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徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


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226-1 風呂あがりは○○○○牛乳(前編)

 この時期のこのふたりに、おつきあいの要素はかけらもなかったはずなんです。

 開店前のテーブルバッシングをしている間に、ゆかりは店周りの掃除を済ませて戻ってきた。そして二人でざっと店内を見渡した。紙ナプキンの補充も終わっているし、調味料の類いも問題ない。

 あと数分もしたら、常連客がちらほらやってくる時間ではあるが、常連客のメニューはほぼ決まっているから、仕込みを焦る必要もない。

 まあ、つまりは、暇なのだ。

「あ、そういえば」

「はい?」

 店内に居るのは和樹とゆかりの二人きりだ。呼びかけなくても、彼女は軽くいらえを返してくれた。

「今日はなんだか大荷物でしたね。帰りに何か予定でもあるんですか?」

 彼女が店にやってきた時から気になっていたことだった。いつもの彼女ならば、貴重品などを入れた小さなバッグやポシェットだけという軽装備なのに、今日はずいぶんと大きなトートバッグを持っていたのだ。


 帰り道に買い物でもするのか、だとしたら車で来ている和樹が一緒に付き合った方が便利だろう。と続けようとした時、ゆかりは大きな瞳をぱちくりと瞬かせた。

「和樹さんよく見てますねぇ」

「たとえ些細なことでもしっかり観察しておくのが、本業の基本のひとつですから……なーんて、いつものゆかりさんなら小さなバッグなのに、今日は大きなトートバッグを持ってたから珍しいなって思っただけですよ」

「ふふ、謙遜しなくていいのに。実は喫茶いしかわを上がったら銭湯に寄ろうと思ってるんです」

「銭湯……というと、あそこの、いろんなお風呂があるっていうやつですか?」

 あの施設は銭湯というよりアミューズメント施設に近いような気もするが。

「いえいえ、ごく普通の銭湯ですよ。たつみ湯っていう、レトロな感じの」

「ああ、何度か雑誌で紹介されてるのを見たことがあります。昭和レトロな感じが評判らしいですね」

「そうそう、そこです! 喫茶いしかわを閉めてうちに帰る途中に寄れるから、ちょうど良いんですよ。帰宅してすぐにお布団にダイブしてスヤァという寸法です」

 ふふん、とどこか得意げに笑うゆかりにつられて、和樹も笑ってしまう。


「ああ、でもたしかにそれは良いですね。広い湯船にゆっくり浸かって、風呂上がりには冷たい……」

『フルーツ牛乳!』

 示し合わせたように、二人の声が重なって、思わず吹き出してしまった。

「さすがゆかりさんですね。風呂上がりにはコーヒー牛乳かフルーツ牛乳かで派閥争いがあるというのに」

「ふふふ、私たちが勤めているこの喫茶店の売りはなんですか?」

「マスターオリジナルブレンドのコーヒーですねえ」

「その通りです」

 うんうん、と頷いてゆかりは掛けてもいないメガネを押し上げる仕草をして続けた。

「私たちは毎日そのコーヒーを味わっていますからね。きっと無意識にコーヒー牛乳を避けているんですよ」

「なるほど、たしかに一理ありますね」


 笑いそうになるのを堪えながら相槌を打ったというのに、ゆかりはぷはっと笑い始めてしまった。

「もう! 和樹さんそろそろツッコミしてくださいよ! 止められないじゃないですか!」

「え? 僕のツッコミ待ちだったんですか?」

「そうですよ! コーヒー牛乳も飲みますよ。雪マークの甘ぁいの好きなんですから」

「ああ、分かります。僕もたまに飲みたくなる」

 主に激務が続いた時に、無性に欲しくなってしまうのは、きっと脳が糖分を求めているのだろう。とはいえそのためだけに外出して買い求めるような余裕はないので、いつも職場にある自販機で缶コーヒーを買って紛らわせているから、最近は飲んでいない。


「思い出したら飲みたくなってきちゃったな。風呂上がりのコーヒー牛乳」

「ふふ、是非そうしてください」

「そうですね。じゃあ途中でコンビニに寄って良いですか? タオルとか買っていくので」

「もちろん」

 良いですよ。と頷いたゆかりが、頷いたまま固まった。その反応すら面白いと内心で思っていると、彼女はゆっくりと顔を上げた。

「あの……なんで、タオルを?」

「ははは、嫌だなぁゆかりさん。タオルがなかったら風呂上がりに身体拭けないでしょ」

「それはその通りですが、そうじゃなくて」

「銭湯、楽しみですね」

 にっこりと笑って、そう言い放って見せれば、ゆかりはパクパクと唇を戦慄かせた後に、悲鳴を上げた。

「なんで一緒に行くことになってるんですか!?」


 ◇ ◇ ◇


 喫茶いしかわの閉店後に銭湯に行くということは、その帰り道は遅い時間になる。そんな時間帯に風呂上がりの女性が一人でふらふらと夜道を歩くのは危険極まりない。それに僕だって久々に広いお風呂を堪能したい。ちょうどいいじゃないですか。……などと言いくるめて、二人は喫茶いしかわを閉めた後、コンビニで買い物をして銭湯に向かった。ちなみに和樹の車は、ゆかりが住むマンション近くのコインパーキングに駐めてあるので、彼女を自宅まで送り届ける算段までバッチリだ。

「はぁ~、まさか和樹さんと銭湯に行くことになるとは……」

 ため息混じりにそんなことを言ったゆかりに、さすがに和樹がムッと唇を尖らせた。

「何ですか。そんなに僕と銭湯に行くのが嫌ですか。別に覗いたりしませんよ。信用ないなぁ」

「いや、和樹さんがそんなことしないのは分かってます。私が心配してるのは、二人で銭湯に行くという神田川状態をJKに見られる可能性があるってことですよ」

「神田川状態……ゆかりさん意外に古い曲を聴いてるんですね……」

 ゆかりがきっぱりと和樹に対する信頼を口にしてくれたことに感動するよりも、そちらの方が気になってしまった。

「常連さんからお勧めされて聞いたことがあります。なんとも切ない歌詞が心打たれますね。貴方の優しさが怖い……なんでしょう……分かる気がします……どこがどうとは言えませんが」

 これは分かってないな。と思いながら、そうですねと頷くと、ゆかりはそうじゃなくて! と話を戻した。


「和樹さんと同じシフトに入っているだけで炎上しやすいというのに、一緒に銭湯に行ったのが知られてしまった日には……!」

「あの二人同棲してるの? とか言われそうですねぇ」

 みんな想像力がたくましいなぁ。と笑う和樹の横で、ゆかりはぶるりと肩を震わせた。

「JKの想像力が怖い……」

「まあまあ、大丈夫ですってゆかりさん。こんな遅い時間に普通の女子高生は出歩いたりしません。出歩いてたら補導されてます」

 まあ、そうは言っても補導員に見付からなければ補導されることはないのだが、ゆかりはあっさりと納得してくれた。

「それもそうですね」

 こんな簡単に言いくるめられてしまう彼女の将来が心配になってしまう。

「ゆかりさん、幸運を運ぶ水晶とか買わされないように気をつけてくださいね」

「そんなの買いませんって、私も信用されてないなぁ」

「いやいや、信じてますよ。でも一応クーリングオフっていう制度があるので、覚えておいてくださいね」

「和樹さんも、私は一応二十歳超えてるってことを忘れないでくださいね。ふふふ」

「ゆかりさんも、僕が三十路手前だってこと忘れないでくださいね。ふふふ」


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