235 体温
夏のはじめに比べてずいぶん日の出の時刻が遅くなったため、暁の空が広がるのも大分遅くにずれ込んだようだ。時計の短針が五を指してしばらく経つというのに、窓の外に広がる空はまだうっすらと白むばかり。日が短くなってきたことを実感しながら私はそっとベッドから抜け出した。
寝室から出てそのままキッチンへと足を向ける。静まり返った室内にはパタパタと私がたてるスリッパの音だけが響いていた。冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して中身をガラスのコップへと注ぐと、こくりこくりと少しずつ飲み下した。少し乾燥していた喉が潤うことで全身に水分が行き渡るような気がする。きっと和樹さんは常温の水の方が体にいいんですよ、なんて過保護な一面を出しながら言うだろうけれど、あいにく彼はまだ夢の中だ。
リビングへと進み、ソファーに腰を落ち着ける。今日は休日なので二度寝をしてしまってもいいのだけれど、なんだか目が冴えている。ローテーブルに置いてある黒いリモコンが目に入ったので、それに手を伸ばして電源ボタンを指先でぐっと押した。
すると、途端にしんと静まり返っていた室内にテレビの雑音が溢れかえる。芸能ニュースを扱うバラエティーじみたニュース番組でもいいのだけれど、あまりに賑やかすぎて彼を起こしてしまってもいけない。先ほどとは違うボタンを押して真面目なニュース番組に切り替えた。音量はギリギリ聞こえるくらい、最小限に。彼の仕事のことはよくわからないけど、激務であろうことは彼を見ていて十二分にわかる。だからゆっくりと休めるときには心ゆくまで休んでほしいのだ。
ニュースキャスターが原稿を読み上げ、それに関連するVTRが流さる。この前の台風の被害について、新たに施行される法律のこと、大型スポーツイベントについて、など次々と流れるニュースをぼんやりと眺める。
喫茶店で働いている以上、世の中で起きていることには詳しいほうがいい。常連客が落ち着いている方が多いため、話題の中心が芸能ニュースというより真面目なものが多いということもあるが、幅広い情報を知っていればいるほど初めて来てくださったお客様と話す話題の幅も広がるというものだ。そのためゆかりは、以前からニュースなどはチェックするようにはしていた。
和樹さんと付き合うようになってから、海外のニュースに以前よりも目がいくようになった。彼の仕事の詳細までは知らないが、海外出張の少なくない仕事だということは知っている。大変なんだなあ、と思ったことは脳裏にこびりついている。
メディアに流れるような情報なんて、彼の仕事とほぼ関わりもないのであろうことはわかっている。けれど、海外で起きた爆破事件だの発砲事件だのクーデターだのというニュースを目にする度に、つい彼の身を案じてしまう。もはやそれは私の癖になっていた。
ニュースの内容とは関係ないことを考えているうちにだんだん注意力が散漫になる。目と耳は与えられる情報を取り入れているが頭の中では朝ごはんのことを考えている、という状態になっていたときだった。
「――サラリーマンに斬りつけた犯人は警官にも斬りつけ、今もなお逃走中の模様です。負傷したサラリーマンは重体、警官は重症で、二人とも病院に運び込まれ治療が行われましたが、サラリーマンの意識はまだ回復していないとのこと――」
ニュースキャスターが原稿を読み上げる声が私の耳に飛び込んでくる。焦点の定まっていなかった視界が急にクリアになり、テレビの画面へと視線が吸い寄せられた。VTRの映像は淡々と事件が起こった経緯や場所を伝えるものだったが、私は食い入るように移り変わる画面を見つめていた。
すると、寝室のドアがガチャリと開き、静かな足音がこちらへと向かってくる。思わずそちらの方を見ると、そこには思い描いた通りの人が立っていた。先程までの動揺は心の中に押し込めて、私は彼に笑顔を向ける。
「おはようございます、和樹さん。起こしちゃいましたか?」
