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徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


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191 if~ゆかりさんの恋愛ポンコツがちょっとマシだった場合の吊り橋効果~

 若い頃のゆかりさんがそこまで恋愛ポンコツじゃなかったとしたら、こういう吊り橋効果も威力を発揮してくれるのかなと。

「ゆかりはさ、和樹さんのこと好きになったりしないの?」

「え、なんで?」

 投げかけられた質問に質問で返すと友人たちは何その反応! とケラケラ笑った。


 乾杯、という掛け声とともに三つのグラスが宙でぶつかり合って始まった女子会。久々に会った中学時代の同級生たちは、それぞれ見た目はあの頃より大人になったけれど、いざ会うと中身は変わらない。尽きない話にお酒も料理も進む。

 さて、女同士が集まれば、自然と出るのは恋愛話。あの子結婚するらしいよ、とか、最近合コンでこんなことがあってさ、とか、友人たちはこの手の話題に事欠かない。すっかり聞き役に徹した私は、彼女たちの話に相槌を打ちながら、注文したハイボールを一口。ほのかな甘さと香ばしさ、炭酸の刺激が喉を潤す。あぁ、お酒って美味しい!


 そんなふうにお酒に夢中になっていたから、自分に話題が振られた時も、つい反射的に答えてしまった。友人たちはひとしきり笑ったあと、だってさ、と話題を続ける。

「イケメンなんでしょ? 和樹さん」

「あのイケメンのおかげで寂れた純喫茶に急に女性のお客さんが増えたって聞いたよ」

「寂れたって! 私の実家で職場です!」

 抗議の声にごめんごめんと便宜的に謝るものの、彼女たちの興味は喫茶いしかわのイケメン店員に移っている。おもちゃを前にした猫のように、好奇心に満ちた目がうずうずと話を待っていた。


 と言っても、特別なことはないんだけど。

「和樹さんはいい人だよーイケメンだし料理も上手いし優しいし」

「はぁ、完璧じゃん、そんな人いるんだ……」

「彼女いるの?」

「いないって言ってた」

「えーいっちゃいなよゆかり!」

 うーん、とグラスを置いて考えてみる。和樹さん、和樹さんねぇ……。

 ここに送り出される前のことを思い出す。


 夕方の喫茶いしかわにやってきた和樹は

「まだ外、風が冷たいですよ。夜はもっと冷えますね」

 と笑っていた。

「春はまだ遠いですねー」

「今日はもう上がるんでしたっけ?」

「はい、これ拭き終わったら今日は終わりです!」

 笑顔で答えると、残りの食器類を見た和樹さんはふむと頷き、あと十五分くらいですねと目処を立てる。


「女子会でしたっけ。楽しんできてくださいね」

「ふふ、久しぶりの集まりなのでとても楽しみです」

「あ、でも夜は遅くならないように。最近、不審者が出るみたいで」

「そうなんですか?」

 そういえばそんな話を巡回で立ち寄ったおまわりさんもしていた気がする。春になるにつれて、そういう人も増えるみたいで、おまわりさんたちは見回りを強化しているんだとか。


 和樹さんも急に真剣な顔になり、まるで小さな子供にルールを教える先生のように、人差し指を立てて私に告げた。

「いいですかゆかりさん。夜に人の少ないところは行っちゃダメですよ。路地裏とか、公園とか。できるだけ人通りの多い場所を通って帰ってください」

 その口調と仕草に、なんだかお父さんみたいと思わず笑ってしまった。私も指でOKマークを作って返す。

「はい、気をつけます」

「よろしい」

 皿拭きはすぐに終わった。テキパキと身支度を整え、カウンター席でコーヒーを口にしながら見送る和樹さんに手を振り、喫茶いしかわを後にした。


「いつもニコニコ笑ってて素敵な人だとは思うけど……男性としては見てないかなぁ」

 酔いも手伝ってか、思ったままの言葉がぽつりと零れた。友人二人は意外そうに顔を見合わせている。

「今日もさ、ここに来る前、夜は遅くならないように、とか、人の少ないところは通っちゃダメ、とか、なんかお父さんよりお父さんみたいなんだよね。いや、さすがにお兄ちゃんかな? とにかく私のこと、妹か何かだと思ってる気がする」

「妹?」

「うん、だから、向こうは私のことそういうふうに思ってるし、私もなんか、お兄ちゃんみたいだなぁって。実の兄よりよっぽど頼りがいがあるけどね。色んなこと知ってるし。尊敬する」

「へー」

「それに、お店のを手伝ってくれるときはお客さまにも丁寧だし、メニュー開発にも協力的で、本当に優しくていい人なんだけど……穏やかすぎてたまに心配になる。この人怒ることあるのかなって。無理してないかなって」

