202-1 おやつタイムのレモネード(前編)
無自覚な恋愛ポンコツ時代のお話。
彼女の周りを回っている優しい日々に触れていると、「平和」の代名詞は「石川ゆかり」なのではないかと思う。
「昨日作ったカレーがとっても美味しかったの。会心の出来!」
「お気に入りのカフェの改装オープンがもうすぐらしいです」
「この前作ってくれたごはんの隠し味、わかりましたよ!」
何気ない日常を、あまりにも楽しそうに話すんだ。
「昨日、小学校近くの公園で、ひまわりが咲いていましたよ」
「知ってますか? 駅前に、新しいケーキ屋さんがオープンしたらしいです」
「今度出す新作デザート、考えついちゃいました」
今まで気付かなかったような日常に目がいくようになった。ただただその目に付いた日常を、彼女の言葉におうむ返しをするように話すだけで、彼女は嬉しそうに笑う。
あまりにも素直なその反応が、和樹にとっては新鮮で。もっと見てみたいと思うのだ。
濡れた髪が目の前に落ちてくるのを、日に焼けた手で鬱陶しそうにかき上げる。洗濯機の上には、積み上げられたタオルとスマートフォン。ただでさえ和樹は仮眠室にお世話になることが多く、こちらの部屋に帰ること自体が少なくなっていたため、白いそれの多くは本来の役目を放棄して物置台になってしまっている。今朝も会社の仕事を終え、久々の自宅での仮眠は取れたものの、未だ眠気は残ったままだ。正直、時間が少しでもあるのならこのままもう一度惰眠を貪りたいと、シャワーで無理やり覚ました頭で思う。
しかしながら、今日はぜひ喫茶いしかわに行きたい。先週、看板娘との約束をすっぽかす羽目になったため、家事や睡眠よりもそちらの心象アップが先決だ。
だが何度約束をすっぽかそうと、喫茶いしかわの面々にそれを責められたことはない。なんだったら、揃って大変そうだと和樹のことを慮ってくれる。和樹はそれに感謝をしながらも、そのお人好しすぎる人柄に心配を禁じ得ない。
特に石川ゆかりには――迷惑をかけている自分が言えた義理ではないが、直接迷惑がかかっているというのに和樹に甘い。
和樹がドタキャンしても、彼女は毎度めいっぱいの心配をよこすだけだ。さすがに直前すぎるときは、「もう少し早めにいってほしいです」との、責めるというには甘すぎるお小言はあるが。
そんな彼女が怒るのは、和樹が怪我の治療を適当にして喫茶いしかわに現れる時だ。垂れた目を精一杯釣り上げる彼女に叱られながら、丁寧に包帯を巻き直してくれる時間を、和樹は癒しの時間として享受している。人に触れられるのがあまり好きではない和樹だが、その時間は存外嫌いじゃなかった。
乱雑にタオルで髪の水分を拭き取りながら、机の上に放置していたスマートフォンをタップする。
見慣れた番号を表示させて操作すれば、もうすでに出勤しているゆかりが、数回のコールの後、電話に出てくれる。
「……はい、先週はすみませんでした。ええ、今日は無事に伺えそうです」
耳元で紡がれる彼女の声は、いつも通り穏やかだ。喫茶いしかわに行くことを伝えれば、その声に喜色が混じる。それだけで、彼女がどんな表情でこの電話の向こうにいるのかがわかってしまい、思わず和樹の口元が緩んだ。
彼女にもっと喜んで欲しくて、自然とその後に続いた和樹の言葉に、彼女の声はより一層喜色が増す。彼が予想した通りの反応に、思わず声に出して笑ってしまった。すると、すぐに彼女からは抗議の声が上がる。
ではまた後で、と電話が切れた後には、彼女と話す前より、幾分疲れが取れた気がした。睡眠時間が増えたわけでもなく、栄養ドリンクを飲んだわけでもないのに、だ。
最近そんなことがよくあるものだから、「平和」の代名詞を担うような人間からは、きっとマイナスイオンが発せられてるに違いないと和樹は思っている。こんな荒唐無稽な考えを彼が持っていると知ったら、付き合いの長い長田などは、幻覚でも見た気になるに違いない。
カーテンの隙間から差し込んでくる日差しの強さは、夏のそれだ。きっと、アイスコーヒーがよく出るに違いない。そんなことを考えながら薄手のシャツを取ろうとしていた手で掴んだものは、柔らかいコットン製のTシャツだった。
