237 あなたにならば
ぐずついた天気の影響か客足が悪く、喫茶いしかわは異様なほど静まり返っていた。いつもなら活気のあるはずの明るい店内がやけに薄暗く、陰鬱な様子だ。
「和樹さん、もしかして体調悪いですか?」
気づかわしげに伸ばされたはずの手が底無しの闇に誘いざなう魔の手に見えてあからさまに避けてしまった。
普段通りだったならこんな失態などしやしない。明らかに思考能力が著しく低下している。一瞬和樹の体を掠めた指先は魔の手などとは程遠いぬくりもりだったというのに気の毒なことをしてしまった。だが、安易に他人に触れる、触れられるような真似をしてこなかったのだから仕方ないと冷めた自分が嘲笑っている。そんな距離感を容易に許す気になんかなれない人生を歩んできたんだから当然の反応だと言い訳をしながら。
純粋にこちらを心配してくれていた彼女は一瞬傷ついた顔をしてからすぐに気を持ち直してにっこり笑ってみせた。
「今日は帰って休んでください! 具合が悪い状態でお客様の前に出るなんて先輩として見過ごせません」
季節の変わり目特有の昼夜の寒暖差が激しい日々が続いており、前日は営業先からの帰宅時に土砂降りの中しばらく歩く羽目になった。体力維持と健康には人一倍気をつかっていたのだが、今朝起きてみれば何年振りかわからない身体の不調を覚えていた。体調管理も仕事のうちだというのに不甲斐ない。それも、ゆかりさんに気取られるとは。
「……」
「和樹さん……?」
揺るぎない優しさとしなやかな強さはこの時の和樹には持ち合わせられないものだった。だから、それを惜しみなく他人に向けられるゆかりのことがまぶしく見えたものだ。
ゆかりの厚意に甘えた和樹は喫茶いしかわを早退し、帰宅するなりビタミン剤と解熱薬を流し込んで寝床に倒れ込んだ。休んでいいのだと身体が理解した瞬間起き上がるのも億劫になってしまった。熱い、苦しい。身体の節々も痛む。今にも意識が落ちそうだったが有事の際のために部下の長田には連絡をしておかなければ――……
――ふと目を覚ますと室内には誰もいなかった。和樹の部屋なのだから当然だ。ああ、今何時だろう。ブランに餌をやらなければ。レースのカーテン越しに見える空の明度から察するにまだ陽は高そうだ。ベッドから身を起こした和樹は額に違和感を覚えた。触れてみれば市販の熱冷ましのシートが貼られている。ろくに着替えず布団に潜ったはずなのに紺色のパジャマを着ているし、部屋の内装まで様変わりしていた。いや、そもそも布団で寝ていたはずなのにこんなどデカいサイズのベッドで目覚めるのがまずおかしい。
そっと扉が開き、現れた人物を目にして和樹は夢と現実が混同していたことにようやく気がついた。
「あ、和樹さん目が覚めたんですね。たまご粥作ったんですけど食べられそうですか?」
土鍋をお盆に乗せた妻が和樹に笑いかけてくれている。以前拒絶した時に見せた寂しげな笑顔ではなく、屈託のない彼女らしい朗らかな笑みで。
「ありがとう、いただくよ」
「はーい。汗かくだろうからおでこのシートは剥がしちゃうね。後で新しいの持ってくるから」
サイドテーブルにお盆を置いたゆかりが腰を屈めて和樹の額に手を伸ばす。和樹は何一つ身構えることなくまぶたを閉じて彼女の体温を受け入れた。
「んー……朝よりは下がってるかな。顔色もいいし」
「帰宅して早々迷惑をかけてごめん」
和樹が謝罪すると、指先で額をちょんとつつかれた。
「迷惑なんてまったく思ってないよ。私たちは家族なんだから。それに和樹さん自分のこと自分で全部できちゃうから、こんな時くらい世話を焼かせてよね。奥さんの特権で!」
