190 たっぷり配合
まだまだ自覚が薄い頃の和樹さんのお話。
暇つぶしがきっかけでたまに喫茶いしかわの買い出しなどの手伝いをするようになった和樹は、普通の常連より距離が近くなった頃からゆかりお手製の惣菜などをおすそ分けされるようになった。そのうち、夜道を送ってくれたお礼にと彼女の家で晩ごはんをご馳走になることがぽつぽつと増えた。彼女お手製の晩ごはんを食べた後、なぜか眠気が我慢できなくなり、朝まで熟睡する日が増えた。
和樹は、ゆかりの作ったものを食べた時だけなぜか発生する現象に、そんなことあるはずないと思いながらも、まさか睡眠薬などを盛られているのだろうかと勘繰り、ゆかりお手製の食品の一部を、仕事で得たつてを使って成分分析に回した。
数日後、喫茶いしかわのバックヤードでダンボールを棚の上に上げているとき、分析を依頼した相手から電話で連絡をもらい結果を簡単に聞いた。だが予想した結果は得られなかった。
バックヤードから出てきた和樹が、どこか納得のいかないような安堵しているような曖昧な表情を一瞬見せたのを、小さな常連客・小学一年生のサクラは見逃さなかった。
サクラはゆかりに気付かれないように、こっそり和樹に尋ねる。
「和樹さん、どうしたの?」
「いや、なんでもないよ」
「嘘だよね、それ」
サクラはジトリと和樹をねめつけるが、和樹はにこりと笑顔を貼り付ける。
「ふうん。それならゆかりさんに和樹さんの態度が変だよって相談しようかな」
「うっ……わかったよ。はぁ。ゆかりさんには内緒だよ」
さらっと事情を説明すると、サクラはにんまりと笑う。
「解ったよ」
「ん? 何が解ったんだい? サクラちゃん」
「いつもの和樹さんの笑顔で、いつもの和樹さんの仕草で、いつもの和樹さんを演じ続けている和樹さんが、どうしてゆかりさんのごはんを食べるとその鉄仮面が剥がれ落ちてしまうのか。わたしはその謎が解けたよ」
「!」
サクラがゆかりにも聞こえるように囁くと、和樹はその眼を見開き思わずゆかりを見た。ゆかりはツボに入ったらしく「鉄仮面って」とカウンターに突っ伏して笑い始めた。
「どういうことだい! ゆかりさんに丸聞こえじゃないか!」
「ゆかりさんね、接客中の和樹さんは演技して作ってる和樹さんだって気付いてるよ」
「なっ!」
「ゆかりさん、さっきそう言ってたもん。もっと和樹さんが安心できるお店にしなくちゃーって」
開いた口がふさがらない和樹は、思わず真顔になる。
「あとね、わたし解っちゃった。ごはんに入ってるモノ。いつもたっぷり入ってるけど、まったく和樹さんは気付いてないみたいだし、きっとどんな調べ方しても何も出てこなかったんじゃない?」
「……」
コソコソと耳元へ囁きかけると、図星だったらしく和樹は口ごもる。
石川ゆかりが作った料理からは薬物の類は一切出ず、一般的な調味料の成分しか検出されなかった。前日にこっそりと採取していた味噌汁や昼食の弁当の一部もつてを辿って調べさせた。分析用に提出して残った弁当を食べるとやはり激しい睡魔に襲われた。念のためを思い弁当を食べる前と、目覚めた後の自らの血液までも検査に回したが、そちらもまったく何も検出されることはなかった。ただ解っていることは、ゆかりお手製の食事をする前の定期健診の血液検査の結果と、今回の血液検査の結果とでは著しく数値が違っていたことだけは確かだ。
悪い意味ではなく、良い意味で。
それまで、まともな状態で自宅へ帰れた日にはまともな食事を取ることができるが、仕事が忙しくなると食べることも眠ることも疎かにする生活だった。そのため、血液検査をするとCKやASTがいつも高い。何度か精密検査を受けさせられたが、肝機能や腎機能その他臓器に異常はなく、筋肉の疲労度が高いのだろうと結論付けられ、もう面倒でここ何年かは数値が高くとも精密検査は受けていない。それが今回の弁当を食べる前の採血は正常値を示し、食べた後でも食後ということを差し引いても正常だった。
「いつも、たっぷり入れてもらってるのに気付かないなんて、酷いねぇ和樹さん」
「それは何なんだい」
「あのね……」
小さく小さく耳元で囁いてやると、みるみるうちに和樹は首筋までを赤くした。
