232-2 包まれたいのは(中編)
新しい客の来店か、となんとなくそのベルの音を聞いていた。そろそろ自分も仕事に戻るにはいい頃合いかと時計を見ながら、残りのコーヒーを飲みほす。信じられない単語が愛する妻の口から聞こえたのは、そのすぐ後のことだった。
「いらっしゃいませ~。わぁっ! 乾さんっお久しぶりです!」
ブフォォォォォ!
和樹は思わずコーヒーを吹き出した。イヌイ? ……乾!?
どうか幻聴あってくれと心の中で願いながら和樹が振り返ると、無常にもそこにいたのは相変わらず人相の悪い、和樹が世界で一番嫌いな男だった。
「やぁ、ゆかりくん。久々だね。変わりはないかな?」
「はい! 見ての通りとっても元気です!」
「それは何よりだ。いつものコーヒーと、あとはナポリタンをもらえるかな?」
「かしこまりました。ちょっと待っててくださいね~」
ツッコミどころが多すぎる。あまりにありすぎて和樹が呆然としていると、おや、とまるで今気がついたかのように乾が声を上げた。
「石川君じゃないか。これは珍しい人物にあったな」
あまりの白々しさにようやく金縛りがとけた和樹が声を上げた。
「乾ぃぃぃ! アメリカにいるはずの貴様がどうして俺のテリトリーにいるっ! その上なぜ喫茶いしかわに、というかゆかりくんってなんだ! うちのゆかりさんと親し気に話しやがって! 事と次第によっては今すぐ通報して拘置所に送ってやるっ!」
椅子を蹴飛ばして立ち上がり一気に叫ぶと、乾がキョトンとした顔で和樹を見た。
「なんでって、休暇だ」
「休暇ぁぁあああ!?」
「あぁ、俺の実家は日本にあるからな。休暇がとれれば家族に会いにくるのは普通だろう」
ワーカーホリックな君と違ってアメリカ人はバカンス休暇だってとるさ、とのたまわった乾に、「やっぱりお休みって大事ですよねぇ」「そうだねぇ」とゆかりと中川ののんびりとした会話が加わる。
「それにゆかりくんのことも石川くんと呼んでしまったら、君と被るだろう」
「そういう話してんじゃねぇぇぇんだよっっっ!」
ゼェゼェと肩で息をしながら和樹が叫ぶと、お待たせしました~と間延びしたゆかりの声とコーヒーの香りが漂った。
「ありがとう。うん、やはりうまいな。コーヒーは喫茶いしかわのものにかぎる」
「うふふ。それはマスターも喜びますねぇ、乾さんてばお上手なんだから!」
「いや、本当のことだ。俺は仕事以外のことは酒とタバコとコーヒーくらいにしかこだわりはないが、この味にはアメリカでもまだ出会えていない」
おかげですっかり病みつきだ、などと平和な会話を繰り広げる目の前の光景に、これはいったい何の悪夢なのかと和樹は頭をかかえた。
「それにしても、やっぱり和樹さんは乾さんと仲良しなんですねぇ」
「はぁっ!? ゆかりさん……いったい何をどう解釈したらそうなるの……?」
だって和樹さんがそんなふうに喜怒哀楽を爆発させてる相手なんて、私初めて見ましたよ! と嬉しそうにゆかりが笑うが、どう見たって怒の部分しかなかっただろうと和樹はうな垂れた。
「和樹さん、乾さんは少し前から喫茶いしかわに通ってくれてる常連さんなんですよ! お仕事やお休みで日本にきたときは必ず寄ってくれていて、うちのコーヒーを贔屓にしてくれているんです!」
和樹さんのお友達だっていうのは鉄平くんから聞きました! とニコニコ笑うゆかりに、あんのクソガキ! と思わず口に出してしまったのは許してほしい。
「和樹さんの仲良しさんにお会いできて、私は嬉しいですよ。はいっナポリタンです!」
と乾の目の前に皿をコトリと置いた妻の笑顔が眩しい。
「ゆかりさん、あなたには警戒心ってものがないんですかっ!?」
と声を張り上げると、キョトンとした二つの顔が和樹を見上げる。
「だって、和樹さんのお友達ですもん」
思わずガクリとテーブルに和樹が突っぷすと、大変だねぇと労わるような中川老人の声が響いた。
乾は、和樹にとって詰襟を着ていた頃からのライバルといえる関係の男だ。勝ったり負けたり……というか、和樹は負けたことはないつもりだが、勝てた実感を持てたこともない相手だ。そういう関係なのだ。
乾のほうが和樹の態度を受け流すので、和樹のほうだけがムキになって勝てない相手を一方的に目の敵にしているだけのように見える。
ゆかりは、乾は「喫茶いしかわで行なった結婚式で牧師さん役を引き受けてくれた和樹さんの仲良しさん」だと思っている。ゆかりの前では押しは強いものの柔らかな物腰を崩したことがなかった和樹が素の表情を見せる数少ない相手だからだ。
ここで結婚式を挙げた頃も今も海外勤務が続いている乾は、喫茶いしかわには滅多に訪れないレアキャラではあるが、ゆかりにとっては大事な常連さんだ。実際、結婚式の後から鉄平くんと一緒だったり一人だったりしたが何度か様子を見に来てくれた。それにゆかりが若い女性だからと高をくくって会計を踏み倒そうとする困ったお客さんが現れたところにたまたま居合わせて対応してもくれているのだ。さすが和樹さんの仲良しさん、いい人だなぁと思っている。ただ、そのことは和樹には伝えていなかった。話がややこしくなりそうだったし仕事が忙しい和樹に細々としたトラブルを伝えて余計な心配をさせたくなかったからだ。
しっかりと咀嚼してナポリタンを味わう乾の口元にはケチャップがついているが、それすらも色気に換算されているようにゆかりには見えていた。ううん、やはりさすがは和樹さんのお友達、いい男の周りにはいい男が集まるのか、と心の中で感心していた。
乾はふうと一息つくと、ゆかりを見て唇の端を上げた。
「それにしてもゆかりくんのナポリタンは何度食べても絶品だな」
「というか、お前は何を普通にゆかりさんのナポリタンを食べてるんだっ!? 誰の許可をとって口に入れているっ!? お前の口にゆかりさんの料理なんてもったいなさすぎるっっっ貸せ! 僕が全部食う!」
「んもぉ、和樹さんそんなにお腹空いてたんですか? さっき大盛り食べたばかりなんだから、食べ過ぎはよくないですよぉ」
「そうだぞ石川君。ベビーフェイスに忘れそうになるが、君だっていい歳だろう」
「お前だけには言われたくないわっっっ!」
なんなんだこのカオスな空間は! 世界で一番大好きなひとと世界で一番大嫌いな男のまさかの繋がりに呆然とする和樹だったが、そのカオスな空間にさらなる爆弾を投下したのは、まさかの伏兵中川老人であった。