「ほほー」

 気づいたら友人たちがニヤニヤとこちらを見ていた。

「……なに」

「いや? 随分見てるんだなぁって、その和樹さんて人のこと」

「大事な常連さんだし、職場にいろいろ協力してくれる人だもん。そりゃ見るでしょ」

 なんだか居心地が悪くなってグラスに手を伸ばした。喉で刺激を味わう。


「それにゆかり、向こうが妹として見てるから自分もそう見ないって、なんかそれ、ちょっと拗ねてるみたい」

「えー? そうなるー?」

「そうそう。それとさ、怒らない人なんていないよ、人間なんだから」

 私につられたように友人もグラスをとった。琥珀色の梅酒が揺れ、氷がカランと音を立てる。

「怒るってエネルギーいるからさ。どうでもいい人には怒らないわけよ。つまり、和樹さんが怒るときって、本当にその人のことを考えてたり、大事に思ってたりするときなんじゃない?」

 それを聞いたもう一人の友人はわぁ! と楽しそうに歓声を上げて手を叩いた。

「いいねぇ! なんか特別感あるねぇ! ゆかり、ゴー!」

「まったく、面白がって……」

 ゆかりと和樹さんにカンパーイ! という掛け声にため息をつきながら、もう一度三人でグラスを合わせた。


 話し込んでいたら随分と遅くなってしまった。店を出たのが二十三時過ぎ、友人たちを駅まで送り、帰路に着く。この時間帯は静かで、まるで知らない町のようだ。なんだか冒険をしているようなワクワクした気分になって、鼻歌交じりに家への道を歩く。公園を抜けて近道して帰ろう、と思ったのも、そんなふうに気が大きくなっていたからかもしれない。


「お嬢さん」

「へ?」

 ふいにかけられた声に振り返る。いつの間にかスーツを着た男性が後ろを歩いていたらしい。四十代くらいの男性はズレたメガネを直しながら、半笑いのような不思議な表情で私に問いかけた。


「駅ってどっちかな? ここらへん初めてで、よくわからなくて……」

「あ、駅は逆ですよ。あっちに行って、通りに出たら右に曲がって真っ直ぐです」

「あぁ、そっか。ありがとう。……いやぁでも、運命かなぁ?」

「はい?」

「こんな可愛いお嬢さんに会えるなんてさ」

「はぁ……?」

 道を教えたというのに男性は一向に駅へ向かおうとしない。それどころか少しずつ、私の方ににじり寄ってきている気がする。私も後ずさって距離を取った。

「あのね、僕、出張でここに来てるんだけどさ、一人じゃ寂しくて……よかったらこれからどう?」

 直接的な誘いに酔った頭がサッと冷めた。先程までの浮ついた気持ちが急速にしぼむ。

 この人、なんか、怖い。少しずつ後ろに下がる。


「あの、いえ、結構です帰ります」

「いいじゃん、こんな時間まで飲んで帰るってことは君も寂しいんだろう?」

「いや、えっと、家族が待ってるので」

「いい大人なんだから、ちょっとくらい遅くなっても気にしないよ……」

 男はだんだんと近寄ってくる。正面が塞がれ後ろに下がるしかない私は、どんどん追い詰められる形になっている。

 どうしよう。どうしよう。

 振り返って走って逃げることも出来るが、この人に背中を見せるのが怖かった。急に襲われたら私の力では敵わない。素早く見渡して確かめるが周りに人はいなかった。助けを呼べない。一人しかいない。あぁ、なんで私、近道なんか選んだんだろう。後悔が涙に変わりそうだった。

 引きつっているだろう私の顔を見て、男はニンマリと下品な笑みを浮かべた。私の顔から目を離さず、ズボンのベルトに手を伸ばしている。

「ほら僕のここ見てよ、お嬢さんのせいでこんなに……」


 その時。腕を後ろから強く引っ張られたと思ったら、私の視界は急に真っ暗になって。

 人の手だ、そう思った時に聞こえてきたのは、聞き馴染みのある声が出す、聞き馴染みのないトーン。

「――失せろ」

「……!」

 お腹の底に響くような冷たい声音に、男の声にならない悲鳴が聞こえたかと思ったら、「警察です。少し話をよろしいですか?」という声も聞こえた。

 暗闇の向こうに人の気配がする。それが誰なのかわかっていたけど、確かめたくて、暗闇を作る手に触れる。ぎゅっと力を込めると視界を隠していた手は何の抵抗もなく外れた。世界に色が戻り、少し遠くの方に紺色のスーツの男性と連れていかれる男の後ろ姿が見える。


