205 勇者の装備
後半はちょっと艶系のお話なので、苦手なかたは自衛してくださいね。
「いらっしゃいませー!」
子供たちの就寝時間を過ぎてから帰宅し長風呂を堪能した和樹は、部屋に戻るなり、喫茶いしかわの接客よろしくとびきりのスマイルを振りまくゆかりに、ベッドまで誘導された。
「ゆかりさん、これはいったい……」
「ベッドに座ってください。あ、和樹さんはそのまま楽にしててくださいね」
と声をかけられ、和樹はベッドにおとなしく腰を掛けた。
ああでもない、こうでもない。
立ち上がって和樹を見下ろしたゆかりは、首をかしげながら暫し考えて言い放つ。
「やりにくいので、ベッドに寝転がってもらってもいいですか?」
これには、和樹も少しばかり驚いた。そして期待した。いったい彼女は何をしてくれるのだ。
「実はですね、兄から“これ”をもらったんです」
よいしょ。小さなかけ声で、ゆかりもベッドに上がる。嬉々と手元の“何か”を和樹に見せるが、ベッドに仰向けに寝転がっている和樹には、残念ながらその正体は見えない。
「……? なんですか、それ……」
起き上がり、自分の足元側にいるゆかりに問う。ゆかりの右手には、十センチほどの木の棒が乗っている。すりこぎにしては、ひと回りほど小さく短い。棒の真ん中辺りに、洗濯板のギザギザのような模様がついていた。
「お兄ちゃんからの熱海土産です」
「……熱海?」
「はい、出張で熱海に行ってたみたいなんですけど、お土産で入浴剤とこれを送ってくれて」
ゆかりが嬉しそうに笑う。脱衣所のゴミ箱にあった『熱海の湯』のパッケージは、彼女の兄のお土産だったらしい。和樹はご相伴に預かり、のぼせる直前まで『熱海の湯』を楽しんだ。
「入浴剤は気持ちよかったんですけど、この棒は……?」
「ふっふっふ。熱海といえば温泉! 温泉といえば癒し! 癒しといえば!」
突然、ゆかりが得意げに口上を述べた。温泉地のキャッチコピーとしては、いまいち良さが伝わらない。
「じゃじゃーん! “リョウスティック”です!」
「……」
「……足裏マッサージ棒です」
リアクションのない和樹に気づき、ばつが悪そうにゆかりは言い直した。
「お兄ちゃんがくれたので、“リョウスティック”って名前をつけてみました」
「リョウさんの棒だから、リョウスティック?」
「そうです!」
どこかで見た形状の“棒”だな、と思っていれば、テレビで芸能人を数多く悶絶させている足裏マッサージの棒だった。兄から勝手に冠をいただいたマッサージ棒を、ゆかりは大事そうに握りしめている。
「いつもお仕事がんばってる和樹さんを、癒したいです」
「……というと?」
状況を飲み込みきれずにいる和樹とは対照的に、楽しげなゆかりが続ける。
「うふん。今日の私は、マッサージ屋さんです」
「……エッチな?」
「……! ちがいますっ!」
ゆかりは頬を赤く染め、うろたえた。そんなゆかりを見て、和樹は小さく笑っている。
兄からもらった熱海土産で、日頃から多忙な彼を癒せたらいいな。今度会える日に使ってみよう。と、ずっと計画を練っていたゆかりは、和樹からの予期せぬ一言に思わず面食らった。
「え、えっちなマッサージは取り扱っておりません。と、当店は足裏マッサージのお店でございます」
うろたえながらも、『マッサージ屋さん』という設定は頑なに守るつもりらしい。ゆかりは吃りつつ、和樹にマッサージの説明をした。
「これは失礼しました。足裏マッサージのお店でしたか」
目の前であたふたしている“マッサージ屋さん”に、和樹は「では、マッサージをお願いします」丁寧な物言いで返した。整った顔に、笑顔が貼りついている。
「コースはいかがなさいますか?」
コース設定まであるのか。思っていたより本格的に“マッサージ屋さん”に徹するらしいゆかりに、和樹は付き合うことを決めた。
「オススメはありますか?」
「“マッサージ屋さんの気まぐれコース”がオススメです。一生懸命マッサージさせていただきます!」
シェフの気まぐれサラダか。ゆかりの微妙なネーミングセンスに、和樹は思わず吹き出した。
「じゃあ、それで。マッサージ屋さんの気まぐれコースでお願いします」
「かしこまりました!」
「……」
「ん? どうしました? 和樹さん」
「……一応聞きますが、エッチなオプションはありますか?」
「っ、そんなサービスはしてません!」
真剣な表情で何かを考え込んでいた和樹は、実にくだらないことを考えていた。ゆかりは「なに考えてたんですかー!」とぷりぷり怒っている。
