202-2 おやつタイムのレモネード(中編)
「ごちそうさまでした!」
「お粗末さまでした」
ひっきりなしにオーダーが飛び交うランチタイムを乗り越え、喫茶いしかわではひと時のアイドルタイムを迎えていた。マスターは、商店街の人に呼ばれて先ほど出ていったばかりだ。あの様子からすると、夕方くらいまで帰ってこないだろう。
「さすがは和樹さんですね! たまごのふわとろ加減も、酸味のあるトマトソースも絶妙でしたぁ。あ~っ幸せ~っ」
「そんなに喜んでもらえると、僕も作りがいがありますよ。ゆかりさんが僕の料理食べてくれているところを見てると、僕も幸せな気分になるので嬉しいです」
「ほんとですか! これはあれですね! ウィンウィンってやつですね! 勝ち組!」
いや、最後のは違う。したり顔で頷くゆかりを見て、和樹は思わず吹き出した。どうして彼女の反応はいちいち可愛いのか。
自分のことで和樹が笑っていることに気づいたのか、ゆかりはジト目で自分より少し高い位置にある彼の顔を見あげる。そんな顔も可愛いなと思うだけで、彼の笑いは止められない。これは、どう考えてもゆかりが悪い。誰かから聞いたことはあるのだろうが、使い慣れてない言葉を使うから、和樹のツボを刺激してしまったのだ。
すみません、とこらえきれぬ笑いを含んだ謝罪をしながら、そういえば、とランチタイム前のマスターとの会話を思い出す。
「そういえば今日、飛鳥ちゃんたちがくるんですよね?」
「そうなんですよ! お友達と揃ってきてくれるらしいので、この前の雑草取りやテラス席のお掃除のお手伝いのお礼として、レモネードをご馳走しようと思って!」
「暑い夏の日にはぴったりですね」
「でしょう? せっかくだから、見た目豪華にしたくて飾り切りの練習まで昨日してたんですけど、喫茶いしかわに生のレモンのストックないの、すっかり忘れてて……しかしながら、先ほどの買い出しで無事ゲットしました!」
黄色い果実を、ゆかりはまるで印籠のように突き出す。
あと一時間もすれば、水泳教室が終わったこどもたちが喫茶店にやってくるだろう。和樹への、飾り切り成果のお披露目タイムでもある。
「お披露目、楽しみにしていますね」
そう微笑まれば、俄然やる気が湧いてくるのがゆかりだ。任せてください、とゆかりはどんと大きく胸を叩いた。
「ゆかりお姉ちゃんこんにちは!」
「飛鳥ちゃん! みんなも! いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ」
案内のためキッチンからホールに出てこようとするゆかりに、自分がいく、との目配せをすれば、OKの意の笑顔を一つ返された。
レモネードの準備のため、くるくると踊るように動く姿を視界の隅に収めながら、案内に向かう。
ゆかりさんはドリンクをご馳走してくれるらしいから、僕からはデザートをご馳走するよ、とウィンク一つ。
子供に対しても、見事なサービス精神である。先日見かけた、長田といる時の彼を思い出し、うそんこ笑顔のくせして……と思わず飛鳥は半眼になった。様になっているのがまたいけ好かない。
キッチンに戻って、そのデザートやらの用意をしてくれているらしい男は、今日も今日とて自由でブレない。
カウンター奥でゆかりと何やらしゃべっている彼は、楽しそうだ。その姿は、どうにも飛鳥の目には演じているようには見えなくて、意外とあの人もここが気に入ってるんだろうか、とこっそり観察する。
素の彼を見てみたい気もするが、いかんせん、素を見せてしまうほど揺さぶられているところの想像がつかないし、仮に見られたとしても、見たら無事ですまない気がする。こういうの、「好奇心は猫をも殺す」っていうんだよね。この前読んだ本に載ってた。
いつも通りの笑みを貼り付け、アイスを片手に戻ってくる男に、飛鳥は同じような笑みを貼り付けた。
「今日和樹さんもシフト入ってたんだね」
「そうだよ、昼前からラストまで」
和樹はそう言って、華やかな笑みを浮かべたまま、くるりとキッチンにいるゆかりの方を振り返る。
トレーにグラスを乗せている途中だったゆかりは、突然向けられたその華やかな笑みに気づいて、きょとりと固まった。
「ゆかりさんも、今日ラストまでですよね。送っていきますよ、近くで痴漢がでたと噂もありますし」
「え、でもその痴漢ってこの前捕まったって先生が言ってたよ?」
「私もそうこの前来てくださったおまわりさんから聞きました! だから、大丈夫ですよ~」
「でもああいう輩は二人三人と湧いてくるものですし」
いや、虫じゃあるまいし、と飛鳥は心の中で突っ込む。
「ええっ、そんないっぱいいたら縄張り争いとか起こりそう……はい、喫茶いしかわ特製レモネードです! 私の昨日の集大成つき!」
ずれた心配をするゆかりから差し出された、いつもの喫茶いしかわのレモネードよりも豪華なその見た目に、サクラが可愛らしく歓声をあげた。
透明なソーダからの淡いイエロー。グラスの中では、綺麗なグラデーションが描かれている。ミントの葉が鮮やかだ。
飛鳥ちゃんはこっちね、とゆかりから渡されたグラスが、友人のものよりも甘さ控えめなことを、飛鳥はもとより、和樹も知っている。
相手の好みや意思を尊重しながら、周囲への気配りも忘れない。彼女の柔らかな優しさは、簡単に人の内側に染み込んでいくことを、和樹は身をもって実感していた。
飛鳥はそのゆかりの気遣いに、小さく礼を言ってグラスを受け取ると、まあでも、とさっきまでの話に戻すため、口を開く。
「女の人は夜の一人歩きはしないほうがいいって言うし、和樹さんはど~うしてもゆかりお姉ちゃんを送りたいみたいだし。せっかくだから送ってもらいなよ」
「ほら、飛鳥ちゃんもこう言ってることですし」
「心配しすぎですよぅ。私、そんなにか弱くないのに……」
むん、と気張って力を込められた二の腕は、力こぶを作れておらず、か細い。それなのに、自信たっぷりなその表情に和樹は思わず笑ってしまう。
力こぶとはこうやって作るんですよ、と軽く力を入れただけで盛り上がる上腕二頭筋を見て「おおおっ」と目の前の彼女からも、子供たちからも小さな歓声が上がった。
彼女の細い指がその硬さを確かめるように、押してくる。指先から伝わってくる熱に、胸の奥でむず痒い何かがこみ上げてくるが、和樹はその感情の名前がわからない。ただ、そんな簡単に男の身体に触れてはいけない、と後ほどしっかりと言い聞かせようと心に誓った。
「大丈夫です。この前、痴漢撃退法ってやつ習いましたから」
「それでも、です。あと、そこのテーブルは僕が行くので、ゆかりさんは奥のテーブルの食器お願いします」
和樹が示したテーブルは、小さなケーキ皿二つとグラスが二つ。ゆかりが行こうとしていたテーブルより明らかに食器が少ない。すぐ甘やかすんだから、と笑う彼女はどこもかしこも細くて柔いことを、和樹に対して気安く触れてくるおかげで知ってしまった。甘やかさずには、いられないのだ。