彼の瞳に映る私の笑顔がいつも通りのものでありますように、と祈りながら彼に言葉をかける。彼は私に微笑み返すとソファーの方へと近づいてきた。
「おはよう、ゆかりさん。大丈夫だよ。君が隣にいないなあと思ったら、もう起きてたんだね」
彼はそう言うと私の隣にゆっくりと腰を落とした。こちらをじっと見つめている瞳は私の心の中まで見透かしているようで落ち着かない。
「そうだ、もう二人とも起きちゃったなら朝ごはん食べましょうか! 昨日の夜に仕込んでおいたフレンチトーストがあるんですよ!」
私は少し早口でそう言って、準備しましょうか、と和樹さんに笑いかける。
すると、和樹さんは私のことをじっと見つめるとそっと私の体を引き寄せて抱きしめた。いつのまにか私の体は周りの空気により随分冷やされていたらしい。寝起きの和樹さんの高い体温がじんわりと冷えた体に伝わってくる。そして優しい声色でゆっくりと和樹さんは私に語りかけた。
「それよりももう少し一緒に布団でのんびりしようよ。たまの休日なんだからそんなのも悪くないんじゃない?」
ね、と優しく落とされた声は私の中に染み込んでくる。彼の背中にゆっくりと手を伸ばしてそっと抱きしめ返した。彼の体にこつんとおでこをあてて、そのままこくりと頷く。私を包む彼の腕にはさらにぎゅっと力が込められた。
ああ、和樹さんは私が何を観ていたのか、どう思っているかを知っているのだ。言ってもどうしようもないことだから、お互いにそれを口には出さないけれど。いつもは無事を祈ることはあってもここまで動揺しないのに、なぜ今日に限って私の心はざわめいてしまうのだろう? しんと冷えた空気や、早朝の静けさがいけないのだろうか。
彼はおもむろに立ち上がると、私を横抱きにして寝室へと運んでいく。自分で歩けますよ、と私が言っても僕がしたいんだからいいの、なんて言葉と慈しむような眼差しが返ってきた。
寝室へと入り、私をベッドへとそっと下ろすと和樹さんは私に布団を被せてくる。そしてそこにもぞもぞと潜り込んでくると私をそっと抱き込んだ。
「今日は一日家でゆっくりしていようか」
私の顔を覗き込んで和樹さんはそう告げる。本当は新しくできたショッピングモールに行ってお店を開拓しようという計画を昨日の夜に立てていたのだ。少し名残惜しいが、今はまだこの体温を離したくない。私はまたこくりと頷いてぎゅっと抱きつき、彼の分厚い胸板に顔をうずめた。どくん、どくんと彼の心臓が力強く動いている音が聞こえる。目を閉じてそのリズムに身を任せると、私の体が隅々までその音で満たされていく。
「今日は甘えん坊だね。いつもなら絶対ショッピングモールに行こうって言うのに」
和樹さんがくすくすと笑いながらトーンを落とした声でそう囁く。彼の手がゆっくりと私の頭へと伸び、髪を梳き始めた。彼の指が私の地肌をくすぐり、さらさらと髪のあいだを通り抜けていく感覚が心地よい。
「今日は、和樹さんにくっついていたい気分になっちゃったんです」
私がそう呟いてより一層抱きつく腕に力を込めると、彼の手がピタリと止まった。どうしたのだろうと思い、顔を上げて彼の顔を覗き込む。すると、見開かれていた彼の瞳が細められ、彼の頰の筋肉がじわじわと緩んでいった。
「今日の僕にはゆかりさんを甘えん坊にする才能があるかもしれないなぁ」
和樹さんが冗談めかしてそう言うものだから、なんだか可笑しくて声を上げて笑ってしまう。嫌な才能ですねぇ、とこぼした私の声にはもう不安は滲んでいなかった。
バイオリズムのせいなのか、なんだか感情のコントロールがうまくいかなくなってしまう日ってありますよね。ゆかりさんのそれが、たまたまこの日だったのです。
朝五時台なので、子供たちは夢の中です。
まだまだ子供たちが起きてくる時間じゃないし……と和樹さんにすりすりし続けてるうちに眠ってしまったゆかりさん。和樹さんはにへへと鼻の下のばしてデレデレしながら寝顔鑑賞です。きっとMPがぐんぐん回復してますよ(笑)




