220-2 なれそめとはいいがたく(後編)
「和樹さん怒ってます?」
あとは灯りを落とすばかりになったバックルームで、ゆかりはおそるおそる和樹へ問いかけた。あれから何度も会話を交わしたけれど、どうにもいつもと勝手が違って空気が重かった。幸か不幸か閉店まで客足は途切れず、休憩も別々にとったので問いかける隙すらなかったのだ。
昼光色の蛍光灯がわざとらしいほど青白く部屋を照らしている。視線を外したままゆっくり振り向いた和樹の前髪に見え隠れする睫毛が目元に残る隈の上に濃い影を落としていた。
「それとも元気がない?」
すっと空気が和らいだ気がした。肩を落とした和樹は少しだけ草臥れて見える。ゆかりはほんのちょっと勇気を出して、ぶら下がったままの長い和樹の手を取った。拒絶はされない。一歩、二歩と引っ張ってからくるりと回り込むと、今度は肩へ手を添えて和樹の身体をそっとソファへ押し付ける。
「ちょっと休んで行きましょう。私なにか飲み物……」
「ゆかりさん」
離れかけた手を握り込むように掴まれて、ゆかりは反動でよろめいた。引き寄せるように力が籠められると真っ直ぐ立って居られず、屈むように上半身を倒す格好になる。和樹の旋毛は初めて見たかもしれない。ゆかりの影が被さって、今は睫毛の下の隈もすっかり隠れてしまった。
「馴れ初めってなんですか?」
俯いたままぶっきらぼうに尋ねられる。長い前髪の隙間から薄い唇が引き結ばれているのが見えた。何の話だろうか? ゆかりは言われたことを反芻しながらぱちぱちと瞬きを繰り返した。馴れ初め? 誰の? 私の?
「あ!」
カッと赤面したのが自分でも分かって、ゆかりは思わずたじろいだ。それが伝わったのか掴まれていた手のひらに力が込められる。逃げると思ったのか、和樹はようやく顔を上げてゆかりを見た。その目がみるみる不機嫌に歪み眉の間に深い谷を作る。
「ゆかりさん赤い」
少し高い和樹の声は、その表情のせいで、子供が拗ねているようにも聞こえた。
「僕が喫茶いしかわに通うようになった時には特定の相手はいませんでしたよね。この前電話した時だって恋人がいたらそっちに掛けるでしょうし、何時ですか? 俺が一週間来られなかった先週ですか? それとも──」
「ちょ、ちょっと! 何の話ですか? 恋人? 誰の?」
「誰のってゆかりさんの」
「ええ!?」
素っ頓狂な声を上げてゆかりはぱちぱちと瞬きをした。和樹は探るようにゆかりを下から覗き込んでいる。いつの間にか指と指が絡んでいることにゆかりはまだ気がついていなかった。
「わ、私、恋人はいません! そうじゃなくて! 馴れ初めの話でしょう? 午後にお客さんが言ってたの聞こえたんですよね? 馴れ初めっていうか、馴れ初めなかった話ですけど……」
否定しようと振った手が繋がれていたので、手を取り合ってぶんぶん振り合う滑稽な絵面になってしまった。頑なに拘束が解けないことを怪訝に思いながら、ゆかりは観念したようにぽそりぽそりと話し始めた。
「和樹さんが女子高生のお勉強見てあげてるのを見てて思い出したんです」
まだ少し気まずそうに視線がふらふら彷徨っている。和樹は硬い目をしてゆかりを見つめた。会話が途切れると、途端に部屋の空気が重たく伸し掛かってくる。ゆかりは最終的につま先に視線を定めてから、もごもごと口を開いた。
「学校で憧れの先輩がいたんですよ。目立つ人じゃなかったんですけど、優しくて雰囲気の柔らかい人で……同じ委員だったのでたまに勉強を見てもらったりして……懐かしいなあ」
「それで」
「ちょっと、急かさないでくださいよもう。だから、その……私も恋に恋するお年頃だったので、いわゆる、ほんのり片思いみたいな状態で」
「……」
「それで卒業式に告白しようと決意したんです。でも先輩たち盛り上がってるみたいでなかなか教室から出てこなくて。落ち着かないし人目も気になるしで裏庭で待ってたんですけど、すごく陽気のいい日で、桜が満開で暖かくて。あの、ベンチに座ってたんですけど、お腹減ったなあなんて思ってたらいつの間にか寝てまして……目が覚めたら夕方でした」
つ、と視線を横に逸らしながら、ゆかりは繋がったままの手で赤く染まった頬を掻いた。その拘束がじんわりと緩んでいく。視界の端で和樹の澄んだ瞳が丸く膨らんでいくのが見えた。
「あーもう! すっかり忘れてたのに! 皆で突っつくから!」
反対に、ゆかりは垂れさせていた目尻を吊り上げて唇を突き出した。
「結局それっきりです。先輩遠い地方の大学に進んじゃったし、連絡先も聞いてなかったので」
口を噤んで、ゆかりはふいっと横を向いた。
すとん、と手錠が外れるみたいに手のひらが解放される。重力に従ってゆかりの手首がだらんと下がり、勢いづいたゆかりはバランスを崩してたたらを踏んだ。なんとか踏み留まってから、どう考えても様子のおかしい和樹を伺う。
和樹は放心しているように見えた。膝の上にゆかりから落ちた手がだらりと乗っている。
一秒、二秒。不意にその指先がぴくりと震えた。手首、腕へと続き、意外と逞しい肩が大袈裟なくらい振動する。それが全身に回った頃、突然和樹はがばりと身体を起こしてゆかりを見た。
脱力した身体をソファに投げ出すと、和樹は身を捩って笑った。風船が弾けるような快活な笑い声が、静まり返ったバックルームに反響する。どうにも止まらないようで、腹を抱えてしまった和樹の目尻には涙の粒が浮いている。
今度はゆかりの瞳が丸くなる番だった。狐に化かされたみたいな顔で立ち尽くしているゆかりを、和樹は笑いの下から苦しげに見上げていた。
「ああ、なんだ。ゆかりさんは今もフリーなんですね。ああよかった」
「ちょっと! フリーでよかったってなんですか! そこまで馬鹿にしなくてもいいでしょ!」
「え? あ、違う! ゆかりさんを馬鹿にしたわけじゃないんですごめんなさい! 僕が悪かった!」
一瞬で笑いが引っ込んだ和樹は必死で謝り、ゆかりの機嫌を取るべく超有名人気店の限定スイーツを差し入れることを約束した。
ゆかりさんが誰のものでもない安心からネジ飛んじゃった和樹さん。
でも、あのタイミングでゲラゲラ笑ったら、ゆかりさんにむくれられて当然だよね(苦笑)
まあ和樹さんは和樹さんで「これはゆかりさんを餌付けするチャンス!」と思ってるので、奮発もするし限定中の限定品を手に入れるべく奮闘するに違いありません。




