255-2 if~とろけるキスをしたのなら~(中編1/2)
「なら、おでかけは今度にして、今夜はお家まで送ってくれませんか? それなら少しお話もできますし」
私がそう提案すると、やっと再び視線が交差した。手首を掴んだ手は開かれ、いつの間にか私の手のすっぽりと包むように置かれていた。
「今夜だけじゃなく、来た時は毎回送っても?」
「はい、もちろん。和樹さんが良かったら、お願いします」
その言葉でやっと和樹さんが柔らかく笑った。納得したようなホッとしたような……嬉しさがこちらまで伝わってきた。それを見て、一度は治まりかけた心臓の鼓動が再び騒ぎ出す。
まさか、まさか……だよね?
自分に何度も聞いてみるけど答えは出なかった。
和樹さんみたいな人が、私のことなんか……。
答えに辿り着く条件はたくさん揃っているのに、どうしても導き出すのには勇気がいる。和樹さんがハイスペック過ぎるのがいけないのかもしれない。
そうこうしてるうちに和樹さんの手が私の左手を取った。するりと撫でると、そこを繋いだまま反対の手でコーヒーカップを持つ。そして、ゆっくりとまだ熱の残る液体を口にした。
「やっぱりゆかりさんの入れてくれたコーヒーは最高です」
和樹さんはそう言うと、思わず心臓が止まりそうになるほどの極上の笑顔を見せる。今度は私が慌てて視線を逸らす番だった。
「か、片付けしちゃいます……」
思わず動揺して繋いだ手を離すと、和樹さんが一瞬不満そうに目を細めた。
「手伝います」
「いや、いいですよ、お客さまなんですから!」
慌てて断ったけど、やはりそこで引く人ではない。和樹さんは、あれよあれよと言う間に閉店作業を始めてしまった。
「任せてください。二人でやれば早いですし」
上着を脱ぎ、腕まくりをするとテキパキと片付け始める。私は何だか以前の和樹さんが戻ってきたような気がして、つい懐かしくなってしまった。
二人でやればたちまち閉店作業は終了した。私は上機嫌の和樹さんに丁寧に感謝の言葉を述べて、着替えるためにバックヤードへと向かった。
「外で待ってますね!」
和樹さんの声に「はい! ありがとうございます!」と大きく返事をしてから、扉を閉め一息ついた。
静かに胸を押さえれば、ドキドキと手のひらにも鼓動が伝わってくる。何度か深呼吸してみれば少しだけ落ち着くことができた。
「急がなきゃ!」
私はそう口に出すと慌ててエプロンを外し、そっとロッカーにしまった。
急いで外に出ると、和樹さんが見慣れた愛車の側でスマホを怖い顔で見つめていた。
お仕事かな? なんて思いながら近づくと、すぐに気が付き顔を上げた。
「お待たせしました……」
小さな声でそう言うと、和樹さんは笑顔で助手席のドアを開けてくれた。ゆっくりと乗り込むと、ふわりと懐かしい匂いが私を包んだ。
和樹さんの車に乗るのは三回目だった。和樹さんが喫茶いしかわをお手伝いしてくれていたとき、買い出しで一回。もう一回はお店のちょっとしたトラブルで遅くなってしまった時にこの助手席に乗せてもらった。
和樹さんは助手席のドアを閉めると、すぐに反対側へと回る。そのスマホを胸元にしまう仕草すら格好良く見えてしまって、私は慌てて俯いた。
先程からどうもザワザワと心がおかしいのだ。
運転席のドアが開き、和樹さんが乗り込む気配がする。なぜか横が向けない。私がそのまま下を向いていると、すぐにバタンとドアが閉じた。
「ゆかりさん……あの……」
てっきりすぐに車を発車させると思いきや、名前を呼ばれて私は反射的に和樹さんの方を見る。
「え……?」
驚くことにすぐ近くに和樹さんの顔があった。運転席から身を乗り出すように、こちらへ迫ってきている。
「ひゃあ!」
驚きのあまり、何とも色気のない声が出た。ま、待って待って! いきなりそんな……!
