表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

327/758

230 無防備な彼女

 グラスが傾いた瞬間に気付いて、あ……と思ったのに、防げなかった。

 カウンターの中にいてはさすがに間に合うはずもない。


 ひゃあ! と高い声と、きゃあごめんなさい、という女性の声が店内に響く。

 料理を運んでそのまま空いた席の皿を片付けに行ったゆかりが、落とした紙ナプキンを拾おうと屈み込んだ時のことだった。

 隣のソファ席で母親の膝の上に座っていた小さな子供が、お冷やのグラスに手をぶつけてしまったのだ。よく冷えた水がたっぷり入ったグラスは勢いよく倒れ、しゃがんでいたゆかりは肩口からお腹までぐっしょり。氷水を被ってしまったというわけだ。

 平謝りする女性客を笑顔で宥め、すばやく濡れた床を拭き、ついでに驚いて泣きそうになっていた子供まであやしてカウンターに戻ったゆかりに、和樹は用意していたタオルを渡した。

 フォローする隙など一切ない動きだった。


「大丈夫ですか?」

「あはは、冷た……服、白とかじゃなくてよかった」

 濡れて肌に張り付く服が淡い色だったら、下着が透けてしまっていただろう。

 今日の彼女は紺色のノースリーブのワンピース。だから透ける心配はなかったが、トップスだけ脱いで着替えることもできなかった。さすがにボトムスの替えまでロッカーに置いておくほどの準備の良さはなかったらしい。

 いくら今が夏であるとはいえ、店内はクーラーを効かせて涼しくしてある。氷水を被って濡れた服をそのままにしていては、体温が奪われる一方だろう。

 なにも助けになれなかった罪悪感もあって、和樹は遠慮がちに言った。

「ゆかりさん、それじゃあ寒いですよね。僕のロッカーにシャツが入ってるので、よかったら着ててください」

「え、でも濡れちゃうよ?」

「全然いいですよ、ゆかりさんが風邪ひくより。ただ僕が今朝着てきたやつなんで、それでもよければですけど」

「じゃあ……借りちゃおうかな。助かる、ありがとうございます」

 微笑んでバックヤードに引っ込んだ彼女に、ほっとしたのは束の間のことだった。

 ややあってゆかりは、替えのエプロンを手に店内に戻ってきた。まさかそれを見て、二言前に自分が言った言葉を後悔することになるなんて。


 襟周りのアンバランスさに強調された、首の細さ。第二ボタンを留めてもあらわになっている鎖骨。

肩は二の腕のあたりまで落ちているし、袖も長すぎて、三回捲っても手首まで隠れた八分袖になっている。着ていたワンピースは膝丈だったが、太腿までシャツに覆われて裾からちらりと覗いている程度だ。

細い体が、あのゆるい背中のシルエットにすっぽり抱かれているのだと思うと、やけに落ち着かない気分になった。

 身幅が大きすぎて収まりが悪く、エプロンを着るのを手間取っていたので、背中側に回って紐を結んでやる。腰に合わせてきゅ、と絞ると、シャツで隠していた体のラインを際立たせているようで、いけないものを見ている気さえした。

 ついでに襟の内側に入ってたわんでいた髪を引き出してやると、ゆかりが振り返って照れ笑いを浮かべた。


「えっへへ、ありがとうございます。やっぱり大きい」

「少しは暖かいですか?」

「はい。かなりいいです! あっ」

 見下ろした先で、ゆかりが襟に顔をうずめる。

「和樹さんのにおいがする」

 くらりとした。表情に何も出ていないことを願うばかりだ。「あはは」と笑っているような声を出した。

「どんなにおいですか、僕」

「別にこれといった特徴はないんだけど。……あ、でも」

 襟を握ったまま、こちらを見上げて笑顔を浮かべる。


「わたしがここで着てたら、コーヒーとか、美味しそうなにおいになっちゃうねぇ」

 その『美味しそうなにおい』とやらの中にはゆかりも含まれているのだろうか。思わずゴクリとのんだ唾の音がやけに大きく聞こえた気がする。

 絶対に客に見せられる顔をしていない気がして、せめてもとフロアから顔を背けた。




 常連の女子高生三人組は、窓際のソファ席がお気に入りらしい。今日注文したメニューは二人がアイスカフェモカ、もう一人がアイスチャイだった。グラスを三つ運んで行くと、「ねぇねぇ」とエプロンの裾を引かれた。

 カウンターで調理をするゆかりのほうへ顎を向けている。

「あのシャツ、カズキさんのだよね? 今朝見かけたとき着てたやつ」

「ああ、肩からお冷やの水被っちゃって、寒そうだから貸したんだよ」

「ふーん……優しいんだね」

 鼻を鳴らして、射るような目でゆかりを見つめる彼女らに、和樹は少し困惑した。もしかしてこれがゆかりがよく言っている炎上案件、というやつか。いやしかし、常連でゆかりとも仲が良いはずのこの子たちがまさか。ぐるぐると考えあぐねる和樹をよそに、ぼそりと言った。


「彼シャツっぽい」

「まごうことなく彼シャツでしょう」

「なんかやらし……」

 再び営業スマイルが崩れそうになったが、よく知っているメンツとはいえ客の前だ。根性でなんとか堪えた。

 ほんのちょっと肩が揺れたのくらいは大目に見てほしい。


 このゆかりさん、きっと和樹さんに萌え袖上目遣いで「えへ」とかやってるよ。

 和樹さんは何回くらい丹田に力をこめるはめになったのやら。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