24-1 ぬくもり(前編)
美紗は、この週末は久々に一人暮らしの兄と過ごすことになり、金曜日から兄の家に泊まることになった。
普段行かない街に行けるのだから、あの趣味を満喫しよう。にんまりとしながらお気に入りの雑誌に目を通す。
美紗には、友人たちには話していない趣味があった。
それは、純喫茶巡り。
もちろん友人と行く映えコーヒーのある店もいいけれど。
落ち着いた昔ながらの、コーヒーが美味しくて、いかにもなナポリタンや缶詰のさくらんぼが乗ったクリームソーダがありそうな。
文庫本を片手に頬杖つくのが絵になるような。
そんな喫茶店を巡るのが大好きだった。
雑誌で見た隠れ家的純喫茶には、クラシカルなステンドグラスから射し込む柔らかな光とカラメル色に艶めく一枚板のカウンター。自家焙煎のコーヒーは客がひとりひとり自分でミルを挽いて味わえるとあった。魅力的だ。
不馴れな駅から歩いて20分……のはずだった。
歩いても歩いてもそれらしき場所は見つからない。
いくらなんでも隠れ家すぎる。
駅から2回ほど曲がり15分ほど歩けば、目印になる黒猫のシルエットの看板が左側のガードレール下にぽつりと置いてあると書いてあったのだけれど。
結局ぐるぐると40分ほど歩いてようやく見つけた黒猫に喜んだのも束の間、小さく【火・木・土日のみ営業】の文字。
「雑誌には月曜休業しか書いてなかったのに……変わったのかな?」
今日は営業してないのか、とがっくりと肩を落とし、明日また出直そうと踵を返した。
沈んだ夕日の名残りを背に、先程とは違う大きな通りへ出た。
待ち合わせようと兄へ連絡すると、急にバイトの穴埋めを頼まれたから21時頃まで時間を潰しておいてくれと返事があった。
「ええっ……先に連絡くれればよかったのに」
スマホをしまいながら、せっかくだからと知らない街を探検する事にした。
が。
お目当ての店をなかなか見つけられなかった美紗のことだ。
大方の予想通り迷子になった。
「あれ、さっきもここ通った?」
石畳の路地裏を、猫の気持ちはこんな感じかしら~なんてチョロチョロと歩いて回ったのが悪かった。
少し泣きそうになりながらスマホでマップを出すものの、目印がないのでどうにも出来ない。
金曜の夜に繁華街ではないほとんど住宅街の路地裏に人なんて歩いてない。
ようやく遊具もない空き地のような小さな公園を見つけ、近くの自動販売機でペットボトルのお茶を買い、ベンチに座りちびちびと飲む。
仕方がないから兄のバイト終わりを待って迎えに来てもらおう、なんて呑気に考えていた。
「キミ、ひとり?」
急な人の声に驚いて振り向くと、ロングコートにマスク、ハンチング帽を被った男が立っていた。
少ない街灯の薄闇に浮かぶその姿は色味が判らず全身真っ黒に見える。
一目で異様とわかるその姿に頭の中でサイレンが鳴る。
「……っ!」
「ねぇ、ひとりだよね」
獲物を見つけたようなギラギラと光る目。マスクから漏れる呼気が荒い。
「ひ、とり……じゃない、です」
震える声で答え、バッグを抱きかかえ後退る。
「へぇ……。グフフッ、ひとりでしょ? ねぇ……そんな離れないでさ、こっち、来なよ」
男がコートのボタンをひとつ、またひとつと外し始める。
「や、です、ごめ、なさ……」
歯がカチカチと震えて音を立てる。一歩、また一歩ともつれそうになる足をどうにか動かす。
「怖くないから……ね、信じてよ……」
男の手がぬっと伸びてきた。
「っい、いやぁーーー!」
美紗が叫んだその時。
「アキちゃん! 遅くなってごめんね!」
男のひとの声がすると、コートの男は一目散に逃げ出す。
美紗はその場にずるずると座り込んだ。
「あー、逃げやがった。大丈夫かい?」
美紗に声をかけながら助けてくれたらしい男は深刻にならないようにか軽口を叩くように話し、いまだカタカタと震える美紗の肩に、片手に携えていた自らのベージュのジャケットを着せた。
男は、ちゃんと顔見せるからちょっと待っててね、と公園入り口の、ここから見える一番明るい街灯の下に立ち、美紗にはっきりと顔を見せる。
とても穏やかそうなおじさまだった。ロマンスグレーというか、この人純喫茶似合いそうだな……と場違いな感想がするりと出てきた。
こちらに戻りながら、怖くない? と聞いてくる。
「怖くないです! 大丈夫です!」
慌てて返事をし、戻ってきた男に助けられながらゆっくりと立ち上がる。
「おじさん、誰ですか?」
「僕? 僕は喫茶店の店長さんだよ。荷物は? 中身は落としたりしてないかい?」
第一印象は、意外とあてになるものらしい。
「さてと、一緒においで。送るよ」
美紗の横に並ぶと、ごく自然にその手を取りふわりと繋いで歩き始める。
繋がれた右手がとてもあたたかくて安心する。
本当はこういうの、日常って言いたくないんですけどね。
痴漢も変質者も、精神的に未熟な若いときほど遭遇します。