231 彼女の苦手なもの
ゆかりさんと和樹さんが「連絡先交換はできたけどまだまだ常連客と看板娘でしかなかった頃」のお話。
ゆかりにとって、何の変哲もない、いつも通りの一日だった。
喫茶いしかわでの仕事を終え、スーパーマーケットで買い物をして夜九時前には家に帰り、夕飯を済ませて風呂に入った。まだまだドライヤーの温風が暑苦しい季節だ。根元だけ乾かしてスイッチを切って、ベランダの窓を少し開けた。
時々見ている、十一時からのバラエティ番組には間に合いそうだ。テレビの電源を入れる前にアイスクリームを取りに行こう、どれを食べようかなと考え始めたところで、なんとなく気配がしたような気がして、少しだけ気味の悪さを感じた。まさか窓の外に何かいるのだろうか。ゆかりは反射的に窓の傍から離れながら自身の背後を振り返った。その時だった。
視界の端を灰色の手の平のようなものがよぎる。驚いて、足元にあったクッションを蹴飛ばしてしまった。灰色のなにかは、それに向かってたった一瞬で飛びつき──ゆかりは助けを求めて、携帯電話に手を伸ばした。
◇ ◇ ◇
和樹にとって、何の変哲もない、いつも通りの一日だった。
営業先で愛想を振りまきつついくつかの契約を成立させて直帰。自宅でふうと息をつきながらパソコンに送られてきていた報告書にさっと目を通し、切り上げたところでシャワーを浴びた。
最近、外では滅多に酒を飲まなくなってしまったので、冷蔵庫の半分は缶ビールで埋まっている。作り置きの惣菜を何品かと缶ビールを出し、プルタブに指をかけたところで、電話の着信音が鳴った。
音が鳴っているのは和樹のプライベート用携帯電話だ。この番号に電話をかけてくる心当たりは三人ほどしかいない。つい警戒心もなく電話に出てしまい、少し後悔した後に、電話口の声にそれを吹き飛ばされた。
「お兄ちゃん!? 助けて!」
切羽詰まった声。誰なのかは声ですぐにわかったはずなのに、思わず耳から話して画面を確認してしまった。
「すぐ来て! きゃあ!?」
泣きそうな悲鳴の直後に、ゴツ、という大きな雑音が鼓膜を叩く。電話を取り落としたのだろうか、すぐに拾い上げられた様子がないことに、緊急性を感じた。
「ゆかりさん!? ゆかりさん、大丈夫ですか!? どうしたんですか!」
ほとんど張り上げるような声で電話口に向かって声をかけた。すぐにスピーカーに切り替えて、声かけを続けながら部屋着をデニムに履き替える。
五度目に名前を呼びかけたとき、向こうの様子が変わって、電話を拾い上げたことがわかった。動けないような状況ではないらしいと安堵しながら、シャツを羽織る。
『あ、和樹さん!? あれ、うそ!?』
「ゆかりさん、どうしました!?」
『やだ私、お兄ちゃんにかけたつもりで』
声に冷静さが少し戻っていることにもほっとする。だが、動くのを躊躇することはなかった。喫茶いしかわからの帰り道を送ったことがあるから、彼女の家の場所は覚えている。
「大丈夫ですか? 今家ですか、すぐに行きますから、安全を確保してじっとしていて」
一息にそう言うとキーケースを手に、脱いでソファに放り投げたままだったレザージャケットも引っ掴んで、部屋を飛び出す。
ゆかりから電話を受けてから、一分半も経たないうちのことだった。
◇ ◇ ◇
和樹がアパートの前に車を停めたとき、ゆかりはエントランスの隅にしゃがみこんでいた。怪我と体調不良の可能性が頭をよぎったが、走って駆けつけると立ち上がって出迎えた彼女に異変はないようだ。携帯電話を握り締める手に血の気がなくて、思わず手を取る。
「大丈夫ですか!?」
「あ、和樹さん……ごめんなさい」
困ったような泣いたあとのような顔で、彼女は口を開いた。頬と鼻の頭が赤い。よく見ると髪の毛先が濡れているのは、風呂上がりだからだろうか。ショートパンツと長袖のパーカーはパジャマのようだ。ふわふわした素材ではあるが薄手だろう。怪我の有無を確認するつもりが思いのほか体のラインや素足が目に留まってしまって、慌てて目線を上げた。ジャケットを脱いでゆかりの肩にかけ、顔を覗き込む。
「どうしたんです? なんで外にいるんですか?」
「だって……部屋にいられなくて」
「とりあえず様子を見に行きましょうか、何階ですか?」
「さ、三階……」
伏せた目元がまた泣き出しそうに見えて、内心かなり動揺していた。部屋にいられないということは、中でなにかが起きたのだ。火事やガス漏れ、水漏れなら兄よりもまず専門の機関に連絡するだろう。そんなもの信じてはいないが、超常現象とも考えにくい。だとすると相手は災害ではなく、人間か動物。
階段を上がりきってドアノブに手をかける。そこまで考え至ったとき、ようやく落ち着いたのか、ゆかりがこちらを見上げて言った。困り顔は相変わらずだ。
