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徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


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252-1 コーヒーいれよ(前編)

 ゆかりさんと和樹さんが同僚として距離を縮めつつあった頃の喫茶いしかわの一日を。

 喫茶いしかわの一日は。

 石川ゆかりが表のドアの掛札を『CLOSE』から『OPEN』に返すところから始まる。いや、訂正しよう。毎日ゆかりが行うわけではない。店長であるマスターが行なうときもあれば、その妻・梢が行なうときもある。朝から張り切って手伝いを申し出た和樹が行うこともある。しかしながらゆかりがこの喫茶店で勤務を始めてから、かなりの頻度で彼女の役割となっていた。


 喫茶いしかわの一日は。

 モーニングと呼ばれる時間帯から始まる。この時間帯は見知った常連客で埋まっていることが多い。近所のお年寄りたちの憩いの場で、彼らは小一時間お喋りに花を咲かせていく。ゆかりを孫のように可愛がり、彼氏はいるのかお婿さん候補はなどと時代錯誤の質問を繰り返したりする。ゆかりも慣れっこになっているのであしらいも上手い。「もうおばあちゃんたら。私まだ適齢期も迎えてないほど若いんですよ。それに今は晩婚の時代ですから」とからから笑ってやるのだ。


 喫茶いしかわの一日は。

 次に来るのがランチタイム。喫茶店にとっての書き入れ時が数時間続く。この時間帯になると和樹の考案した特製サンドイッチの人気が高くなる。この辺りに営業で来たビジネスマンやキャリアウーマンが立ち寄り、打ち合わせがてらに使う客も増えてきて、常連客よりも一見さんが多くなる。ここ最近は和樹の仕事仲間らしき人たちの姿もちらほら見られる。彼らの目当ては和樹考案のサンドイッチよりもゆかりの特製ナポリタンだ。打ち合わせメンツは十中八九「ブレンド」と注文を入れてくるので、ドリップコーヒーを切らさないことが重要だ。夏場は当然アイスコーヒーになるのでこれも欠かせない。マスターはひたすらコーヒーを準備し、和樹はひたすら料理を作り、ゆかりはひたすら客席に目を配りお冷を足したり会計をしたりする。ああ忙しい。


 喫茶いしかわの一日は。

 お昼の怒涛が過ぎるとカフェタイムに入る。このあたりの時間帯になると、仕事で使う客の他にも女性客や若い層などがじわじわ増える。和樹がたまに喫茶いしかわでお手伝いをするという噂が広まってからというもの、近隣の女子高生の間で「イケメンバイトがいる!」とじわじわ口コミが増えて、そもそも明らかに和樹目当てな女性客が増えた。彼女たちはサラリーマンのように「ブレンド」とつっけんどんに言うわけではなく「えぇっとぉ私はカフェオレ!」「ココアくださぁい」とできるだけ和樹を引き留めておけるようにもったいぶった注文をする。……ことが多いなとゆかりは思っていた。

 ただし、注文を取るのはゆかりが行うことが多く、明らかに「あのイケメンがいい」という視線を投げられることもある。それはまだマシなほうで、中には「あの男性の店員さんお願いします」と強気で指名してくる女性もいるのだから驚きだ。そんな彼女たちとトラブルを起こさないようゆかりはにっこり微笑み、厨房を振り返る。キッチンで和樹が忙しくしていれば「すみません、今手が離せないようでして」と慇懃に断り。カウンター奥の和樹と視線が合えば「代わってください」と強気のアイコンタクトを取る。和樹は苦笑して注文を代わってくれる。優しい人だとゆかりは思う。


「まあ、そんな和樹さんの優しさを頼りにしてるんですけどね!」

 ゆかりが笑顔でそう言ったので和樹は「ゆかりさん……僕のこと差し出してたんですね……」ともともと垂れ目の瞳をさらに垂らしてみせた。

「だって和樹さんのファンなんですから! ファンサービスですよ。それで和樹さんだけじゃなくって喫茶いしかわのファンになってもらうのが大事でしょ? ついでにいつも単価の高い注文を取り付けてくれて本当にありがとうございます」

