232-1 包まれたいのは(前編)
まだまだ新婚さんの頃のおはなし。
眉間に皺を寄せ、目の下には濃いクマ。心なしかくたびれたスーツを身にまといながらも、決して仕事の効率は落とさない。そんな絶賛四徹中の和樹についに休憩を促したのは、腹心の部下ともいえる長田であった。
「石川さん、お昼でも食べてきたらどうですか」
「そんな暇はない。昼飯ならさっき飲んだし、そんな時間があるなら早く終わらせてとっとと帰ってゆかりさんに会いたい」
「石川さんが先程ゼリー飲料を飲んだのは朝方ですから、あれはむしろ朝ご飯かと思いますが」
「そうだったか?」
「はい。それにそちらの書類もだいたい今日中で目処がつきそうですし、お昼を食べてきたところでたいして影響はないかと」
それでもいまいち乗り気ではなさそうな和樹に対して、それにと長田がさらにつづけた。
「和樹さんが休まないと休みづらい部下もいますし、そろそろいい頃合ではないですか。散歩がてら、喫茶いしかわにコーヒーでも飲みに行かれてはどうです?」
そこまで言われてしまえば、和樹としてもそれ以上特に反論する理由もないわけで、思わず和樹は苦笑いを浮かべた。
「お前、俺の扱いうまくなったよなぁ」
「恐れ入りますが、私がどうこうというより、和樹さんへの奥様の効力が強いだけでは?」
「まぁな、ようやく始まった新婚生活だっていうのにもうゆかりさんに一週間も会えてないからな。今日はようやく全部終わらせて久々に帰れそうだし、お前の言うとおりちょっと喫茶いしかわで昼飯でも食べてくるか」
「ええ、ぜひそうしてください。今の時間ならランチタイムが終わる頃ですし、おそらく混み合っていることもないでしょう」
まったく有能な部下を持ったものだと思いながら、和樹は席を立った。
昼飯にいってくる、とだけ声をかけて部屋を出たが、その瞬間なんとなく周りの張り詰めた雰囲気がふっと緩んだような気がして、長田の言うとおり少し自分のペースに巻き込んでしまっていたようだと反省する。仕事を進めるためについつい徹夜上等で根を詰めてしまいがちだが、周りも皆が皆、和樹のようにできるかといえばそういう人間ばかりなわけもない。周りのためにも適度な休憩をはさむことは必要か、とため息をつきながら、和樹は職場を後にした。
喫茶いしかわは和樹の職場からわりと近い。和樹にとっての憩いの場は立地条件がすこぶるいい。だからこのビルからランチタイムに出かける者も多いことは知っていたが、残念ながら和樹はそれには当てはまらない。昼飯なんてせいぜいがゼリー飲料やおにぎりなど片手間に食べられるものがほとんどで、むしろ何もとらずに終わることのほうが多い。時々着替えと一緒にゆかりが持ってきてくれる差し入れが、唯一の食事らしい食事といえる日も少なくない。
喫茶いしかわへの道を歩きながら、和樹はここのところ顔すらまともに見られていない妻に想いを馳せた。和樹とその妻である石川ゆかりが結婚したのはつい数ヶ月前。つまり一般的にはまだまだ新婚といえる時期だ。それでも出張だ泊まり込みだと仕事で家を空けがちな自分が家に帰れる日は少なめだ。ゆかりのスケジュールに合わせてどこかに連れて行けるような休みもめったに取れず、ゆかりが毎日送ってくれるメッセージにすら返事できないことも多い。それでもゆかりは文句ひとついわず、毎日必ずおはようとおやすみのメッセージ、そして今日一日何があったかを教えてくれる連絡を欠かさない。そして毎日目まぐるしく忙しい日々の中で、そのメッセージを読むことだけが和樹にとって唯一の癒しの時間となっていた。
でも、ゆかりさんは何も言わないんだよなぁ……と和樹は思う。彼女は決して、寂しいとか会いたいという言葉を口にしない。それはおそらく多忙な自分を慮ってのことで、色々と我慢させてしまっている結果だと和樹は分かっている。実際、結婚する前にも既にそのことについてはお互い了承済みだ。だからこそ、ゆかりの口からその言葉を聞きたいと思ってしまう自分の矛盾に、和樹は乾いた笑いを浮かべる。実際に言われたら困ってしまうだけなのは分かっていても、それでも聞きたい。自分がゆかりに会えずにいる間寂しいと、会いたいとこれだけ思っているのだからそれと同じくらい、ゆかりにもそう思っていてほしい。