「すいません和樹さん、こんなことで呼んじゃって」
「いいんですよ、すぐに駆け付けられてよかったです。それで」
「あのぉ……」
言い淀む様子と、ばつの悪そうな上目遣い。電話口で開口一番叫んだ時のような緊迫した感じは、もうなくなっていた。
「く、クモが」
「はい?」
「大きいクモが……」
あまり何も考えずにドアノブを回していたが、思わずすぐに扉を閉める。
「クモ……ですか?」
「ばっと手を広げたみたいに大きなクモが~~」
さっと顔色を変えたゆかりはあまりに真剣な顔をしているので、笑うに笑えなかった。
ここいらの屋内で大きなクモといえば、アシダカグモだろうか。確かに脚を広げればそのくらいのサイズにはなるかもしれない。
様子を見てきます、と言って再びドアを開けた。ゆっくり覗き込むと、ローテーブルのあたりに灰色が転がっていた。ティッシュを拝借して処理したあと、ドアの前で待っている家主を呼んだ。
「窓から逃がしました。益虫だし殺すこともないでしょうし、それにゴミ箱とはいえ部屋に捨てられてるのは嫌でしょう?」
大きくこくこくと頷くゆかり。そんなゆかりの濡れ髪を見下ろして、和樹は言う。
「さて、ゆかりさんには厳重注意が必要ですね」
「は、はい……ごめんなさい」
「いいですか、まずそんな薄着のまま外に出てはいけません。緊急時なら仕方ないですけど、このアパートの前、結構暗いし路地が多いですよね?」
「あ、なんだ、そこ?」
何を言われると思ったのか一瞬しょぼくれた子犬のようになったゆかりが、予想外なお叱りに緊張を解されたようだ。和樹は「なんだじゃないです」と眉を寄せた。
「だいたいなんで窓開けてたんですか」
「お風呂上がりで暑くて……」
「せめてベランダ以外にしてください。今回は虫だけだったからよかったものの、人間だったらどうするんです」
「さ、三階ですよ?」
「登れますよそのくらい。僕でもできます」
「まじですか」
「あと夜にカーテンも開けない。覗かれたいんですか」
全体的に貴女は無防備すぎます、と締め括ると、勢いに推されたゆかりが呆気に取られた顔で「はぁ、すいません」と言う。これは恐らくあまりわかっていない顔だ。
「あっ、お詫びにお茶でも」
「だからそういうとこです」
「和樹さん顔こわいよ……」
ぽんと手を叩きながら言うゆかりに和樹ははあ、と大きく溜め息を吐いた。
風呂上がりのすっぴんだわ、シャンプーのいい香りはするわ、生足だわ、薄着で外に座り込むわ、あげくのはてに部屋に上がって行けとは。この年齢までどうやって生きてきたのかすら疑問なくらい警戒心が足りない。
ここは絶対帰らねばならない。だが夜の十一時、夕飯もまだなのに、悲鳴でぎょっとさせられ、呼び出されて、クモを片付けさせられて。
「あ……アイスも出します!」
いいこと思いついたとばかりにぱっと表情を明るくさせてこんなことを言われては「ちょっとくらい許されるんじゃないだろうか」と思ってしまうではないか。
ふは、と小さく笑って、少し低い声で「ゆかりさあん」と言う。
「実は僕、夕飯これからだったんですよ」
「え、そうなの! 何か作ろうか? 大したものは出せないけど」
「はは、お言葉に甘えまーす」
その後、さりげなく防犯レベルのチェックをしたり、最初は車で四十分の場所に住む兄を外で待つつもりだったと聞いてまた少し説教モードに入ったりしたが、ゆかりの作った焼きうどんが絶品で、そのうえ結局アイスも二人で食べてしまい、帰る頃には日付が変わって随分経っていたのだった。
ゆかりさんにとって常連客の和樹は紳士、このまま帰る! と心の中で何度唱えたことか。
◇ ◇ ◇
「あれ……逃げたってことは、あのクモまた入ってきちゃうかもしれない……?」
「その時はまた呼び出してくれていいですよ」
「次は高級抹茶アイス買っておきます……!」
そういうところですよゆかりさん! もう和樹さんにがっつり叱られなさい(苦笑)
兄の家よりも実家のほうがずっと近いんじゃないの? と思ったあなたは正しい。だけど、翌朝が早番の日の両親はかなり早い時間に寝てしまうのをゆかりさんは知っているので、夜(喫茶いしかわからの帰宅後)の救難信号はいつも兄が第一候補になっていたという裏設定がありました。
和樹さんは、ビール開ける前でよかったね。飲酒運転ダメ、ゼッタイ。
お礼の品は高級抹茶アイスよりもゆかりさん手作りのお惣菜をおねだりするんじゃないかな。
しれっと「ゆかりさんに手間をかけさせてしまうかわりというわけではありませんが、食費…というか食材は、もちろん僕が提供しますから。いやぁ出張先でいろいろいただいても作る暇がなくて困ってたんですよーはっはっは」とか言いながら首を縦に振らせそうです。