愛しくてたまらない妻から「和樹さんを癒したい」と告げられ、素直に嬉しかった。だが、それと同時に、あわよくば“オプション”にあずかりたい。二律背反が脳みそを締め付けた。顔がいいだけにそういうことに対して淡白そうな印象を持たれがちだが、和樹もやはり、ただの男なのだ。
「“マッサージ屋さんの気まぐれ”期待してます」
「ばかなこと言ってないで、早く足出してください」
ジト目のゆかりが、和樹に催促をする。
これ以上、マッサージ屋さんを怒らせることは得策ではないな。そう判断した和樹は、ベッドに両足を伸ばした。
「あ、寝転がっていいですよ。リラックスしてください」
「座ったままで大丈夫です。見てたいんで」
和樹は両足を投げ出し、両手は後ろ手で体重を支えている。
ゆかりは和樹の正面で正座。「失礼します」とスウェットの裾をめくり、和樹の左足を手に取った。
「心配しなくても大丈夫ですよ。虎の巻がありますから」
ドヤ顔のゆかりが見せてくれたものは、マッサージ棒付属の解説書だ。胃、心臓、肝臓、肺などメジャーな臓器から、自律神経に影響する太陽神経叢など普段あまり聞きなれないツボまで表記されていた。
「これによると、悪いところを押したら痛いそうです」
準備運動と言わんばかりに、ゆかりがマッサージ棒をにぎにぎしている。むすんで、ひらいて。一定のリズムで繰り返し動く。
「うふふん。覚悟してください」
ゆかりの口角がうっすら上がった。
◇ ◇ ◇
「お客さん、凝ってますねー」
足の指から踵方向へ順番にツボを押す。
結局和樹が痛がったのは、胃のツボを押したときのみだった。「あー、いたいです。いたぎもちい」と、温泉に入ったときに出る「あー」のお声をいただいた。
「和樹さん、ストレス溜まってるんじゃないですか? 夏バテもあるのかな……」
「そうですね。ストレスは多かれ少なかれあると思います」
「こら、何してるんですか」
ぺちり。ショートパンツの裾を器用に足の指でめくろうとした犯人を、ゆかりは現行犯ではたいた。薄い肌と骨の感触。足の甲を叩くと、思っていたより高い音がした。
「おさわりは禁止です」
「さわってない。ショートパンツの裾から中が見えないかとめくってただけです」
「余計にタチが悪い!」
足裏マッサージはたしかに気持ちがいいが、和樹としては正直、そろそろ別のことも楽しみたい。目の前に、先日プレゼントしたタオル地のルームウェアに身を包んだゆかりがいる。白くて眩しいくらい健康的な太ももが、ショートパンツから惜しげなく顔を覗かせ、自分の左足はそのやわらかな弾力に時々触れている。……何の拷問だ。
「足裏マッサージって、けっこう気持ちいいんですね。……ゆかりさんにおさわりしちゃいけないってこと以外は満足です」
全然反省している様子のない和樹に、ゆかりはため息をこぼした。和樹のペースに乗せられる前に、次のツボを押す。かかとの真ん中。
「!?」
「おっ?」
“痛きもちいい”を堪能していた和樹が、反射的に左足を後ろへ引っ込めた。
「和樹さん、もしかして痛い?」
「……痛くないです」
「えいっ」
「ごめんなさい、痛いです」
和樹から初めて芳しい反応がもらえたゆかりは嬉しくなってきた。逃げた和樹の左足を捕まえ、マッサージ棒を押し当てる。かかとに、さらりとした天然木の感触再び。
「……! 待って! ゆかりさん、ちょっと待って!」
痛きもちいいを遥かに凌駕した感覚に驚いた和樹は、慌てて「待った」をかけた。
テレビで芸能人がやっている足裏マッサージ企画なんて信じていなかったが、あれはどうやらヤラセではないようだ。痛い。本当に痛い。和樹は心の中で謝った。謝ると同時に、こんなに痛いなんてどこか悪いのか、と少し心配になった。
「これ何のツボですか? ……すごく痛い」
おそるおそるゆかりに訊ねる。ゆかりは特に気にする様子もなく、あっけらかんと答える。
「このツボは、生殖器ですね」
「……せーしょくき」
そんな馬鹿な。聞き間違いか。和樹がフリーズしていると、ゆかりが“虎の巻”を見せながら、もう一度言う。
「だからぁ、生殖器ですって。ほら」
ゆかりが指差すツボ押し表、かかと中央には、たしかに『生殖器』の文字表記が。“銀食器”でも“洗濯機”でも“食洗機”でもなく、生殖器。
聞き間違いではないことが判明し、和樹は必死で食い下がった。
「僕、ちゃんと勃ちますよ!」
「知ってます! それはもう、この身をもって知ってます!」
和樹の勢いに当てられ、ゆかりも言わなくていいことを口走る。