あの時拒絶したぬくもりがこれほどまでに心地よく、安心できるものになろうとは。かつての自分がこの現状を見たら驚愕するに違いない。でもどうせ驚愕した後は散々逡巡してから腹を括って。同じ未来を掴み取ろうと躍起になるであろうことは現状を見れば火を見るよりも明らかだった。
◇ ◇ ◇
――かつてさりげなく、でもたしかにゆかりに拒絶の意思を見せた人とは思えない変貌振りだった。凍てついた眼差しは熱でとろけ、伸ばした手は避けられるどころか逆に引き寄せられて頬に触れたまま固定されてしまっている。
ゆかりが調理したたまご粥を平らげ、薬を飲んだ夫は「もう少し横になるよ」と言ってベッドに横たわった。ゆっくり休むなら邪魔をしては悪いと思って席を外そうとしたら、手をゆるく引かれた。
「落ち着くからちょっとこのままでいて」
ゆかりの手を自らの頬にすりつけ、弱々しくそんなことを言われたら何時間でもこのままで過ごせてしまいそうだ。ベッド脇に置いている椅子を引き寄せたゆかりは腰かけると改めて夫の顔をまじまじと見つめた。こんなかわいらしい夫の一面なんて知らなかったなぁ、と思いながら。
いつからだっただろう。ゆかりが準備した食材や調理の行程を見ずに手料理を口にしてくれるようになったのは。こうして体調を崩した時に真っ先に頼ってくれるようになったのは。
ああ、うれしい。すごく、うれしいな。彼が身体を休めてくれるのが自分のそばであることが。
「ふふ」
「……なんで笑うの?」
ちょっと拗ねたような物言いにますます愛おしさが募っていく。どんな言葉にしたらこの溢れんばかりの想いを伝えられるのだろう。
夫の頭を労るように撫でながら、ゆかりは自分の顔がとろけていくのを感じた。多分締まりのないふにゃふにゃの顔をしていることだろう。でも隠す気にはなれなかった。
「こうやって和樹さんのそばにいられるのが嬉しくて。和樹さんのことを笑ったわけじゃないよ」
和樹は少し驚いたようにゆかりを見つめると、まぶしそうに目を細めた。
「――病人の戯れ言だと思って聞き流してくれる……?」
「……? うん。なあに?」
「あなたになら……ゆかりさんになら、たとえ殺されても悪くないなって思ったんだよ。そうしたら、ずっとそばにいてほしくなったんだ」
初めて聞く話にゆかりは息を呑んだ。目まぐるしいスピードで鼓動が早くなる。呼吸の仕方がわからなくなってどうしようもなく顔が熱い。
「何、言って……殺す、わけ……ないじゃない……」
ようやく絞り出したゆかりの声はみっともないくらい震えていた。
「――うん。知ってる」
熱に浮かされたようにふにゃりと笑った和樹はまぶたを閉じ、ややあって寝息を立て始めた。安心しきった顔がさっきの戯れ言が彼の本心だったのだとゆかりに教えてくれている。
出会った頃は許されなかった距離を許されて、さらに驚くべきことに命すら預けても構わないと言う。
プロポーズの言葉より、結婚式での誓いより、こんな物騒な告白を嬉しいと思うなんて。
彼に突き放されて傷ついた昔の自分に教えてあげたい。形振り構わず彼の元に飛び込んだら、とっても大好きなひとだって自覚できて、それからずっとそばにいられるようになるんだって。
熱く溶ける視界に映るあどけない夫の寝顔を眺めながら、ゆかりは昔の自分にエールを送るのだった。
珍しくお父さんがダウンしちゃったので、子供たちは自主的に祖父母のところに行ってます。そりゃ家の中も静かですよね。
和樹さんは、ゆかりさん限定でメロメロの恋愛脳なところもあるけれど、こういう過激なハードルをひょいと飛び越えられるひとじゃないと信用できなくて同居する気にもならなかっただろうなって気がします。




