255-1 if~とろけるキスをしたのなら~(前編)
今回はボツプロットからサルベージした、毎度おなじみのifシリーズです。
普通の恋愛小説にしようと思ってた頃に考えた、恋人になるプロセス。ちょっぴりアダルティバージョン。
この関係の名前を私は知らない。
恋人とはもちろん違うだろう。かと言って、ただの友達とも呼べないと思うのだ。
◇ ◇ ◇
私の働く喫茶いしかわで、お客様として来店した和樹さんと知り合った。
和樹さんがたまにお手伝いしてくれるようになって、突然店に来なくなって(風の噂では海外でお仕事しているとか)、一年以上経って突然現れたと思ったら、ろくに説明もせず来店しなくなったことを謝られた。
「そうですか。喫茶いしかわのコーヒーを気に入っていただけてるなら何よりです。時間ができて気が向いたらまたいらしてくださいね」
「……怒らないんですか?」
「だって、お仕事だったんでしょ? しかも海外に行きっぱなしで。私が怒るような話ではないと思うんですけど」
そこで和樹さんはほんの少しだけ表情を崩した。
それから和樹さんはたまに喫茶いしかわに顔を出すようになった。お仕事はとっても忙しいらしく、来店は不定期だったけど、合間を見てふらっと訪れてくれた。
最初の頃は、特別な話をする訳ではなかった。
「お忙しいみたいですね」
「はい……まぁ……」
「あまり無理はしないでくださいね。ちゃんと休まずにふらふらになって電柱に激突して怪我なんかしたら駄目ですよ」
「はは……耳が痛い……気をつけます……」
そんな、店員と客から逸脱しないごく普通の会話をして、和樹さんは一杯のコーヒーを飲んでいく。時には食事をしていくこともあったけど、それは本当に稀なことだった。
そんな来店が何度か続いた後、ラストオーダーギリギリに和樹さんが訪れた。
ちょうど最後のお客さんを送り出したところで、まるでタイミングを見計らったように、入れ違いに和樹さんは現れた。
「いらっしゃいませー」
「こんばんは」
いつも通りの挨拶をしたが、何だか様子がおかしい。和樹さんはそんなに大きく表情を変えないのだが、今夜は明らかに変だった。
「今日、どうかしましたか?」
「え?」
分かりやすく顔に出ていたのに、それを私に聞かれたのは意外だったみたいだ。和樹さんは驚いた目をして、少し大きな声を出した。
「なんで……分かったんですか?」
「うーん……何かに悩んでる感じが見て取れたので……」
「そうですか……いやぁ……まいったなぁ……」
和樹さんはそう言って口に手を当てると、バツが悪そうに俯いた。
「お仕事、お疲れですか?」
私はいつものブレンドを入れながら心配する。
普段から疲れてはいるけど、よく見たら今夜は目の下の隈もより酷い。
「まぁ、疲れてるといえばたしかに疲れてますが……仕事は一段落したので、それは大丈夫というか……」
「そうですか。じゃあ今日はこれ飲んだらすぐに帰って、ゆっくり休んでくださいね。はい、どうぞ」
私はブレンドを和樹さんの目の前に置くと、笑顔でそう言った。すると次の瞬間、顔を上げた和樹さんの強い視線が絡みつき、あっと思った時には手首を強く掴まれていた。
「あ、あの……ゆかりさん……」
「え……?」
私は驚いて声を上げた。反射的に腕を引こうとしたけど、掴まれた手首はびくともせず、和樹さんの手の熱さだけが生々しく伝わってきた。
「和樹さん……?」
「あ、すみません……突然」
和樹さんはそう言うと、少しだけ手の力を緩めた。だけど決して離してはくれなかった。
「あの……今夜、食事に行きませんか? この後……どこか……」
「食事……ですか?」
「はい。もしご予定がなければ」
私を見つめ、不安そうな瞳が揺れる。和樹さんのこんな顔を見るのは初めてだった。なぜだろう。胸がドキドキとしてきて顔が熱くなる。
「予定、は、ないんですけど……」
「じゃあ」
「いや、でも今日は帰った方がいいですよ。ひどく疲れているみたいだし、休むことも大切ですよ」
私が心配してそう言うと、和樹さんは明らかに落胆した顔を見せる。先ほどは一瞬歓喜に満ちた表情をしたが、突如急降下といったところだ。
こんなにも素直に顔に出る人じゃなかったのに……疲れているせいだろうか? なんて、私は一人納得してしまう。
「いや、でも今日ゆかりさんを誘うために仕事を必死に終わらせてきたんです。どうしても食事に行きたいんです」
私はその言葉に耳を疑った。今、和樹さんはすごいことを言わなかっただろうか。私を誘うために仕事を頑張った……そんなことがあり得るのだろうか。
私は顔だけじゃなく、全身の体温が上がるのが分かった。元同僚として嫌われてはいないとは思っていたけれど、これはまた意味が違うんじゃないのか。
それとも……?
和樹さんは私の答えを待っている。不安と強い願いが込められた視線。男の人からそんな視線を浴びたことなどなかったから、私は単純に戸惑ってしまった。しかも、それは他でもない和樹さんからで、しばし沈黙してしまう。
和樹さんの手にまた力がこもる。
私は心拍数が更に上がるのを自覚しながら、ようやく口を開いた。
「そ、それはすごく嬉しいんですけど……やっぱり今日は帰りましょう」
私だって食事に行きたい。
和樹さんに対してそのくらいの好意は抱いていたし、再会してからの誠実な人柄にも惹かれていた。でも、今日の疲れ方はやはり普通ではなかったのだ。心配だからこそ私はそうやってお断りした。
「嫌です」
でも和樹さんはまったく引かない。
「で、でも……」
「絶対に諦めません」
以前の和樹さんは、こんなふうに頑固ではなかったはずだ。私は驚いてしまう。
「この後、少しだけでも」
和樹さんの視線に熱がこもり始める。
このままでは一歩も引かないまま、時間だけが過ぎてしまいそうだ。だから私はこう提案した。
「じゃあ、こうしませんか? 今度、和樹さんのご都合が良い時に改めて行く約束しましょう。もう少し元気な時に」
「でも、それじゃあ次がいつになるかわかりません。それくらい、今は時間が取れないんです」
和樹さんは不貞腐れたように俯くと、すっと視線を逸らした。横顔を見るとまるで子供みたいに拗ねた顔をしている。私はなんだかその様子を少しだけ可愛く思ってしまった。もちろん、態度や顔には出さないけれど。
「今日を逃したらいつになるか分からない。だから、さっきだって客がいなくなるのを待って来たんです」
「え……だから入ってくるタイミング良かったんですか?」
「そうです」
当たり前のように和樹さんが頷く。
外で見てたんだろうか。私はそう思いながら和樹さんを見つめたが、まだ視線は合わせてくれない。
「だから、嫌です。今夜はゆかりさんと出かけたい」
だめだ。これじゃあ一生諦めてくれなそうだ。




