23 はじめてカレー
寝室の扉が、小さな音を立ててそっと開く。
ゆかりはその音で目を覚ました。もぞりと動き、扉のほうを確認する。
「和樹さん? おかえりなさい。今日はずいぶん早く帰れたんですね」
「子供たちからSOSが届いたんですよ。お母さんが具合悪いのお父さん助けて! って。だから無理矢理仕事終わらせて帰ってきた」
「ふふっ。そうですか。もしかして長田さんに押し付けちゃったの? 私のは、具合悪いっていうか、その、あの、ただの生理痛なんですけど……出産してからは、あまり不調になることもなかったんですけどねぇ」
和樹は、力なくへへっと笑うゆかりの姿に眉をきゅっと寄せる。
「……体調不良に、ただのも何もないでしょう」
「帰ってきてくれて、心強いです。私は大丈夫ですから。おとなしく寝てますから、先にご飯とお風呂済ませてください。お夕飯は真弓が得意のカレーを作ってくれたし、お風呂は進が洗ってお湯張ってくれたんですよ。子供たちのお手伝いの成果、ちゃんと見てあげてください」
「ゆかりさんは、ちゃんとごはん食べたんだよね?」
「はい。真弓がここに持ってきてくれて。しっかり食べましたよ」
それじゃ子供たちをお願いしますね、と和樹に託したゆかりはゆっくりと目を閉じ、身体を丸めながら深呼吸をする。
ゆるゆると意識が落ちていく中で、和樹が出ていったときにふわんと入ってきたカレーの香りに、真弓が初めてカレーを作ったときのことが思い出された。
◇ ◇ ◇
「まゆみもおりょうりしたい!」
その日、真弓はゆかりのエプロンを身に纏い、洗濯物を畳むゆかりのもとへ現れた。真弓は四歳になったばかりで、お手伝いをしたい年頃真っ只中である。
「いいよ。真弓は何が作りたいのかしら?」
「カレーがいいの」
にこにこという効果音やらテロップやらが付いていてもおかしくない満面の笑みで真弓が答えた。和樹に似た面差しの子供の笑顔は、それこそ天使のような愛らしさがある。
そういえば、和樹は子供たちを溺愛と言っていいレベルで可愛がっているものの、ずっとゆかりに似た娘が欲しいと思っていて、いまだ諦めていないらしい。
そこまで思い出して少し遠い目になってしまうが、意識を切り替える。
「そっか。じゃあ、カレーの材料を買いに行こうか!」
「うんっ!」
「何が足りないかチェックするから、ちょっと待っててね」
「はーい!」
「おかーさん、おててあらいました!」
ピカピカになった手のひらを見せた真弓の目の前に人参の輪切りを置く。
「はい、人参さんをこのお星様で抜いてください」
「りょーかいしました!」
真弓の力でも抜けるように、人参は電子レンジで少し柔らかくしておいたので、まな板はすぐにオレンジ色でいっぱいになった。
ゆかりが他のものを準備している間にすべての人参を抜いた真弓はこちらをじーっと見ている。
「真弓ちゃんもナスさん切る?」
「いいのっ?」
「うん、いいよ。ほら、こっちおいで」
真弓が包丁を持つ手に、ゆかりは後ろから自分の手を添える。そして、左の手指を軽く丸める。
「お茶碗のおててはにゃんこの真似っこして」
キュッと握った真弓の小さな手をナスに添える。ゆっくりと包丁を動かし、ナスを切る。トン、と軽快な音が鳴ってナスがコロンと倒れた。もう一度、と真弓の手を動かす。
トン。コロン。
「おかーさん、まゆみもおナスさんきれた!」
「うん、真弓は包丁使うの上手だねぇ」
トン。コロン。トン。コロン。
そうしてひと通りの下拵えが終わり、鍋で軽く炒めている鶏肉にたくさんの野菜を投入し、火を入れる。玉ねぎの縁が透明になったのを確認して水を入れた。
「あとはお野菜が柔らかくなるまでコトコト火にかけます」
「はーい」
その間にサラダを作った。安かったキウイも輪切りにしてサラダに添える。
抜いた人参の端っこは浅漬けにしておく。
クイクイとゆかりのエプロンが引っ張られる。
「おかーさん、あのね。カレーこれにいれてほしいの」
先ほどから戸棚を捜索していた真弓の手にあったのはタッパーである。
「まゆみもおみせのエプロンほしくて。マスターにおねがいしたら、おりょうりできるようになったらくれるって。マスターのすきなカレーあげたら、エプロンもらえるの」
子供たちは喫茶いしかわが大好きである。特に真弓はマスターによく懐いていて、ゆかりが働いている間はマスターの膝の上に座っていることもよくある。マスターも孫をとても可愛がっており、子供達はいつ来るのかと催促してくることも少なくない。
「そっか。真弓はエプロンが欲しかったんだね」
「うん! まゆみもおかーさんみたいにウエイトレスするの!」
キラキラと輝いた瞳は春の優しい空に似ている。和樹に似た柔らかい髪質の髪をなでていると、和樹がゆかりに似た娘を欲しがる気持ちが少しだけ分かる気がした。
翌日、真弓に桜色の喫茶いしかわのエプロンを着けてあげたマスターは、泣いた。
「喫茶いしかわの看板娘の世代交代か……」
真弓に「よしよし、いいこいいこ」と慰めてもらっていたのはゆかりだけの秘密である。
◇ ◇ ◇
和樹が寝室に戻ってきた気配で、ゆるゆると意識が浮上する。身を起こそうとすると、そのままでいいよと優しい声に止められた。
シュッとシーツのすべる音がする。
背中にぴたりと密着し抱きしめてくる和樹は筋肉量が多く、ゆかりよりも熱が高い。
和樹はゆかりの後頭部に口づけながら、そっとゆかりの腹を守るように手を添える。
へその上と下腹部を包み込む和樹の大きな手がとてもあたたかい。ゆかりはそれだけで痛みやだるさが軽減される気がする。
和樹の手にそっと自分の手を重ねて、はぁ……と肺に残る空気をすべて吐き出すようにゆっくり息を吐く。背中の感覚で、和樹が様子をうかがってきているのがわかる。
「ゆかりさん? 大丈夫ですか?」
「とってもあったかいです。和樹さんの手、だいすき」
「うん。そのままゆっくり休んで。明日は元気なゆかりさんに会えると嬉しいです」
「ん……わたしも、そうした……です」
すうすうと寝息をたてはじめたゆかりを確認してふっと穏やかに微笑むと、和樹も目を閉じた。
長田さん、早くも名前だけ再登場(笑)
「症状には個人差があります」の代表格、生理痛および関連する緒症状。
理解や共感が難しいのは仕方ないですけど、症状の重さによっては本当に日常生活が厳しいので、「そんなはずない」と全否定から入らずに「そういうものなんだな」くらいには受け止めてもらえたら嬉しいですよね。