どうしようかと、とっさに目を閉じて構えていたら「シートベルトしないと」と和樹さんの声。
「そそそそ、そうですね……!」
私は背もたれに手をかけていた和樹さんを制し、パタパタと手を忙しなく動かすと、シートベルトを探した。
「は、はい。すみませんでした……」
素早くシートベルトを装着すると、俯きながらそう言った。和樹さんがふわりと笑うのが分かった。
私ったら何を勘違いしてるんだろうか。恥ずかしくてしかたない。
そんなこと……されるわけないじゃない……。
自分の思考には、ほとほと呆れ果てた。恥ずかしさで全身が真っ赤だ。私はそんな勘違いを悟られないように、更に俯いて顔を覆った。
「ゆかりさん大丈夫?」
「は、はい。すみません!」
「じゃあ出発しますね」
「お、お願いします……」
消え入りそうな声でそう言えば、ゆっくりと車が発車した。私はその隙に小さく息を吐くと、ぎゅっと目を閉じた。
何考えてるのよ……もう。
和樹さんの喫茶いしかわでの発言を聞いてから、どうにも調子が狂ってしまっている。
和樹さんのことは来店当初から嫌いでも苦手でもなかった。博識で、爽やかで、優しい人柄はむしろ好ましく思っていたし、同僚として働けたときはとても馬が合って楽しかった。
再会してからもそれは大幅には変わらなかったはずなのに。
私が百面相をしてたからか、和樹さんが心配そうに話しかけてきた。
私は「大丈夫です!」って一言言うのを皮切りに機関銃のように話し始めた。
恥ずかしさと気まずさを隠すにはこうするしかない。和樹さんも恐らく不審には思わずに、会話をしてくれている。私はほっと胸を撫で下ろすと、やっと右側に視線を向けることができた。
「ありがとうございました」
マンションの前で車が停まると、すぐに私は頭を下げ、そうお礼を口にした。
「いえいえ。僕も望んだことですから」
和樹さんはそう言ってやわらかく微笑む。やはりその顔にドキリとして、また視線をそらしてしまった。
「じゃあ、また喫茶いしかわに顔出してくださいね」
俯き気味に私はそう言って、そそくさとドアを開けようとした。
「ゆかりさん」
すると、和樹さんが私に再び声をかける。
カチャリとシートベルトを外す音がして、こちらに近づく気配がする。
また先程と同じだろうか。
あれ? でも、私まだシートベルト付けてたっけ?
「あ、和樹さん、シートベルトなら私……」
その瞬間唇が重なった。
驚いて胸を押して離れようとするが、腕を掴まれて逃れられない。
すぐに和樹さんの手が顎を持ち上げて、唇の位置を変えた。何度か啄むように繰り返したあと、一度離れる。
「あ……あのっ」
私が口を開くのを待っていたかのように、するりと舌が侵入してきた。また驚いて離れようとしてもそれが叶うことはない。
逃げ回る私の舌を追いかけて、執拗に絡み取る。
「ん……んぅ」
慣れない行為につい吐息が漏れてしまう。どう息継ぎしてよいか分からず苦しくなった頃に、ゆっくりと唇が離れた。
「ゆかりさん、可愛い」
和樹さんはすかさずそう言って頬を撫でると、そこにも小さく口づけた。
私はしばらく放心していたが、はっと気がつくと忙しなく頭を下げ、慌ててドアを開けて外へ飛び出した。
そのまま走ってエントランスへと駆け込む。
追ってくるかも……と思ったが、エレベーターに私が乗るのを見届けると、和樹さんはそのままゆっくりと車を走らせ、帰って行った。
「な、なんなのよぅ……もう……」
私は思わず脱力してしまう。
あとに残されたのはとろける唇の熱い感触と、行き場のない私の思いだけだった。




