよ……ごめんね。しつこくしちゃって。またコーヒー飲みに来るから!」
和樹さんのあまりのオーラに圧倒されたのか、カウンターにお金を置くと酒井さんはそそくさと店を出ていってしまった。
「ありがとうございました。またお待ちしてます! 出張お気をつけてー!」
私はどんどん小さくなるその背中に大きく声をかけたけど、酒井さんにそれが聞こえていたかは分からない。
店に戻ると、和樹さんは立ち上がっていた。変わらず不機嫌丸出しの顔のまま「送っていきます」と一言だけ言うと、いつも通りの閉店作業を始めてしまった。
「は、はい。ありがとうございます」
私はやっとの思いでそれだけ言うと、くるりと背を向けて大きなため息をついた。




