234 とある秋分の日
和樹さんは想いを自覚したものの……な時期のお話。
「和樹さん、秋分の日って、昼と夜の長さが等しくなるって言われてますけど、実際は違うって知ってました?」
「ああ、聞いたことはありますよ」
「なんだぁ」
残念、せっかく仕入れたのに、としゅんとなるゆかりに、苦笑する。
「ゆかりさんのトリビアですね、正確なところは知らないんです、教えてもらえますか?」
「はい! ええと、大気による屈折で、太陽の位置がずれるように見えることによる錯覚で、日の出と日没の差ができるんですって。だから、日本だと十五分程度の誤差があるそうです」
「ほう」
「赤道直下だと、太陽は真横にあるので、昼と夜の長さが等しい……はずなんですって」
ぱっと表情を明るくしてお披露目を始めたものの、最後は自信がないのだろう。ゆかりは覚えたての知識をなんとか披露する。気象系の調べ物をしたときにその情報は得ていた。本来の日の出や日没の時間が、錯覚によってずれることがあるなんていうのは、不思議でしかない。空気の歪みで狂っている時間は数分、それが明暗を分ける事態はどの程度あるのだろう。
「じゃあ、赤道直下の国に行けば、誤差がなく昼夜の長さが観測できるわけですね。行きたいですか?」
「赤道直下に? 無理です! 暑いの苦手」
「はは。確かに、残暑とはいえまだまだ涼しいとは言いづらいですねえ」
喫茶いしかわ。ここは、心地よい温度に保たれている。夏場に一度エアコンの故障で蒸し風呂になったものの、建物全体の空調設備を点検修繕した結果、前よりも快適に過ごせるようになったのはありがたいことだった。
「エアコンつけっぱなしで寝てます?」
「そうですね、けど最近は寝る前には消すかな」
「ええっ」
「窓から良い風が入ってきますしね」
「窓開けて寝るんですか! 私にはあれだけ防犯! 防犯! って言うのに……」
「まぁ、平気でしょう」
「いいなあ」
ゆかりは今日は髪を一つにまとめている。シンプルな濃紺のバレッタは、今日の喫茶いしかわのエプロンと同系色。小さめのイミテーションパールが数粒あしらわれていて、品の良さが彼女によく似合っている。誰かからの贈り物かと穿って見たものの、兄からだ、と聞いてホッとする反面、もっと彼女に似合いそうなバレッタを見つけたい気持ちに駆られてしまう。
「ゆかりさんはダメですよ、女性なんだし」
「別に一階に住んでるわけじゃないんですけど……」
「それでも、です。ベランダをよじ登ったり隣からやってきたり、上から、なんてのも最近はありますから、用心に越したことはありませんよ」
「ですかねえ。でも、今までは開けてましたし」
「ゆかりさん!」
「はい!」
ぎょっとして、思わず声を荒げてしまう。ゆかりは基本的に無防備だ。和樹がどれほど近くに立っていても危機感一つなく、下手をするとスキンシップだって取ってくるのだから始末に負えない。本人が無自覚であることが余計に和樹をハラハラさせて、守りたいと言う庇護欲が湧いてきてしまう。
「自覚あります? 可愛らしい女性だってこと」
「それセクハラ発言ですよ!」
「心配なんですって。窓開けたままなんて絶対ダメですから」
「でもエアコン代もったいないですし」
「ほんの数百円でしょう」
「まあそうかもしれませんですけどー」
今から家に閉じ込めて鍵全部かけてやろうか。かなり本気で思うけれど、ゆかりはのんびりとした様子で、気にしちゃう、と防犯より電気代を心配する。
「防犯とどっちが大事です?」
「うーん、和樹さんが言うならそうします」
口先だけだろうな……と内心で呆れながら、彼女の住まうマンションの防犯対策を調べておかねばと心に誓う。何より、彼女の住まいの付近では最近になって空き巣や痴漢が頻発しているのだ。遅く帰ることもあるゆかりをできるだけ送迎したいのだが、あいにく毎日というわけにはいかないのが厳しい事情。
「そうしてください。さて、今日はじゃあ、アイスコーヒーは少なめでいいですかね」
「そうですねぇ。温度が低いとアイスコーヒーあんまり出ませんしね。けど、まだまだ欲しい方はいらっしゃるかしら」
「じゃ、継ぎ足すつもりで……」
「そうしましょう、昼から暑くなったら困るし」
「ですね」
エプロンをして、二人で開店準備をする。ささやかな日々の充実を味わえる、和樹にはその景色がとても大切だった。
◇ ◇ ◇
「戻りましたー」
「お帰りなさい、和樹さん。さっき、お土産いただいちゃいました!」
おつかいを頼まれたのは、牛乳と食パン。徒歩で行ける距離だからと、車を使わずに散歩を兼ねて商店街に出かけてみる。新しい店ができていれば店主の表情のひとつも確認したいし、自治会長に会えば、情報が得られる。
ときには本来の業務の情報の受け渡しも兼ねているのだが、今日は何事もなく買い物を済ませることができた。世間はハロウィンに向けてオレンジと紫の色合いが増えてきていて、ケーキ屋ではすでにジャックオランタンがこちらにアピールをしてきていた。
「お土産?」
「はい、時々いらっしゃる、背の高いメガネの」
「……」
メガネはたくさんいるが、と和樹は苦笑する。見た目の情報を他人と違えて把握する、メガネ、だけではなく、風貌や持ち物で特徴的なものがないと見分けがつきづらいのだ。
「それだけじゃ特定できないですよ、ゆかりさん」
「あら? ええと、たしか理髪店の息子さんやこのあたりをよく巡回するおまわりさんのお知り合いなんですよ。たぶんサラリーマンだと思うんですけど、お仕事を伺ったことはないなぁ」