「……ゆかりさんのそういう商魂逞しいところ、とても頼りになりますよね。僕、そういうの嫌いじゃないですよ」

 和樹がそう発言すると、ゆかりはゆっくりと瞬きをしてみせた。そのぱちくりという一回の瞬きの間、とても長い時間が経過したように和樹には思えた。


「あっしまったなぁ」

 ふいに店の奥で声がしたかと思うと、マスターが慌てた様子でエプロンを外しながら出てきた。

「今日町内会で麻雀の予定だったんだ。すっかり忘れてた」

「マスター、また後藤先生から巻き上げる予定ですか? 今月ピンチって言ってたんでほどほどにしてあげてくださいね」

 ゆかりが釘を刺すとマスターは額をかりかり掻きながら「それは彼次第だなぁ」とにやりと笑うのだ。元同級生だからか、遠慮らしい遠慮をしているところを見たことがない。


「というわけで、お店任せるよ。閉店時間には顔出すから」

「はい。いってらっしゃい」

「わかりました」

 町内会の集まりがあるときなど、十分なシフトが組めず影響が出るときは前もって早めに店を閉じることを告知しておくのが常だったが、マスターは本当にすっかり失念していたようだ。もっとも和樹という頼もしい男性アルバイト……もといお手伝いが来てくれる機会が増えたので、マスターが店を離れるのも難しいことではなくなった。気が抜けてしまったのも仕方のないことだろう。

 それに今日は大変に穏やかな一日で、ランチタイムの喧騒が抜けてしまえば暇なものであった。今も客と言えば奥の席を陣取りパソコンのキーボードを叩いているフリーのライターに、お喋りに花を咲かせている中年女性二人組のみだった。この女性たちは相続問題についてずっと議論している。なんだか物々しいなぁとゆかりが思いながらお冷を注ぎに行ったら、なんとまったく赤の他人の噂話らしいことが分かりずっこけてしまった。他人の問題についてよくもまぁあんな真剣に話し合えるものだ。ゆかりがもはや感心していると、和樹が「ゆかりさん、僕らも休憩にします?」と尋ねてきた。

「はい!」

 ゆかりは笑顔で答えた。


 和樹は「今日のコーヒー豆」の袋からスプーンで豆を取り出し、秤できちんと分量を量ってコーヒーミルに入れていく。

 普段「今日のコーヒー」用に作るドリップコーヒーは業務用ドリッパーが挽くのも抽出もすべて自動でやってくれるが、たまに訪れるこのような隙間時間で取る休憩タイムでは手動ミルで豆を挽くことがある。機械で挽くのは早いし簡単だが、大きな音がするのが難点だとゆかりは考えている。しかし手動のミルの音は心地良い。ゆったり時間が流れていく気がする。


「和樹さんもまかない貰いますよね? 今日はマスターからこの新しい胡桃のケーキを試食してみてほしいって言われてます」

「いいですね。あ、そうか、胡桃のケーキなら紅茶のほうが良かったかな?」

「コーヒーも合いますよ! ナッツとコーヒーって相性良いですもん」

「フードペアリングですね。確かに、ナッツ類に含まれているアルギニンとコーヒーに含まれているカフェインを一緒に摂取すると脂肪を減らす効果があるとも言われてるようです」

「そ、そうなんですか……単純に美味しいってことだと思ってました。コーヒーは苦いから。甘いものを食べたくなりますし」

「そういう意味では、カフェインには糖質がエネルギーとして利用される前に中性脂肪に変えてしまう働きもあるそうですよ。ですから相性が良くないとも言えるのでは……。やっぱり紅茶を淹れなおしましょうか」

「い、いいですってば! 私、和樹さんが淹れたコーヒー好きですからっ。それに働いてる最中はエネルギー消費してるんですから良いんですっ」

「そうですか?」

「そうですよ!」

 店員同士の小さな大声で喋る二人の会話は、奥のフリーライターには届いていたようだ。彼がちらりとこちらに視線を投げてきたのでゆかりは慌てて咳ばらいをして食器を用意するのに集中した。しかしよく観察すると彼は耳にイヤホンをして自分の好きな曲を聴いているようだから、ふたりの会話は結局聞かれていないのかもしれない。ゆかりはそれに思い至り、なあんだと力を抜いた。

 有線から流れるいつもの音楽に乗って、コーヒーアロマが店内に立ち込める。和樹がドリップを開始したのだ。ハンドドリップ用の注ぎ口の細いドリップポットを使ってゆっくりとお湯を挽きたての粉に滲みこませていく。


