209-2 けっこう本気ですけどね(後編)
「忘れ物置き場もそろそろ片付けたいですねぇ。もう保管スペースがいっぱいになりますし」
バックヤードに棚を置いて、忘れ物を並べている。日付と中身を付箋で貼っているのだが、だいたい一年で廃棄することにしている。今回のような雑誌であれば、気軽に捨てられるのだが、捨てづらいものも時々ある。さすがに財布や携帯は警察に引き取ってもらうのだが、壊れた傘やイヤホンなどは、扱いに困るのが現状だ。本来ならば警察に渡すのだろうが、細かいものをすべて渡すわけにもいかず、対応には苦慮している。
「ま、ナマモノは仕方がないですが、喫茶いしかわはこれで忘れ物が少ない方だと思いますよ」
「和樹さんが気がつくからじゃないですか」
「そうでしょうか?」
「だって和樹さん、レジに立ったら見えてるみたいに忘れ物言ってくれるんだもの」
「そんなつもりは」
「私は気づかないのになぁ」
和樹がいると忘れ物をしないというのは一時期毎日やってきて、毎日荷物を置いていこうとした高齢の女性の話だ。認知症がはじまってねぇ、と困ったように笑っていた彼女は、日傘を持ってきては忘れてゆく。財布を持たずに来たこともあったが、マスターの采配で、サービスは丁重に。迎えに来た娘が恐縮しきっていたが、ある日を境に姿を見せなくなった。心配だ、とゆかりはずっと気にかけているが、それは和樹も同じだった。桜色の日傘は丁寧に扱われていたし、外にその模様が見えると、今日も来てくれたのだとほっとしたものなのだ。
「そんなことないですって。ゆかりさんだってよくお客さんのこと見てるじゃないですか」
「和樹さんにはかなわないですよーだ」
ゆかりは和樹が驚くほど客のことをよく覚えている。記憶力は良くないのだと本人は謙遜するが、常連客の家族構成から趣味に至るまで、把握しているのは特技としか言いようがない。本音を言えば、彼女のような人間が、営業事務としてサポートしてくれたらと何度思ったことか。引き抜けるものなら引き抜いてしまいたい、と一時期和樹は本気で考えていた。
「はは、褒められるのは嬉しいですね、ありがとうございます。……いい匂いがしてきましたね」
「もうすぐできますよー」
「じゃ、パスタの茹で時間は……」
「今日は七分でいきましょう、絡めないと」
「タイマーセットしておきますね」
「お願いします」
大鍋に湯が沸いている。タイマーをセットすると、ゆかりは二人ぶんのパスタを投入した。ぐらぐらと茹でること七分、数秒前にザルにとって、オリーブオイルを絡めて水切りをしてから、フライパンにいれて具をからめる。ケチャップを追加しバターのコクも足したナポリタンを、皿に盛りつけて、パセリを添えてできあがり。
「美味しそうだ」
「はい、これで完成です! お昼の賄い、ナポリタン!」
「お腹が減りました」
「ふふ、早速いただいちゃいましょう」
「いただきます」
カウンターに皿を出す。
「あ、フォーク……」
「僕が出しますよ。飲み物はどうしますか」
「お水でいいです、すみません和樹さん」
「どうしたしまして。作ってもらってるのはこっちだし」
ゆかりのつくる賄いはとても美味しい。優しい気持ちになるのが一番の理由。それも恋ゆえと言ってしまうのは簡単だが、それ以上に、彼女は料理の手際がよかった。性格の問題もあるのだろうが、ぱっぱとご機嫌で仕上げる姿がたいそう愛らしく、和樹の好みに合っていた。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
フォークにグラス。氷をひとつだけいれて、ミネラルウォーターを注ぐ。あまり冷えたのは体に良くないし、かといって常温にするには少し暑い。この後はアイスコーヒーにしようとストックは確認済みだ。
「和樹さん、エプロンしたままですけど」
「汚れないように、ですよ」
「汚さないじゃないですか」
「気持ちの問題ですね」
喫茶いしかわのエプロンをしたまま、和樹はカウンターに座る。ゆかりも隣で手を合わせる。彼女は少し迷って、和樹と同じように、エプロンをしたままフォークを手にした。
「まあいいですけど! じゃ、いただきます」
「ん、おいしい」
「ですか?」
「はい、美味しい。ちょっと酸味が効いていて、ケチャップも絶妙で。パスタの硬さもちょうどいいです。さすがゆかりさんです」
