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徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


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21-2 花屋の機転(後編)

 急ぎ足、いや、もはやダッシュの勢いでマンションにたどり着く。

 今日に限って車ではなく電車移動だったことを悔やんだ。なんせ、数日ぶりにまともにゆかりさんや子供たちに会える。こんな早い時間に帰れるのなんて、何週間ぶりだろうか。


 慌ただしく自分で鍵を開け、がちゃりと玄関の扉を開ける。靴を脱いでいる間に、ゆかりさんがぱたぱたとスリッパの音を鳴らして現れた。彼女が身に纏っているフリルがあしらわれたピンクのエプロンは、結婚祝いに店の常連客がプレゼントしたもののひとつだ。その姿を見て、つい笑みが溢れる。結婚して数年経つというのに、新婚さんの雰囲気を醸し出す妻は、とても可愛い。よく見れば子育てで疲れて眠そうな様子すら可愛すぎる。


「おかえりなさい! 和樹さん」

「ただいま」

「遅かったですね。駅に着いたって連絡きたからすぐかと思ったけど、もうお味噌汁冷めちゃったかも。あ、子供たちはもう寝ちゃいましたよ? 今日は保育園で大はしゃぎしてたらしくて、夕方からぐっすりです」


 はい、と差し出された手に鞄を預けてスーツのジャケットを脱ぎながら部屋へ入る。部屋には夕飯の香りが立ち込めていた。今日の夕飯は、鶏ささみ肉の梅しそはさみ焼きと、なすの煮びたし、セロリとパプリカの漬物、豆腐とわかめの味噌汁。

 こんなふうに、帰ると妻が作ったあたたかい夕飯が待っているシチュエーションひとつとっても、自分にとってはかけがえのないものだ。


「ちょっと、寄り道してたんだ」

「寄り道?」

「駅前に新しい花屋ができてて。ゆかりさん、知ってた? そこで、もらってきた」

 はい、と花屋の袋から、ラッピングされたピンクのガーベラを取り出し、ゆかりに差し出す。どんな顔をするかと楽しみにしていたのだが。


 彼女は、目をまんまるに見開いたあと、勢いよく笑い出した。そのまま、なかなか笑い止まないゆかりさんを横に、僕はひとり取り残されたように立ち尽くす。

 自分が花を持って帰ることは、そんなにおかしいことだろうか。それとも一輪だけだったのがいけないのか? いや、そういうサービスだし、サラリーマンがよく利用するとも言っていたから、そんなことはないはずだ……多分。


「……そんなに、僕が花を買ってくるのが面白いですか」

「いや、違います! 違うんです」

 つい、不機嫌な声が漏れるが、仕方ない。ゆかりさんはやっと笑い止むと、おもむろにキッチンを指差した。


 そのカウンターには、黄色いガーベラの花が、真新しい花瓶に飾られていた。


 それを見た瞬間、僕も吹き出さずにはいられなかった。

 ゆかりさんもきっと、今日、同じ店で同じサービスに登録してきたのだと容易に想像できる。その笑いにつられ、一度笑い止んだゆかりさんもまた笑う。

 二人で笑いあい、収拾がつかない始末だ。こんなに声を出して笑ったのは、久しぶりだった。


「はー、お腹痛い。和樹さん、同じことしてたなんて。くふふ。気が合いますねぇ」

「はは……ほんとに……あの花屋、ゆかりさんに似てる店員がいたんだ」

「あ、私も多分その人に接客されましたよ。我ながら、似てるなーって思いました。黄色いガーベラの花言葉は究極の愛って教えてくれて……でも、和樹さんのはピンクですね。黄色は売り切れちゃったのかな」


 そこまで聞いて、和樹ははっとした。 

 そうか、あの子、気付いていたんだ。

 それに気付けば、一度止まった笑いがまたくつくつとこみ上げてくる。今度は僕が一人で笑っている状況に、ゆかりさんがぽかんとした表情を浮かべる。

「えー、何で笑ってるの?」

「いやぁ。彼女、とってもできた店員さんだな、と思ってね」


 きっと「矢車草が好き」という会話をゆかりとしていたのだろう。だからきっと、確信を持ったのだ。だからきっと、彼女はあんなに微笑んでいたのだ。

 花の色が被らないようにしてくれたし、うまくお代も払わせなかった。今思えばかなり恥ずかしい。大学生くらい歳の女の子に、自分はどう思われていただろう。


 けれど、やはり悪い気はしなかった。


「なんですか、それ。そんなにあの店員さんのこと気にいったの?」

 嫉妬の色が見え隠れするゆかりさんの言葉に、きゅんと胸が音を立てる。僕は、まだ手に持っていたピンクのガーベラをテーブルに置き、ゆかりさんに向き直った。


「ううん、ゆかりさんが一番可愛い」


 そう言うと彼女は顔を赤らめて、勢いよく僕の胸のなかに飛び込んできた。その背中をぎゅっと抱きしめる。彼女の腕がそろりと僕の背中に回る。久しぶりの、まともなハグだった。じんわりと、胸が満たされていくのを感じる。柔らかな髪をゆっくりと撫でれば、彼女は満足そうに笑う。


「ごはん、冷めちゃうよ」

「そうだね、早く食べないと」


 けれどその前に……と、僕が買ってきたピンクのガーベラを、黄色いガーベラと同じ花瓶に生ける。

「和樹さん、花瓶はどうするつもりだったの?」

 そう聞かれれば、まったく考えていなかったと答えるしかない。しかしあの店員は妻が花瓶を買っていったと知っていたのだから、勧めないのも当然だ。

 ふと、ゆかりさんに似た朗らかな笑顔が思い出される。どうやら、自分の完敗のようだ。まあ、なんの勝負でもないのだが。


 明日は久しぶりの、なんの予定もない休みの日だ。

 これからゆっくり二人で夜を過ごして。明日は妻と一緒に、花屋の彼女に礼を言いに行こう。そして、また新しい花を持って帰ろう。


 そんな素晴らしい休日に想いを馳せながら、ダイニングテーブルに広げられた夕飯にありついた。

 少し冷めてしまった夕飯は、それでもとても美味しくて。

 ゆかりさんが作るご飯が一番だ、とありふれた旦那みたいな感想を言えば、彼女はまた笑った。

 ガーベラは秋に咲く花なので、本当は1ヶ月くらい後に投稿しようかなと思っていたのですが、今のほうが読む時間ある人が多いのでは? ということで、早めに投稿しちゃいました。


 妻の手作りごはんを褒めてくれる夫、少ないみたいですね。

 これも、ありふれた一言になってほしいなあ。

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