252-2 コーヒーいれよ(後編)
前編にちょっぴり重なるゆかりさん視点のおはなし。
コーヒーをハンドドリップしているときの和樹さんの立ち姿がとても好きだなと思う。
ハンドドリップは「本格的にきちんと実行しよう」と思うと実は結構難しい。
当然豆をペーパーフィルター用に挽くところから始まる。豆を粉にするとき、その粒の大きさ(粒度)はドリップ方式によって違う。ペーパーフィルター用は細挽き。これに対してカフェプレスでは粗挽きが好ましいとされている。これらは全部マスターから教えていただいたこと。
その粉をペーパーフィルターにセットして、お湯をゆっくりとかけていく。お湯の温度も沸騰したてではいけない、とか、どぼどぼ一気に注ぐのではなく何回かに分けて蒸らしていく、とか。とにかく決まりごとが多い。
だから正直なところ、私は「面倒だな」と思ってしまうことも少なからずある。
しかし和樹さんというひとはそういうのを感覚ですべてやってしまえる人なのだ。マスターから一度教わったことはすべて一度で身に着けてしまった。ああしてこうして次はこう、とさらいながらやるのではなく、生まれた時から知っていますとでもいうようにできてしまう。私のほうが職場ではかなり先輩のはずなのに。ちょっと妬けてしまう。
ただ私が気になるのは、その覚えの良さではなくて。ハンドドリップしているときの立ち姿だ。当然カウンターの中でも外でも和樹さんは姿勢良く立ち「いらっしゃいませ」「こんにちは」「またお待ちしています」の声かけも気さくですこぶる感じが良い。そのカジュアルさに反して、どこか育ちの良さを感じさせる上品さまで持ち合わせているような気までする。でも、あのビジュアルの良さに焼けた肌(もしかしたら遺伝的なものかもしれないけれど)が加わると、とたんに遊び人っぽく見えてしまう雰囲気もあって。まあ本人のひととなりを知れば存外生真面目だから遊び人ではないとも思うけど。とにかく少し不思議な人だと思う。
でも、なぜかハンドドリップしているときだけは、和樹さんは和樹さんでなくなる気がするのだ。ふだん喫茶いしかわで見せている和樹さんではなくなるというのかしら。
本当に変なことを言っていると自分でも思う。
思うけれど……なぜか。フィルターの中で少しずつコーヒー豆の谷に沈んでいく水面を見守っているその横顔が。なぜか急に別人になったような気がするのだ。和樹さんはじっと黒々とした水面を見つめて何かを考えているように見える。でも、何も考えていないようにも見える。ただぼうっと湯が沈んでコーヒー豆の谷が出てくるのを待っているだけのようにも見える。
ハンドドリップをしている時間というのはそんなに長くはない。せいぜい三、四分。喫茶いしかわではあっという間に流れていく時間。
けれど、ハンドドリップをしている体感時間は長い。自分でドリップしてみると実感する。周囲があっという間にこなしてしまう三分が、ドリップする側にはとても長く感じられる。そうだ、カップラーメンの三分間をじっと待っているのが長いのと同じ、たぶんそう。
和樹さんはその三分間という長い時間、いったいどこに行ってしまうのだろう。その不思議な表情は一体なに? 何を考えているの? そのコーヒーの海に何か見える?
和樹さんの表情が気になってなんだか観察してしまうようになってから、私はすっかり和樹さんのハンドドリップをしている立ち姿が好きになっていることに気が付いた。
「僕も砂糖を入れてみようかな。ゆかりさんのおすすめなら」
「わっ珍しいですね! 私が入れてあげます」
私が知る限り、和樹さんがコーヒーにミルクやお砂糖を入れるのは初めてのことだったので驚いた。それと同時にとても嬉しくも感じた。心臓が跳ねるとはこのことだ。私は嬉々として和樹さんのコーヒーに角砂糖を一粒落とした。
和樹さんはティースプーンを取って一回、二回とコーヒーをかき混ぜた。
「なかなか溶けないですねえ。少し冷めちゃったからかな」
「私も、ミルクも入れちゃったからなかなか溶けなかったです。底のほうにまだ少し塊が残ってるみたい」
溶けないね、と言った和樹さんの少し垂れた目じりはさらに下がって。女子高生たちがきゃあきゃあ騒ぐ営業スマイルを見せつけられる。ああいけない。こんな間近で顔を突き合せたらネットに何書かれるか!