ナポリタンは久しぶりだ。
玉ねぎもピーマンも、ほどよく炒められていて、ウィンナーも美味しい。焼き色のついたベーコンは旨味たっぷりだ。パスタと絡めたその具合が絶妙で、仕上げに振りかけたブラックペッパーもうまく効いている。
「えへへ。そんなに褒めてもらえると嬉しいな!」
「いつでもお嫁にいけますよ」
「パスタひとつで!?」
「ひとつじゃないでしょ、ゆかりさんのレパートリー。ハンバーグとかコロッケとか、餃子も作れるって言ってたし、得意料理は和食だって話じゃないですか」
「たしかにそうですけど……そんなの普通ですよね?」
「オムライスも絶品だったし……」
「ふわとろオムライスは和樹さんのほうが上手でしょ?」
「ゆかりさんの手ほどきがありましたからね」
いいお嫁さんになれますよ、と言ったときは、盛大に周りを気にされた。今日も、ゆかりは一瞬後ろを振り向いて、誰もいないことを確認してからほっとしたように息を吐く。炎上騒ぎは彼女にとって相当こたえたものになったようで、「発言にはくれっぐれも! 気をつけて! ください!」と和樹の目の前五センチで迫られたときは、このままキスをしたら彼女はどうなるのだろうかと内心で苦笑したものだ。無論、そんなことが許されないのは理解しているけれど。
「気立てが良くて美人で。このあいだも「息子の嫁に欲しい」って言われてたじゃないですか」
「あんなの冗談ですよう。でなきゃリップサービス」
「僕はそうは思いませんけどね」
本人がプロポーズをされることも一度や二度ではない。そのたびにゆかりは、冗談でしょーとあっけらかんときっぱりすっぱり見事なまでにフってしまう。相当本気だった数名に心当たりがあるが、ゆかりの鈍感っぷりは度を越していて、いっそ相手が哀れになるほどだった。
「もう、からかってぇ! そこまで言うんだったら、和樹さんがお嫁さんにもらってくれます?」
「いいですけど」
それは、本音。ナポリタンを食べながらできる限りさらりと言うと、ゆかりはけらけらと笑って、もー、と目を細める。
「ほらーもうすぐそう……やっ……て!?」
「本気にしていいんだったら」
「……え、あの」
いつもの笑顔ではなく、少し、本気の表情で。
声のトーンを押さえれば、ゆかりは目を丸くしてフォークを置いた。落とさなかっただけよかったのかもしれない、と和樹は口元にだけ笑みを浮かべた。いやだなぁ、なんて冗談にはせずに、ぽつりと。
「僕はゆかりさんがお嫁さんだったらいいな、って思いますよ」
「へ!?」
けっこう本気で、と言いそえる。
ゆかりは目をこぼれ落ちそうなほど見開いて、じょうだんですよね、と言った。
それにはあえて答えずに、ナポリタンを口に運ぶ。咀嚼して飲み込んで、一息。
「ゆかりさんは?」
僕のお嫁さんになってくれますか。
ゆかりは瞬きを二度した。からかわれているのかどうか、本気かどうか、軽口なのか、と。返事の仕方を迷った挙句の一言は。
「…………か、考えさせてください!」
「いつでもどうぞ」
「いつでもって」
「色よい返事しか聞きませんからね」
「!?」
くす、と和樹は笑う。
「……冗談ですよ」
ゆかりに笑いかけるその表情について。目が笑っていなかった気がする、と。
数年後、彼女は和樹に語るのだが。
それはまた、未来の話。
「おしゃべりクッキング」の“「何でもいい」は禁句!!”ってLINEスタンプ見てたら、こんなのができてしまいました。これ、言いたくても言えないシュフさんはたくさんいるに違いない。
さてさて、フラグクラッシャーの特技、スルースキルにまだ臆病な頃の和樹さんでした。
ふわとろオムライスは、ゆかりさんに手ほどきを受けて作れるようになった和樹さん。ほっぺを押さえながら「おいし~い!」ととろける看板娘の笑顔が見たくてめきめきと上達しました。ちなみにそれまでは、本人はクラシックスタイルが好みなので、習得するつもりがなかったのでした。
余談ですが、手ほどきを受ける前の和樹さんは、お椀に薄焼き卵を敷き中にチキンライスを詰めて上下を返すプッチン方式でこども向けのドーム型オムライスを作成し、「可愛い!」と目をキラキラさせるゆかりさんにデレデレしてたというどうでもいい設定があったりします。