「年に一回の検診も異常なしですし、機能的に問題はないはずです!」
「だから知ってますってば!」
お互い違うベクトルでヒートアップしているせいで、ゆかりの発言には気づかない。
「このままだとなんか悔しいんで、今から抱いてもいいですか? ……抱かせてください」
「いやです! ムードのかけらもない誘い方やめてください! やめっ、なんか目がこわい!」
「っ! いっ……!」
今にも襲い掛かってきそうな和樹のかかとにマッサージ棒を思いっきり押し当て、渾身の力でグリグリこねくり回した。
「っ! いたいいたいいたい! ゆかりさん!」
お兄ちゃんの棒、強い。
何の因果か、兄がくれた熱海土産でくだらない言い争いが起こり、そしてそれを無事制圧したのもまたお兄ちゃんの棒……“リョウスティック”だった。
和樹が何か呻いているが、ゆかりは正当防衛を主張する。ムードをどこかに置き忘れてきた和樹が悪いのだ。ベッドに倒れ込んだ和樹は、痛みを逃すよう左右に体をごろごろと動かしているが、ゆかりの手は止まらない。
「カフェインや糖分の取り過ぎが原因の場合もあるみたいですよ。和樹さん、眠気覚ましにコーヒーがぶ飲みしてたんじゃありませんか?」
「最近、ちょっと……っ、飲みすぎてたかもしれません」
「疲れが溜まってても痛むらしいですよ。しっかり睡眠とりましょうね」
「分かった……っんで! ちょっと止めてもらっていいですか!? いっ! ゆかりさん? ちょっ、いたい……! 痛い!」
足ツボに悶絶する和樹を見下ろし、無邪気にマッサージ棒をかかとに押し込むゆかりは、テレビのようなリアクションを見せる和樹を見て少し楽しくなってきていた。
和樹が息も絶え絶えになった頃、ようやくゆかりの手も止まった。
「これだけ刺激すれば、多少は効果有りなんじゃないでしょうか?」
「カフェイン過剰摂取より、リョウスティック所持してるゆかりさんのほうがこわい……」
ゆかりは手のひらに握りしめていた“棒”を見て、幼少の頃を思い出していた。そういえば子どもの頃、兄が遊んでいたゲームにこんな武器があったな。ひのき素材の最弱武器。形はよく分からないけど、「ひのき」を冠に「棒」と銘打った武器だったから、おそらくイメージどおり「棒」なのだろう。
「リョウスティックを装備した私は無敵です!」
「……マッサージ屋さんは、いつから勇者に転職したんですか」
すでにリョウスティックで会心の一撃を食らわされた和樹はせめてもの反撃とばかりにツッコんだ。
「ねぇ、ゆかりさん」
「?」
「痛くて縮こまってるから癒して」
「当店はそのようなお店ではございません」
「そこを何とか」
「むぅ。和樹さん、全然反省してませんね」
横向きに寝転がったままの和樹が食い下がる。ベッドから抜け出そうとしたゆかりの腰にギュッとしがみついた。
「ゆーかーりーさーん」
「もう、なんですか?」
「このまま勃たなくなったらどうしよう」
甘えるように、どうでもいいことを申告してきた。
「さっき、“たつ”って言ってましたよね?」
ゆかりはため息をこぼし、小さく笑う。腰にしがみついた和樹の手を払い、ゆかりもベッドに横たわった。
「ねぇ、和樹さん」
「……っ」
ゆかりの脚が和樹にまとわりつく。小さな丸い膝が、和樹の足の間をスウェット越しにゆるくなぞる。
「スティックの効果ありですね。このままたたなくなったらどうしよう、って言ってたのは、どこの誰でしょうか」
満足そうに無邪気に笑うゆかりは、そのおおよその原因である膝の動きを止める気配はない。分かってやっている。たぶんちょっと、楽しんでいる。
「ゆかりさん……」
「今度はなんですか?」
「生殺しは勘弁して……」
和樹はゆかりをぎゅうぎゅう抱きしめる。
「どうしようかなぁ」
「……マッサージ屋さん、気まぐれ発揮しないでください」
「気まぐれコースなんで」
ゆかりはケラケラ笑いながら和樹を抱きしめ返した。
気まぐれなマッサージ屋さんに、いつまでも主導権を預けておくことは性に合わない。
そのへんの一般人より、負けず嫌いで、ほんの少し腕っぷしが強い“お客さん”は、はたしていつまで我慢できたのか。
ゆかりさん、癒してあげたいのも本当だけど、ちょっといたずら心も湧き上がってしまいました。誘い受け状態に気付いてないゆかりさん。餓えた狼の鼻先に極上の肉をぶら下げちゃいけません。
翌朝にはきっと「こんなはずでは」と首を傾げるゆかりさんと、とてつもなくご機嫌な和樹さんができあがってます。