「どうしたんですか? 和樹さん。サクラちゃん、どうしたの? さっきから二人ともなんの内緒話してるの?」
「ん~? あのね、和樹さんがゆかりさんのごはんに入ってる不思議な物を知りたいって言うから、わたしが教えてあげようと思ったんだ」
「サクラちゃん!」
「サクラちゃん?」
慌てて言葉を遮ろうとする和樹と、何のことかさっぱり解っていないゆかり。そんな二人と小学生のやり取りを、すぐ側で聞いていた常連女子高生二人が放っておくわけはない。
「何! 何なの! 何その秘密! ゆかりさんのごはんって、何? もしかしてやっぱり二人は……」
「きゃぁ~っ」
捲し立てるような遥の言葉に、最後は声にならない悲鳴を聡美と二人で上げ始める。
「私のごはんに入ってる、不思議な物? 私、何か変な物入れました?」
首をかしげて問いかけてくるゆかりに、ジリリと一歩後ずさりそうになりながらも和樹の耳はまだ赤い。
「何、何なの? 早く教えなさいよ!」
「そうだよ、サクラちゃん。どういうことなのか教えてよ!」
「サクラちゃん、何のことなのか私にも教えてくれる?」
女性三人に詰め寄られ、和樹でなくとも腰が引ける。チラリと和樹を横目で見ると、余計なことは言うな! と無言の圧力が見て取れる。
わたし、こどもだから、無言の圧力わかんなーい。と目で訴え、無言の圧力よりも比重の重い女性からの圧力に屈することに決めた。
「ゆかりさんの料理にいっぱい入ってるのに、和樹さんが気付いてないの。それはねぇ、【愛情】だと思うんだ。和樹さん、ゆかりさんの愛情た~っぷりのごはんを食べると、必ず眠くなっちゃうんだって。でもわたし、解る気がする。お母さんのごはん食べた後、眠くなっちゃうことよくあるもん」
「!」
「!」
聡美と遥は互いに顔を見合わせ、「きゃー!」と、もう一度悲鳴を上げて頬を染めた。和樹がもう既に世界の終わりのような絶望的な顔をしているのに対して、ゆかりはキョトンとした表情をしていたかと思うと、プッ、と吹き出し大笑いし始めた。
「もぅ! 何言ってるの、サクラちゃん。そんなのいつだってめいっぱい入れてるに決まってるじゃない! 料理ってね、食材を作ってくれた人に感謝して、食材になってくれた生き物たちにも感謝するの。それでね、いつだって食べてくれる人のことを想って、いっぱい愛情を入れて作るものなんだよ。喫茶いしかわでお客さんに出す料理も、賄いも、家で作る料理も同じ。もちろんサクラちゃんのお母さんがサクラちゃんに作ってくれる料理にだって、いっぱい入ってるんだよ。愛情」
だから、特別なことではないのだとゆかりは笑う。その笑顔に和樹は、あぁそうか……と納得し、勝手に疑って料理の成分分析依頼までした自分に恥じ入った。
和樹には、無償の愛を受けた記憶はほとんどない、他者からの【愛情】という名の物が入っていると確信できるような料理を食べた記憶もほとんどない。例えば黒魔術チョコのような、嫌がらせのような物が入った食べ物や、無理矢理既成事実を作ろうとする輩から薬物を混入された料理の記憶の方が鮮明で、自分で作る物以外は安心することができなかった。他人の作る料理は、材料も手順もすべて目視確認できたもの以外口にしたくないと思っていた。
そうか、僕は彼女の作る料理を安心して食べていたんだな、と今さら気付く。そういえば、彼女の料理はいつも腹いっぱいになるまでおかわりをしてしまうことを思い出した。出された物は全部美味しくいただきたいと、いつもそう思いながら食べていた自分を思い出した。そんな自分の心に蓋をして、いつも通りの自分でいると思っていたが、どうやら本音が顔を出していたらしい。まぁ良いか。飯は楽しく食いたいしな。和樹はそう納得した。
「ゆかりさん。また、愛情たっぷりのごはん、作ってくださいね」
「任せてください!」
満面の笑みで微笑むゆかりを見て、和樹は人前では珍しく、ふにゃりと笑った。
ゆかりさんなら、食材や料理や人に向ける気持ちをすべて「愛情」の一言でまとめちゃいそうだな、と。
和樹さんは和樹さんで、欲をぶつけられすぎて、愛情や信頼をうまく受け取れずに過ごしてきた人かなと。
まぁ、結果だけ見ればゆかりさん監修の食事療法になっているだけな気はしなくもない(苦笑)