「はい、ゆかりさん。今日の一杯。グアテマラ、フレンチローストです」

「ありがとうございます! ふふっ」

 ゆかりは差し出されたコーヒーの香しさを目いっぱいならぬ鼻いっぱいに吸い込んだ。コーヒーをテイスティングする際のポイント。まず香りを楽しむ。次に軽く口に含む。この時、空気を一緒に口に含むため、多少お行儀の悪い音を立てても構わない。ただし音を立てるのは(店内なので)こっそりとやる。舌で転がすようにしてコーヒーの味を楽しむ。

「あぁん美味しいっ! 和樹さんの淹れるハンドドリップは本当に美味しいです。ハンドドリップってすごく難しいのにすぐにマスターしちゃうなんて、本当に凄いです」

「こういうことが得意だったみたいですね。今の仕事クビになっても食いっぱぐれないでいけますかね」

「んもう、またまたぁ」

 それから和樹とゆかりはしばしマスターの新作胡桃ケーキについて談義を交わした。胡桃はもう少し小さく砕いたほうが良さそうだが、味はまた絶品であった。

 何気なくゆかりがミルクポッドに手を伸ばし、ゆっくりとコーヒーに注ぎ入れたのを見て和樹はおやと顔を上げた。


「あれ、ゆかりさんっていつもブラックで飲んでましたよね? もしかして濃すぎました?」

 ゆかりは瞬きをしてなんでそんな質問をするのだろうと驚いた様子だったが、すぐに合点がいったようで笑顔になった。

「いえ、ちょうど良い濃さですよ! このグアテマラにはミルクが合うんで入れようと思って。このコーヒー、私がここで働き始めた初日にマスターが淹れてくれたコーヒーなんです。実は私、その時までコーヒーをブラックで飲んだことがなかったんですよ」

「へえ、そうなんですか」

「だからブラックで飲めなかった私に、マスターがミルクに合うコーヒーがあるんだよって教えてくれたんです。初めてコーヒーが美味しいって感じました。ブラックで飲めないのに、実家とはいえよく喫茶店で働くなって兄には笑われちゃいましたけど」

「じゃあ飲めるように特訓したんですね?」

「はい。やっぱりお客さまにお勧めするときに味が分からないといけないなと思って。でもやっぱり本当はミルクを入れるほうが好きなんです。子供っぽいですよね。恥ずかしい」

 今度は照れ隠しでゆかりは笑顔を作った。赤くした頬を誤魔化すように細い人差し指で掻く姿を見て、和樹は「そんなことないですよ」と微笑む。


「むしろコーヒーはストレートで飲むのが主流というのも勘違いですよ。イタリア人はエスプレッソに砂糖をたっぷり入れて飲み干しますし、コーヒーの原産国である南アメリカの国々でもミルクを入れることが多いそうですよ。ベトナムではエッグコーヒーなんてのもありますし」

「え? まさか卵を入れるんですか?」

「コンデンスミルクも入れてふわふわにするみたいですよ」

「ああ、それはちょっと興味あるかも……」

「まあ、原産国でミルクや砂糖を入れるというのは、品質の良いコーヒー豆が殆ど輸出されてしまっているからという理由もあるみたいですが……」

「なんか世知辛いなぁ。それにしても和樹さんって、本当に物知りですよね。雑学王? クイズ番組応募してみません? イケメンならテレビ映えするし絶対通りますよ。一攫千金狙えるかも」

「ははは。ご冗談を」

 店員同士のこそこそとした笑い話も今日はご愛嬌。今日の喫茶いしかわではゆっくりと時間が流れている。


「ケーキが意外と甘くなかったから……今日は甘くしちゃおうっと」

 先ほどの中性脂肪の話題を受けてか、ゆかりは誰かに言い訳するように呟いて角砂糖のケースを引き寄せた。その中から茶色の立方体を一粒摘まみ上げて、ミルクの入ったコーヒーにぽとんと落とす。

 和樹はその茶色の立方体がコーヒーの海に吸い込まれていくのを見守っていた。


 更新停まってすみませんでした。

 正直、まだ復調しきってはいないのですが、今日は「コーヒーの日」なのでどうしても更新したくて。


 今日はゆるりと喫茶いしかわの一日を。

 ランチタイム忙しいって言ってるのにゆるりとって言っていいのかなとも思うけど、それはそれということで。


 下期始まって多くの職場で体制が変わるタイミングだったり食品をはじめとした値上げラッシュがえぐかったりといろいろありますけど、好きなドリンクでほっと一息つく余裕が持てたらいいですよね。


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