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徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


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214-2 おそろいに浮つく心(中編)

 今日の僕は浮かれている。だって、ゆかりさんと付き合い始めてもうすぐ二週間で、今日初めてゆっくりと会える時間ができたのだから。

 彼女の部屋に行ける。彼女の手料理が食べられる。もうそれだけで口許が緩む。

 もちろん下心はある。だけど、この前舌を入れたキスを初めてした時に彼女はガチガチに緊張していた。そのときはうっかり、ついうっかり、告白のときに経験ゼロだと白状されたのを失念し、自分の欲望を優先してがっついてしまった。

 いい歳なのに経験ゼロでと恥ずかしそうに彼女は言っていたけれど、彼女の初めてを貰えるなんて嬉しすぎる。そう思う反面、彼女のペースに合わせていけたらなとも思う。

 まあ、兎にも角にも今日の僕は彼女に会える楽しみで浮かれている。

 そのおかげで部下だけじゃなく、上司にも「顔が緩んでる」とたくさんの指摘をされた。自分でも聞いて呆れるとは思う。しかし、彼女のことになると僕もただの一人の男なのだ。


「長田、後は任せた」

「はい! お疲れさまです和樹さん」

 残りのことは長田に任せて、帰り支度をする。

「なぁ、今日の和樹さんいつもと違うよな?」

「ああ。すっげー顔がゆるゆるだった」

 帰り際ヒソヒソと聞こえた部下の声。そんな彼らの言葉に振り返ることなく、僕は足取り軽く帰っていった。


 間に合えば彼女と喫茶いしかわから一緒に帰りたかった。しかし、残念なことに喫茶いしかわの閉店までに仕事を切り上げることはできなかった。そんな訳で一人で彼女が住むマンションへの道を歩く。

 早く会いたい。早く抱き締めたい。マンションが近づくにつれて早足になる。あ、と思い出し僕はスーツの胸ポケットからスマートフォンを取り出す。

『あと五分で着きます』

 お知らせのメッセージを送ると、すぐに既読がつき『了解です!』と一緒に可愛らしいコアライラストのスタンプが返ってきた。僕は口許を緩めながらスマートフォンを胸ポケットにしまった。

 早足で歩き彼女が住むマンションに到着すると、エントランスに彼女がいた。僕の姿に気付いた彼女はパッと花が咲いたように笑い、ベージュのスカートを揺らし小走りで駆け寄ってくる。僕も笑顔で彼女へ駆け寄った。


「こんばんは、和樹さん!」

 僕を見上げて笑う彼女。そんな彼女をぎゅっと抱き締める。彼女から喫茶いしかわの匂いがふわりと香る。二人が出会えた場所の匂いが僕は大好きだ。

「こんばんは、ゆかりさん」

 会いたかったです、と抱き締めながら言うと、彼女は「私もです」と僕の身体に腕を回しぎゅっと抱き締め返してくれる。

「僕のこと待っていてくれたんですか? 寒かったでしょうに」

「うん。一分でも一秒でも早く和樹さんに会いたかったから」

 和樹さん、お帰りなさいと顔を上げてふにゃりと破顔の彼女。あぁ可愛い。可愛すぎる。僕だって早く会いたかったのに、彼女も同じ気持ちでいてくれたなんて嬉しすぎる。

「ただいま、ゆかりさん」

 おかえりと言ってくれる人がいる。ただいまと言える相手がいる。それだけのことでこんなにも幸せな気持ちで満たされる。


「さぁ、私の部屋に行きましょう!」

「はい」

 彼女に手を引かれ僕はマンションの中に入っていった。鍵を開け彼女が玄関をあける。お付き合い前はマンションまで送り届けることはそれなりにあったが、部屋の中に入る約束をしたことはなかった。嬉しさが込み上げる。

「スリッパどうぞ!」

「ありがとうございます」

 差し出されたのはネイビーに星柄のスリッパ。靴を脱いでお邪魔しますと言い、スリッパを履く。

「鞄と上着お預かりしますね」

 鞄と脱いだコートや背広を彼女に渡す。たったこれだけのことでも幸せだと思い、頬が緩む。


「うふふふ。私ご飯の支度するので、テレビでも見ながらくつろいでてください」

「はい、喜んで」

 パタパタとスリッパの音をたてながら彼女は先にリビングの方へと向かった。

 目を細めつつ可愛いなと思い、リビングでソファに座ると、ふと視界に入る足下のスリッパに刺繍された文字に目が止まった。

「Mr?」

 僕は首を傾げる。スリッパを買ったお店の名前だろうか? でも店名が刺繍されているスリッパなんてずいぶん珍しい。履き心地が気に入ったから買ったのだろうか。

 一度目線を外し、くるりと部屋を見渡す。彼女らしい可愛い部屋だ。写真が貼られたボード。何やら贈り物のような複数の包み箱。そういえば「兄が出張先からよくお土産を送ってくるんです。それもちょっと変わった」と聞いたことがあったな。


