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徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


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208 あまいゆうわく

 マンションが見えるとホッとして歩調が軽くなり頬が緩んだ。合鍵を使い玄関の扉を開ける。畳んだ日傘を玄関脇に置き、ハンカチで汗を拭った。真夏日の昼に日傘を差して、徒歩十五分。アスファルトは熱気で遠くの風景がゆらゆらして見えたし、途中でバスを使わなければ熱中症になってしまったかもしれない。

「失礼しまーす」

 呟くように小声で言うと麦わら帽子を脱ぎ、靴を揃えて置いてリビングへと向かう。通信アプリを通して、二日ほど自宅をあけて出産のお手伝いに行っていた親戚の家から今日帰ることは伝えたけれど、彼から返事はなかったので眠っているのかもしれない。

 何時でも帰ってきて寛いでくれとは言われていたけれど、ふたりの関係ができあがってからの期間はまだまだ短くて遠慮があって。少し緊張してしまうし、恋人……じゃなくて夫婦らしい振る舞いなどもまだまだ勉強中。


「っ!」

 リビングに繋がる扉のレバーをそっと引くとゆかりは自身の口を押さえた。見開かれた瞳にはソファーの上で、愛犬のブランと並んで眠る彼の寝顔が映っている。

 その姿を目にした途端、ゆかりの頬と唇はゆるゆるに緩み、彼らを起こさないように可愛いと口パクで表現してまたそうっと扉を閉じた。人の気配に敏感な恋人がこうして眠ったままなのは珍しい。徹夜明けとかそんな感じだろうか。仕事でよっぽどお疲れなのかもしれない。


 夜は鰻とか精のつく献立がいいかも。でもこの暑さでは車でないとスーパーに買い出しに行っても帰る途中で食材が傷んでしまうに違いない。

 和樹さんに車を出してもらうにしても疲れているみたいだしまだ起こすのは忍びないなと思ったゆかりは、とりあえず洗面所を借りて、汗でべたべたした顔を洗い何か飲ませてもらうことにする。

 リビングから洗面所へと向かうゆかりは気付かない。ソファーで眠っていたはずの彼の目が開いており、彼女の姿を追いかけて愉しそうに唇を吊り上げていることに。


 そうとは知らずに化粧直しを済ませてさっぱりした気分になったゆかりは恋人が狸寝入りをしているなど思いもせず、足音を最小限立てないように歩いて洗面所からキッチンへと向かう。

 冷蔵庫を開けるとスポーツドリンクに水。ビールなど酒類。栄養ドリンクや乳酸飲料が並んでおり水とスポーツドリンクどちらしようか迷い、スポーツドリンクを選ぶ。よく冷えたスポーツドリンクはうだるような暑さだからかより美味しく感じられ喉の渇きを癒してくれる。けれどもう少しだけ体をひんやりさせたかった。

 たしか前に買ってお家に置いてもらってたよね、と一人言を呟きながら冷凍庫を開くと、お目当ての物を探した。


「あれぇ? 和樹さん場所変えたのかな? 前は手前にあったのに」

 この前までは空に近かった冷凍庫の大半を占めるのが、ゆかりが不在の間に、取引先の上得意様と行ったという魚釣りでの成果だ。数種類の魚が釣り日の書かれた袋に入れられており、なかなか目当てのスイーツまでたどり着けないでいる。


「ど~こにいるの~? 私の愛しのアイスちゃ~ん」

 芝居仕立てに歌うように呼んでみる。当たり前だが返事は来ずしょんぼり。

「ひゃあっ!?」

 アイスの代わりに腰からお尻にかけて何かに――ううん、誰かの不埒な手に触られた感触がして変な声が出てしまう。

「か、和樹さん。いつの間に起きたの!?」

「だって、その格好誘ってるのかと思って」

 ゆかりから驚かれてもまだゆかりの腰と臀部を触っている和樹は悪びれた様子もなく顔を真っ赤にさせた彼女へと笑いかけた。

「冷凍庫を開いて奥まで顔を突っ込んでるんだから、まあ自然と魅力的な格好になるよね」

「真っ昼間から何てこと言ってしてるんですか」

 もう、と彼の肩を軽く叩くゆかりだが、和樹が取り出した箱アイスを見るとパアッと顔を輝かせているのだから彼女らしいというかチョロいというか仕方のない女性だ。


「アイス食べたら何する?」

 和樹がゆかりの飲んでいたスポーツドリンクを取り出すと一口飲み、今日の予定を聞いた。

「そうですね。和樹さんの精がつくように夕食は鰻とかどうです? もう少し涼しくなったらスーパーに買い物に行きましょうか」

「せ、精って……」

 和樹の頬が赤くなり目元も赤く染まっていくのをゆかりはきょとんとした顔で見ていた。

「ゆかりさん。やっぱり誘惑してる?」

「え、してないです、よ」

 男の目に浮かんだあれこれを見て、ゆかりは箱アイスを手にしたまま冷凍庫から三歩程後ろへと下がっていく。けれど後ろは壁だ。逃げられない。


 結局本日の二人の予定はアイスを食べてそれから甘いあまい秘め事をすることに。

 夕食に鰻を食べるなんてこともなくなったのだった。


 昼間っから何してるんですか? って感じですが。

 ちょーっと離れてただけで和樹さんの中のゆかりさん成分がすっかり枯渇して干からびきっているのです。


 お夕飯はウナギじゃなくて釣果を使って和樹さんが腕によりをかけて作ってくれます。

 ゆかりさんのご機嫌とりしなきゃいけませんからね。

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