「……はぁ」

 いつの間にか肺に溜まっていた息を大きく吐き出した。まだ心臓がバクバクとけたたましく鳴っていて、耳に響いてうるさい。自分の手だってまだ少し震えていて、相手の手を離すことができない。色々なことを思うのに、まとまらなくて真っ白だ。でも、たぶん、私、助かった。

 縋るように、握っている手の主の顔を見上げる。彼の瞳もこちらをまっすぐに見ていた。

「……ありがとうございました、和樹さん」

「……」

 月の逆光で暗くなったそれは、見たことのない顔だった。いつも優しくて、ニコニコしている、穏やかな好青年の顔はどこに行ったのだろう。眉間に皺を寄せ、口をきっと結び、自分を見下ろす瞳だけが何かを訴えるように爛々と光っている。彼の瞳にこんなに感情が乗っているを見るのは初めてだった。

「……和樹さん?」

 すっと、彼の手が自分の顔に迫る。なんだろう、そう思った瞬間。


「……った!」

 無言でデコピンされた。

「……え?」

「……何時だと思ってるんですか!」

 急な痛みと聞き慣れない怒声に目をしばたたかせる。先程まで感じていたはずの恐怖心が吹っ飛んだ。

「えっと……十一時半……くらい……?」

「えぇ、そうです。正確に言うともう少しで日付が変わります。僕、言いましたよね? 不審者が出るから危ないって。人の少ない場所は避けることって」

「い、言いました……」

「じゃああなたが今いる場所はどこですか?」

「公園、です……」

「何で自分から危険な場所に行くんですか!」

 普段の姿からは想像できないような剣幕だ。弾かれた額を両手で押さえながら、子供のように縮こまってしまう。


「お、遅くなってしまったので早く帰らなきゃと思って……近道をと……」

「急がば回れです! 近道して危険な目に遭ってたら意味がありません! たまたま近くに僕がいたからよかったものの、こんな人目のつかない暗い場所、どうなっていたかわからないんですよ!」

 彼から放たれる言葉を聞きながら、私はぽかんと見つめ返してしまった。あの和樹さんが、あの、優しくていつも笑っている和樹さんが、眉を釣りあげ語気を荒げている。


 そんな場合じゃないと思いながら、疑問が口から飛び出した。

「……和樹さん、もしかして怒ってます?」

 私の質問を聞いた和樹さんは、ギロリと鋭い目付きで私を見る。

「笑ってるように見えますか?」

「あ、いや違うんです、すみません……和樹さんが怒ってるの珍しくて……」

「誰かさんにすごく心配かけられたので」

「心配……したんですか?」

「当たり前でしょう!」

 腕を組んで怒りながらも真っ直ぐに、和樹さんの目が私を見た。瞳には複雑な感情が交じり合っているように見えた。和樹さんはいつも穏やかで落ち着いてるのに、和樹さんの目はなんて表情豊かなんだろう。


 ふと、見つめていた和樹さんの顔から少し力が抜けた。相変わらず険しい顔つきながら、僅かに痛みから解放されたような表情で、はぁというため息と共に、独り言のような小さな声で呟く。

「無事でよかった……」

 その声が耳に届いた瞬間、私の心臓が大きく跳ねた。


『向こうが妹として見てるから自分もそう見ないって、なんかそれ、ちょっと拗ねてるみたい』

 拗ねてるなんて、そんなつもりはなかったが、ちょっと面白くなかったのは確かだ。でもそれは、何で?

『怒るってエネルギーいるからさ。どうでもいい人には怒らないわけよ。つまり、和樹さんが怒るときって、本当にその人のことを考えてたり、大事に思ってたりするときなんじゃない?』

 あの和樹さんが、私のことを心配して、怒ってる。和樹さんはきっと、私と真摯に向き合ってくれてるんだ。心配かけたのに、怒らせてるのに、こんなことを思う自分はずるいけど、でも。

『無事でよかった……』

 私が今感じてる、擽ったいような嬉しさは、何?


 額に置いていた両手で顔を覆った。

「……ちょっと待ってぇ……」

「なんでですか。ほら帰りますよ!」

 動かない私に痺れを切らした彼は、ぱっと私の手を掴むと、そのまま家の方へと歩き始める。

 自分の気持ちに気付いてしまった私と、気付かない彼。彼が前を向いてくれていてよかった。こんな真っ赤な顔、絶対に見られたくない。

 火照った顔を夜風が気持ちよく撫でる。あぁ、明日からどんな顔して会えばいいんだろう。


 こういう自覚の仕方って、アリですかね。まあ本編のゆかりさんは自覚してくれなかったわけですが(苦笑)


 めっちゃどうでもいい裏話。紺色スーツの人は、別のお話にちらっと出てきた和樹さんお知り合いの警察関係者さんのつもり。この人に名前が付くことはあるんでしょうか?

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