私が慌てて身を引いて背筋を伸ばすと、和樹さんはきょとんとした顔をした。
「あ、いえ、あんまり近くにいるとダメなんですよ。ほら前に言ったでしょ、ファンの子がいるから」
「でも今日はいませんよ」
「そうですけど」
悲しいかな。今日の喫茶いしかわは珍しく閑古鳥だ。常連さんたちもなんだかんだと忙しいらしいし、ふだん使いしてくれる女の子たちも試験が近いって言ってたなぁ。まあ一ヶ月に二回くらいはこんな日もあるか。うん。
「今日くらいは力抜いてもいっか」
私がそう言うと和樹さんは「もうファンのことは勘弁してください」と笑った。
「勘弁してほしいのはこっちのほうですよ!」
私が小声で言い返すと、和樹さんはまた笑うのだ。和樹さんの瞳が細くなって色が隠れた時、私は唇を開いた。
「和樹さんって……」
そう言いかけてしまったとき、私ははたと自分のしたことに気が付いて口を噤んだ。和樹さんの笑顔に飲み込まれて思わず尋ねてしまいそうになった。私が言いかけて黙ってしまったので、当然和樹さんのほうが驚いて「どうかしました?」と尋ね返してくる。ここで「なんでもないです」と取り繕うのも変な話だ。だから私は仕方なく「ハンドドリップをしているときって何か考えごとしてますか?」と素直に尋ねることにした。
ああやってしまった。せっかく私だけの秘密の時間だったのに。これを聞いたが最後、和樹さんは意識してしまってもう自然体ではいなくなってしまう。残念だ。今日の姿が最後になってしまった。
「えっドリップの最中ですか? ……いや、考えたこともなかったな」
和樹さんは目を見開いて驚き、きょろりと視線をさまよわせてから答えた。
「いや、考えごとをしてたのかな。それにも気づいていない考えごとということかな。すごくミステリーですね。哲学的とも言える。僕は考えごとをしていたのだろうか。無意識の考えごとかな。人間は考える葦だ。何を? そうだな、何を考えていたんだろう……マスターが僕らに内緒で食べようとしていたクッキー以外のことだというのは確かですね」
「そ、それは間違いなさそうですね……」
和樹さんが大真面目な顔でそう続けるので、今度は私が笑ってしまう番だった。小さな笑い声をあげて、私も和樹さんもくすくす笑った。
「すみません変なこと聞いちゃって。気にしないでくださいね」
「いや良い指摘をしてもらいました」
私がそう取り繕うと、和樹さんは笑顔でそう言った。
「あまりぼうっとしないよう気を付けます」
「いえ、そういうことじゃないんです。ぼうっとしてもいいです」
「でも勤務中ですよ」
「ハンドドリップをしている最中は、休憩時間です」
「あ、そうか」
「そうです」
「でも一応店内ですし、ぼうっとは良くないですよね」
「いいです。和樹さんならすぐにしゃきっとしますし、だから良いんです。ハンドドリップをしている時間くらいは」
私は力強くうんうん頷いてマグカップに口を付けた。そうですか、と和樹さんはまだ不思議そうな顔をしていた。
飲み干したマグカップの底に、やっぱり少し溶け切らず残ってしまったお砂糖の欠片が残っていた。残念だ。明日からはもうあの和樹さんの不思議な立ち姿や横顔は見られなくなってしまう。私にとってのちょっぴり甘い時間だったのに。
あーんゆかりのばかばかばか。ミステリーはミステリーのままがいいのに! 解き明かそうとするなんて悪い癖。秘密は秘密のままにしておいたほうが素敵なこともあるんだなぁ。
心の中だけで溜め息を吐いて振り返ると、スーツ姿の男の人がドアの前で足を止めたのが見えた。あ、お客さんだ! よかったこのまま閑古鳥じゃさみしいもの。
私が接客のため立ち上がるとすぐにカウンターを片付け始めた和樹さん。そのテキパキとした手際の良さも好きだけど、やっぱりあの考えごとをしているときの和樹さんの姿が一番好きだな。
私がこんなこと考えながら仕事してるなんてバレたら大変だ。もう絶対絶対誰にも言わないぞ。秘密にしておかなくっちゃ。
恋心ですらないんだけど、好意はほんわか芽生えてる感じ、出てたらいいな。
ドリップのときの和樹さんが何考えてるかはわかりませんが、ふとした瞬間に感じてしまう好意とか好感みたいなものって、わりと累積されていきますよね。恋愛感情に繋がるかはさておいて。