「それ兄からの出張土産ですよ。たくさん送られてきて困っちゃうの」

 コーヒーの入ったマグカップを持った彼女がクスッと笑う。困ると言いながらもその顔は嬉しそうだ。

「リョウさんはゆかりさんに喜んでほしいんでしょうねぇ」

「ふふ。そうなのかしら」

 楽しそうに笑いながらマグカップをテーブルに置く。

「コーヒーどうぞ。テレビつけときますから好きなチャンネルに勝手に回しちゃってください」

「ありがとうございます。僕も何か手伝いましょうか?」

「いいんですよぉ! ゆっくりしててください」

 ふわりと微笑んで立ち上がり彼女はキッチンに戻った。スリッパを脱ぎキッチンが見える向きに僕は腰を下ろした。胡座をかいて座る。キッチンからは鼻歌をうたいながら料理を作る彼女の後ろ姿。


「毎日この光景を見られたら、とんでもない幸せ者になれるなぁ」

 本音が口から零れた。くるくるとキッチンで働くゆかりさんの姿を上から下までじっくりと眺めると、僕と同じ色合いのスリッパを履いている。もしかしてお揃いだろうか。

「ん? あれは……」

 彼女のスリッパにはMsと刺繍がされているのが見えた。見間違いだろうか。いや、僕のスリッパにはMr。彼女のスリッパにはMs。これってもしかして……ペア?

「ああ、僕の彼女が可愛すぎる」

 思わずニヤけながら、少しでも弛んだ顔を戻すべくコーヒーの苦みに頼ろうとするが、それすらもゆかりさんに与えられたもので、さらに顔が弛んでしまう。どうしようもない。


 それから彼女の手料理を食べた。久しぶりに食べるゆかりさん特製ナポリタンはやっぱり美味しくて、とても懐かしく感じた。喫茶いしかわでは人前だからと気にしてそこそこ上品に食べていたのだが、今日は遠慮せずモリモリガツガツと食べる。そんな僕を見て彼女は驚いていたが、すぐに「新しい発見ができて嬉しい」と喜んで笑った。そんなことで喜んでくれるなんて、僕の方が嬉しかった。

 食事のお礼に洗い物をしようとしたけど彼女に止められ、僕もなかなか引き下がらなかった。引き下がらない僕に彼女は頬を膨らませたが、最終的に僕が洗ったものを彼女が流していく形となり「こうやって二人で並ぶの、嬉しいです。うちのキッチンじゃ、ちょっと狭いけど」と彼女は顔を綻ばせた。

 今は片付けを済ませて、あらためて彼女が淹れてくれたコーヒーを飲みながら二人で並んで座っている。

「あの、和樹さん」

「何でしょう?」

「明日もお仕事?」

「呼び出しの連絡がなければ夕方に少しだけ。ゆかりさんは明日も朝から?」

「私は遅番です」

「じゃあ朝寝坊できちゃいますね」

 ふふ、と笑いコーヒーを一口飲む。


「あのね、和樹さん。わがまま言ってもいい?」

「わがまま?」

 カップをテーブルに置いて隣に膝を抱えて座る彼女を見ると、足をもじもじさせながら俯いている。

「何でしょう、わがままって」

 僕は首を傾げる。けれども彼女は俯いたまま、うーん、でもなぁ、とまだ迷っているように呟く。

 とりあえず彼女が言うまで待ってみること一分。そろりと顔を上げ僕を見る。

「今日は帰らないで一緒にいて」

 と頬を赤らめてそう言い、すぐにまた俯いてしまった。よく見ると耳が真っ赤。本当に可愛すぎる。僕は、はぁとため息をついた。すると彼女は顔を上げる。

「ご、ごめんなさい。わがまま過ぎですよね。あはは、聞かなかったことにし……」

「誤解です」

「え?」

 垂れた目をぱちぱちと瞬かせる彼女。もうそれすらも可愛くて、僕は緩む口許を隠すように手で覆った。

「あまりにも可愛い過ぎてため息が出たんです」

 ポッと彼女の頬がさっきよりも赤くなる。僕は膝を抱える彼女の手を握る。


「全然わがままなんかじゃないですよ」

「本当に?」

「ええ。喜んで泊まらせていただきます」

 ちゅっと赤く染まる頬にキスをすると、彼女はふにゃりと笑った。


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