「今日の賄い、ゆかりさんのリクエストにお答えしますよ。」
そんな一言だけで、電話の向こうの彼女が嬉しそうに笑うから。彼女の「平和」をどこまでも守りたくなってしまうのだ。
「おはようございます。……あれ、ゆかりさんは?」
「ああ、おはよう和樹くん。ゆかりなら買い出しに行ってくれてるよ。ついさっき出て行ったところ」
ドアを開ければ、夏の匂いに混じって、少し酸味混じりの、深みのある独特の芳香が鼻腔をくすぐる。いつも通り人の良さそうな笑みを浮かべるマスターは、コーヒーを入れる手を止めて、ちょいちょいと外を指差した。
彼の指し示す外は、初夏にしては強い日差しに照らされている。車から喫茶いしかわまでの短い道のりだけで、軽く汗ばむほどだ。彼女の白い肌が、あの日差しから守られてないと思うと心配になった。
ゆかりがやりかけていたのだろう、キッチンに広がるランチの仕込みを一瞥すると、今日のメニューを確認する。手早くエプロンを身につけると、包丁を握った。
「僕が着いた後だったら車で一緒に行けたのに、ゆかりさん一人で行っちゃったんですか?」
「僕もそう言ったんだけどね、急に切らしちゃって必要だったのガムシロップだけだし、出勤したての和樹さんに車出してもらうの申し訳ないからって。今朝、飛鳥ちゃんが来てくれてね、学校終わりにお友達とみんなで寄ってくれるらしいんだよ。この前、みんなにはお世話になったから、ご馳走したくてそのために必要なものだから、ほぼ自分の用事でほしいもののついでになってしまいますし、って言ってたよ」
ちょうどランチタイム前で客足が途切れたタイミングだったし、と続くマスターの言葉はなんらおかしいところはない。
ただ、この間、和樹が少し離れている間に、ゆかりは道案内にかこつけたナンパにあっていたのだ。最後まで一切気づいていなかった彼女を思うと、一人では行かせたくなかった。
ランチに向けての仕込みを行う手は止まることはなかったが、脳内では買い出し先でのナンパ男や、芋づる式に喫茶いしかわで彼女へ言いよる男の顔一つ一つをしっかり思い出す。
そういやその前だって……と続きそうになる和樹の思考は、カラン、という音とともに途切れた。
「マスターただいま帰りました! あ、和樹さん、おはようございます!」
「おはようございます、ゆかりさん」
「おかえり、ゆかり」
溌剌とした声に、屈託のない柔らかな笑み。和樹の顔にも、自然と笑みが浮かぶ。
相当暑かったのだろう。店内の涼しい空気で身体を少しでも冷やそうと、襟元を軽く引っ張ってゆかりはぱたぱたと手うちわで風を送り込んでいる。
無防備すぎるその姿に、眉間に皺が寄りそうになるのは、どんな思考を辿ったせいか。わからなかったが、とりあえずやめさせよう、と和樹は近くにあったトレーで軽くゆかりを仰いでやる。思惑通り、彼女は手うちわで仰ぐのをやめ、ありがとうございます、と微笑んだ。
「買い出し中、和樹さんのことばっかり考えていたから一瞬びっくりしちゃいました!」
そういえば和樹さんの入り時間過ぎてますね、と言葉を続けながら、ゆかりは手際よく買ってきたものを冷蔵庫へ、棚へとしまいこんでいく。和樹の方を振り返ることなく、くすくすと笑いながら紡がれる言葉に、淀みなく動いていた彼の手が一瞬止まる。
「……ぇ」
「今日のね、賄いオムライスがいいです! ソースはトマトベースがいいなあ」
和樹の戸惑いには一切頓着せずに、全ての材料をしまい終えたゆかりがくるりと彼を振り返ると、満面の笑みで乞われる。一拍遅れながらも、任せてくださいと笑みを浮かべて答えれば、彼女はさらに目尻を垂れ下げて笑った。
時計は、すでに十一時半前を指している。ランチタイムが早い人であれば、もうそろそろ来店してもおかしくはない。
ゆかりは手慣れた手つきでエプロンを身につけて、これからくる怒涛のランチタイムに向けて気合を入れ直しているところだった。わかりやすくころころ変わる表情は、素直に可愛いなと思う。
「今日も頑張って乗り切りましょう、和樹さん! そしてオムライス!」
「はい、ゆかりさん」
えいえいおー! と元気よく一緒に拳を突き上げたタイミングを見計らったかのように、ドアベルが賑やかな音を立てた。