「……ほう」
思い当たる人物が約一名。まさか、と思いつつ、和樹は買ってきた荷物をカウンターに置いた。
ゆかりは他に覚えていることはー、とやはりいつものごとく天然の様子で小首を傾げる。
「和樹さんのいるときにはあんまり来られないんですけど、ミックスサンドを召し上がって、アイスコーヒーとで」
「ホォ」
「あ、今日は髪を切ってて、ちょっとツンツンになってて、さっぱりしてました! くたっとしたスーツに太めのネクタイされてたかな……」
色までは細かく覚えてないなあ、とゆかりは眉根を寄せる。
和樹は、自分のいない間を狙って、部下の約一名がこの店に出入りしていることを初めて知った。
ゆかりの情報がなければ気がつかないままだっただろう、ふつふつと内心で湧いてくる感情を押さえ込み、笑顔を張り付かせる。
「で、それは?」
「おはぎです! お彼岸ですから、甘い物食べたいと思ってたんですよー」
「ああ、あさひ堂のですね、美味しそうだ」
長田め……。
和樹も気に入って出入りしている和菓子屋のひとつ。商店街の大通りから一本入った場所にある老舗で、昼には売り切れてしまうこともある生菓子だ。
「和樹さん、休憩しません? おはぎとアイスコーヒー、ちょうどいいと思うんです」
「はい、そうしましょう」
「牛乳入れてカフェオレにしましょうか、ちょうどふたりぶんありそうなんで」
「ええ、じゃあ、ゆかりさんにお任せします」
「これ、お皿にお願いできます?」
「はいはい」
パックを受け取り、包み紙を外す。長田がわざわざやってきてランチタイムを過ごしていたのが憎い、と思いながら中の輪ゴムを取ろうとして、ふと、何か小さなものが飛んだ気がして。
「……っと」
床に小さな黒の物体。拾い上げると、microSDカードが一枚。
N、と一文字。
和樹はなんとも言えない表情を浮かべる。
「これを僕が手にしなかったらどうするつもりだったんだ……」
ゆかりに託すのならもう少し方法があるはずだ。これくらいなら、封筒に入れて喫茶いしかわの郵便受けのほうがまだマシだ。小さすぎて飛ばしてしまえば情報漏洩で処分される可能性だってある。ここにも一人、迂闊な奴がいたか、と和樹は舌打ちした。
「ったく」
「和樹さん?」
アイスカフェオレを支度したゆかりがきょとんと首をかしげる。下から覗き込まれて、慌てて顔をあげる。
「あ、いえ。おはぎなんて久しぶりだな、と思って」
「ふふ。本当はお抹茶点てるのがいいんでしょうけど、喫茶店なのでコーヒーです」
「はは、そこは気にしなくていいでしょう、いただきます」
アイスカフェオレとおはぎで、おやつタイム。
「おいしいー」
「小豆が大粒で食べ応えがある。つぶあんの具合とバランスもいいですねえ」
「お客さんにいただくと嬉しいですねー」
おはぎは、もち米をつぶあんで覆ったものと、こしあんをもち米でくるんできな粉をまぶしたものの二種類あった。おはぎに罪はない。言い聞かせながら咀嚼する。もち米の風合いもきな粉のしっとり感も上質で、久しぶりに食べたが、好ましい。
「ええ、下心がなければ、ですけど」
「そんなのないですよお」
「わからないですよ」
「わかります! あの方は私とか好みじゃないと思うんですよねー」
「……ホォ」
ええとですね、とゆかりは楽しそうにおはぎを飲み込んでから、言った。
「かっちりした年上のお姉さんが好きそうなタイプと見ました!」
「例えば?」
「婦人警官みたいな!」
「……それ、推理ですか?」
「はい!」
「まったく論理的ではありませんねぇ」
「ええーっ、そうですかねえ……」
婦人警官みたいな、というあたりで一瞬彼女の洞察力に期待するが、よく商店街やこの店を巡回している警官と知り合い、という雰囲気からの予測に過ぎないだろう。そういえば長田の好みのタイプは知らないな、とアイスカフェオレをすする。
「ま、それはともかく……っと、いらっしゃいませ」
「あっいらっしゃいませ!」
余計な話はしないに越したことはない、と話題をそらす前に、からん、と元気良くドアが開いた。
「おなかすいたー!」
「あっ、今日は和樹にーちゃんいる! 俺ミックスサンドイッチ!」
「あたしたまご!」
「僕、ハムで!」
「こらこら、いっぺんに言わない!」
祖父に連れられたサクラとその友人たち。後ろから飛鳥も付いてきていた。ミックス、卵、ハム……とオーダーを繰り返して、視線を後ろに向ける。
「はは、飛鳥ちゃんたちは?」
「私もミックスサンド」
「あたしも。……マスタード抜いてね」
「了解」
滅多に和樹に話しかけることのない大人びた表情を浮かべる少女のマスタード抜きに年相応な様子が垣間見えて微笑ましい。
「わしはアイスコーヒーにしようかのう、それとチーズトーストで」
「はーい、承知しました!」
ゆかりがにこやかにオーダーを受ける。
「和樹さん、サンドイッチお任せしたいんですが!」
「はい、はい」
人使いが荒いなぁ、とぼやくと、ゆかりはぷうっと膨れて、厳しい指導です! と言った。なんだかその表情が可愛らしくて。はいはい、と和樹はもう一度言って、ゆかりに見えないように、口元を緩めたのだった。
秋分の日はもうちょっと先ですけれど、スーパーでもおはぎ見かけること増えましたよね。
さつまいもやら栗やら、秋らしい食材も増えて、ほくほくです。
割烹には載せましたけど、初ファンアートをいただいて、浮かれてます。




