196 陽だまりのひと
「あっ!」
ゆかりが唐突に声を上げるのは珍しいことではなかった。案外抜けたところのある彼女がこうやって声を上げて失敗を思い出すシーンに幾度となく遭遇している。だから今日も人好きのする笑顔を浮かべて、和樹は優しく問いかけた。
「忘れ物ですか?」
「そうなんです! メモに書くところから忘れてました。パフェ用のシリアルほとんど残ってないんだった!」
平日でもごった返す倉庫型の卸売小売チェーンは、まとめ売りサイズの商品を積んだ大きなカートで溢れている。通路によってはすれ違うのもやっとという賑わいの中で、言うが早いか、ゆかりはするりと和樹の横から身を滑らせた。
「私ちょっと取ってきますね! 和樹さんはその辺りで待っててください!」
それなら僕が、と言いかけた台詞は最後まで続けられることなく途絶えた。
意外とすばしっこい彼女が勝手知ったるといった様子であっという間に人の波に消えてしまったからだ。木を隠すなら森、なんて例えは失礼かもしれないけれど、和樹と反対にごく一般的な日本人女性の容姿をしているゆかりは容易く雑踏に紛れてしまう。
和樹は伸ばしかけていた手をそっと下ろして適当な位置へカートを寄せた。大抵の人間の旋毛が見える身長の和樹からもゆかりの姿はもう確認できない。シリアルだったらここから三つ隣りの通路だろうか。
それほど距離もないのでじきに帰って来るだろうと算段をつけ、和樹は上着の内側から使い慣れた端末を取り出した。ホームには会社からの通知が二件。それから転送で、取引先からの通知が一件。そのすべてを素早く確認してそれぞれの内容を頭の中で整理する。必要な情報を抜き取り、スケジュールを組み上げて会社へは短い指示を返した。取引先の方は今度顔を合わせる時の話なので、内容の確認だけして画面をスワイプする。
灯りの消えたディスプレイに映る仕事用の固い顔をゆっくりと緩める。そこにゆかりの横にいるときには見慣れた和樹を確認してから、端末を上着へ戻し、小さく息を吐いて顔を上げた。
「さて……」
和樹はちらりと辺りを見渡した。そろそろ戻ってきてもよさそうなものだがゆかりはまだ姿を現さない。腕時計を確認すれば、そろそろ十分が経とうとしていた。少し迷ってもう一度端末を取り出し、アプリを立ち上げて通話をタップする。しばらく待ってみたけれど、電車の発車メロディのような呼び出し音が淡々と続くばかりだった。そういえば、と、格安SIMに変えてから場所によって電波が悪いとゆかりがぼやいていたのを和樹は思い出した。
まさか迷子ではないだろうが……いや、ゆかりならやりかねない。ほんの僅かに和樹の脈拍が上がった。自分がここから移動するのは得策とは言えない。通話が繋がらない以上、会話しながら距離を詰めることもできないのだから、おとなしく待つほうが理に適っている。
……変な輩に絡まれたりしていないだろうな。さすがにこんな場所でナンパの類はなかろうが、彼女はとにかく可愛すぎる(注:和樹基準)のだ。巻き込まれる形であっても事件すれすれの危険な目に遭っていた現場に遭遇したこともある。
店内は相変わらず混雑していた。主婦グループの甲高い笑い声と小気味良いやり取り、カップルの甘ったるい囁き、子供の泣き叫ぶ声とはしゃぎ声。幾つもの声が重なり合って雑踏を形成している。決して狭くはない通路を埋めながらうねるように行き交う行列は、一つの巨大な生き物のようにも見えた。
思わずため息がこぼれる。今日のゆかりは落ち着いたアースカラーのブラウスを着ていた。いくら和樹の背が高いといってもこの混雑の中から探し出すには、ゆかりは些か平凡すぎる容姿と服装である。動くか。いや、まだ早い。
「きゃ」
ぶわっと神経が集中線を描くようだった。聞こえるはずもないような、かすかな音を耳が拾い、考えるより先に視線が動く。次の瞬間には上気した頬を捉えてしまった。ゆかりは身体を屈めて誰かに話しかけている。少し目を凝らすと、相手は幼い男の子のようだった。うっかりぶつかってしまったのだろうか。ゆかりが眉を下げて謝っているのが唇の動きでも分かる。子供の方は驚いただけで怪我はないようだ。それが分かるとゆかりはほっとしたように胸を撫で下ろし、近くにいた保護者らしき夫婦へ頭を下げた。とんでもないといった様子で両親が首を振る。父親が優しく小突くと、子供がゆかりに向かって恥ずかしそうにお辞儀をした。ゆかりがとろけるように目尻を下げる。そうして子供へにっこり笑いかけ、そっと頭を撫でた後『バイバイ』と手を振った。
和樹はゆかりの緩みきった頬から目を反らすことができず佇んでいた。喫茶店の看板娘と彼女に惚れたただの常連客だった頃、炎上炎上と騒いでいた彼女は、実際のところ、本当に敵なんて作れるのだろうかとぼんやり考えたこともある。老若男女にかかわらず看板娘のゆかりを慕う客は多い。一見の客が常連になる瞬間を、和樹は何度も目にしていた。何気ない気安さですっと相手に近づいて、いつの間にかあっけらかんと懐へ入ってしまうひと。こじ開けるでもなく、閉ざすでもなく、気付けば周りに小さな陽だまりを作ってしまう可愛いひと。
ふとゆかりが顔を上げて和樹を真っ直ぐに見た。
どくん、と鋼のような心臓が波打った。ゆかりは一度目を見開くと、そのままゆるりと目尻を下げ、たった今子供に向けたのと同じように邪気のない顔で破顔した。
「和樹さん!」
今度ははっきりと和樹の耳にも届く声だった。伸ばされた両手に一つずつシリアルの袋が握られている。見つけましたよとくっきり顔に書いてあるものだから、和樹は思わず吹き出した。ゆかりは危なっかしく人混みをジグザクに抜けて近づいてくる。
横から来た集団を避けきれずよろけたゆかりへ、和樹は今度こそ手を伸ばした。シリアルを振り上げたへんてこな格好のまま恥ずかしそうに礼を言う彼女を、和樹はやっぱりゆかりさんは可愛いなぁと思いながら甘やかな視線と彼女向け限定のふわりとした笑顔を見せた。
喫茶いしかわの買い出しのお手伝いは、和樹さんにとって至福の時間です。
平日の日中なので、貴重な夫婦ふたりきりでのいちゃいちゃタイムだと思ってます。
これ書きながら流れてた脳内BGMはウ○フ○ズ「かわいいひと」でした。ご存じですかね?
原曲はお母さんを想定した歌ですが、なんとなくこういうシーンのふたりには、こんなイメージがあったので。