「結局惚れたほうが負けってことか」
そんなことを思わず口にしながら、和樹はひとり笑う。つまるところ、自分は妻のことが好きで好きでしかたないのだ。会えなきゃつらいし寂しい。あのふにゃりとした笑顔を見て癒されたいし、心地いい体温をこの腕にとじこめて離したくない。数日顔が見られないだけで深刻なゆかり不足に見舞われる自分が、まるで恋を知ったばかりのティーンのようで。まいったなぁ、なんて呟きながら、それでも今の和樹の頭を占めるのは、あと数分後には一週間ぶりに顔を見られる妻のこと。頭がゆかりでいっぱいになる。せめてもう少しシャンとした格好で、ちょっとでも彼女にかっこいいと思ってもらえる姿で会いたかったな、なんて今更髪を手で整えながら、和樹はチリンチリンと音のなる喫茶いしかわの扉をくぐった。
「いらっしゃいませ~って、和樹さん!?」
和樹の予想通り、店に入るとニコニコと笑う相変わらず可愛らしい妻が、喫茶いしかわの優しいコーヒーの香りとともに迎えてくれた。
「ゆかりさん、久しぶり」
「和樹さん! お仕事はっ?」
「やっと片付く目処がついてね、今日は久々に帰れそうなんだ。たまには喫茶いしかわで昼飯でも食べてこいって、優秀な部下が送り出してくれてね」
「さては長田さんですね? 感謝しなきゃですねぇ。久々に和樹さんに会えてそれだけで嬉しいのに、今日は久々に帰ってこられるだなんて本当に嬉しい! 今ならここで踊りだせそう!」
そうやってぴょこぴょこと和樹の側に寄ってきて、本当に嬉しそうに笑う彼女があまりに可愛らしくて、思わず和樹は彼女の頭を撫でた。
すごい、あんなに疲れていたはずなのに、ゆかりさんの笑顔を見て頭を撫でていたら、もうなんか色々全部ふっとんだ気がする、これがヒーリング効果ってやつなのか、可愛さの暴力がえぐい。そんなことを和樹が思っていると、目の前のゆかりがむぅっと声を上げて眉間に皺をよせた。
「ゆかりさん、どうしたの? 眉間にシワがよって、なんか可愛い顔になってるけど」
「違いますっ怒ってるんです! 和樹さん、また目の下のクマがすごいことになってる! それにちょっと痩せましたよね? もうっ! 最低限の睡眠と食事はとるってあんなに約束したのに、早速破りましたね?」
彼女が思うところの怖い顔を必死に作りながら、ゆかりが和樹の目の下のクマをなぞる。全然怖くない彼女の怒った顔が可愛いやら、久々に触れる彼女の指が気持ちいいやらで、思わずその場で抱きしめそうになった和樹をなんとか思いとどまらせたのは、店内にいた唯一の客である常連からの挨拶だった。
「やぁ、和樹くん。久しぶりだねぇ」
「中川さん、ご無沙汰してます」
喫茶いしかわの常連客である中川は、近所に住むゲートボールの好きな七十代の老人だ。和樹がただの客として喫茶いしかわを訪れ始めた頃から知っている。
「やだ、もう! 中川のおじいちゃん、ごめんね? すぐにお代わりのコーヒーお持ちしますからね!」
慌てたようにゆかりが和樹から離れて、カウンター内にかけていく。ゆっくりでいいよ、と笑って声をかける中川の言葉を聞きながら、和樹もゆったりといつものカウンター席へと腰掛けた。
「それにしても、ゆかりちゃんの新妻シーンが見られるなんて、今日は得しちゃったなぁ」
「もう、中川のおじいちゃんったら。ほんとに恥ずかしい。マスターや他のお客さんがいなくてよかったぁ」
「そういえば今日はマスターは?」
和樹がそう問いかけると、今日は町内会の集まりがあるみたいで、とゆかりから答えが返ってくる。
「はい、お待たせしました。コーヒーのお代わりです!」
「あぁ、ありがとうゆかりちゃん」
「和樹さんはどうします?」
「そうだな、、いつものコーヒーと、あとナポリタンもらえる?」
「了解です!」
大盛りにしますから、ちゃんと全部食べなきゃダメですよ! と頬を膨らませるゆかりに、思わず和樹は笑ってしまう。こんなふうに声を上げて笑うことなんて、やっぱりゆかりと会わない間はありえなかったのだから、やはり彼女はすごいと和樹は改めて思う。ゆかり特製の大盛りナポリタンをなんとか完食して、コーヒーを啜りながらゆかりや中川との雑談に花を咲かせる。そんな和樹に訪れた久々の平穏をぶち壊したのは、チリンチリンとなった扉の音だった。




