16-2 ひまわりめいろ(後編)(和樹視点)
一般的な迷路は「左手の法則」を使えば(一部例外はあるものの)簡単に攻略できる。
しかし、この迷路は小さい子供でも30分も迷えばゴールできるくらいの難易度だ。
それほど難しいはずないだろう……と、安易に考えたのが間違いだった。
僕よりも背の高いひまわりで先の道は見渡せず、多くの人が通ったと思われる道を選んでいくと、「残念!行き止まり」と書かれた札が立っていたり、どっちに行っても同じ場所に戻ってしまう理不尽な箇所に、見逃すような細い道が隠れていたり、スタッフらしい男性に手招きされて行ったら「引っかかりましたね」と笑われたり、なかなか凝った作りだ。
結局彼女の姿を一度も見かけることもなく、スタンプを3つ集めてゴールへたどり着いたのは10分ほど経ってからだった。
やれやれ、彼女の勝ち誇った顔が目に浮かぶ……と辺りを見回しても、その姿が見当たらない。
おそらく今日の日のために新調しただろう、涼しげで可愛らしいワンピースを探すが、どこにもいない。慌てて携帯で連絡を取ると、すぐ近くからバイブ音……自分が持っていた彼女のバッグからだ。
不覚。一体どこで追い越したのだろうか。
ゴールまでは一本道だ。
必ずどこかで出会うと思っていたが、どうやら、彼女が行き止まりの道に迷い込んで右往左往している隙に、すり抜けてしまったのだろう。
しばらく待ってみたが、いっこうに彼女は出て来ない。
僕らの後から入った人たちが次々にゴールし始めると、どんどん不安が膨らんでいく。
――おい、大丈夫なのか?
自分の中にいる、自分が囁く。
心臓の鼓動が、一気に速まって行く。
足が動き出す。
ゴール手前のスタッフが慌てて制止に入る。
「すみません、落とし物!」とスタッフに告げて、ゴールから強引に入って行く。
たしか最後の角は左へ、そのまま道なりに進んで……右は行き止まりだったから、左へ。
ここが最後のスタンプポイント。
小さな子供が、母親と一緒にスタンプを押しているが、彼女はいない。
――どうして、あの時、手を離した?
次は、どっちだった? こんなに明るくて、こんなに小さな迷宮のどこに彼女はいるのか?
――何があっても、一緒にいるべきだった。
「ゆかりさん!」
――何があっても、その手を繋いでいるべきだった!
「ゆかりさん!!」
「……和樹さ~ん」
一気に安堵が押し寄せて、その場に頽れそうになる。
良かった。
大丈夫だ。
彼女は、ここに――このひまわりの中にいる。
危険な目には遭っていない。
「どこ!?」
「……分かりませんよぉ」
「旗を振って!」
「嫌です! リタイアしません!」
うわ、面倒くさいな。すっごく可愛いけど。
「じゃ、手を振って」
「ここです~!」
見回すと、僕の遥か後方、一際大きなひまわりの間で、麦わら帽子が揺れている。
ひまわりの通路5つ分くらいは離れているだろう。
「見えた! 今行くから、そこ、動かないで」
「……はーい」
本当だったら、彼女との間にある花をすべてなぎ倒してでも通る道を切り拓いてやりたかった。
だが迷惑防止条例に引っかかり、警察に通報され、ニュースになり、多くの知人の知るところになるやもしれず。
いや、そんなことより、今、このイベントを楽しんでいる何の罪もない人々を脅かし、幼い子供達の心に傷を残すかもしれないし――いや、何よりも、彼女にドン引きされるのは耐えられない!
僕はお行儀よく、彼女の麦わら帽子を目指して、ひまわりの迷宮を逆走する。
しかし、実は、自分はまだ冷静じゃなかったらしい。
すっかり方向感覚を失い、ひまわり越しになんとか彼女の姿(というか麦わら帽子)を捉えた時の安堵感で、大体把握できていた迷路のレイアウトが吹っ飛んでしまい、一体、ここは何処だ? となっていた。
彼女がひまわりの壁の向こうから「あ、見つけた!」と叫んだ時には、息が上がっていて「見つけたのは僕だ!」の反論もできなかった。
ようやく隣の通路にまでたどり着いた。
「……ゆかりさん……あのね」
「和樹さぁん、私、迷子みたい」
ひまわりの大きな葉で、彼女の顔は半分も見えない。
けれど、その、途方に暮れた頼りない声に、放っておけない気持ちが益々高まる。
「……だろうね」
「スタンプ一個も押せてなくて」
衝撃だった。つまり彼女は、まだスタート地点間近にいるのだ。マジか!
脳内地図をリロード、頭の中が一気にクリアになる。俯瞰し、自分と彼女の位置が2つの点になって、把握できた。
「了解。今、行く。いい? 絶対、そこから動かない!」
「……えええええ……和樹さん、何か怒ってる?」
「怒ってない!」
地図が分かれば、彼女を見つけるのは早かった。
右へ、左へ、左へ。ここの通路は行き止まりだから通り越して、右へ。
「和樹さん!」
飛び跳ねるように近付いてきた彼女を、力いっぱい抱きしめてしまう。
自制心なんかどこかへ行ってしまっていた。
驚いて離れようとする彼女の腰を、逃げられないようにがっちりホールドする。
ふわりと落ちた麦わら帽子。
揺れるひまわり。
辺り一面、黄色い波。
地面に落ちたひとつの濃く、くっきりした影。
碧い空。
「……良かった」
情けなく掠れる声。
と、近付く声に彼女は、はっと我に返ったらしい。
渾身の力で、僕の両腕から距離を取ろうとする。
さすがの僕も、こんな場所で彼女を抱きしめているのを他人に目撃されたくない。
彼女の上気した、可愛い顔を誰にも見せたくない。
渋々体を離し、でも、手は掴んだまま、落ちた麦わら帽子を拾う。
遠慮なく、それを彼女の頭に被せ「行くよ」と促す。
さすがの彼女ももう「競争は?」と言わず素直に手を引かれたまま、スタンプを全てクリアし、あっという間にゴール。
先程のスタッフに「落とし物ありましたか?」と訊かれた時、「はい!」と応え「これです!」と大笑いしながら、繋いだままの彼女の手を大きく上げて見せた。
彼女は真っ赤になって「もう!」と怒って見せる。
僕は笑いながら、でも絶対に手は離さなかった。
彼女は、何万本ものひまわりの中から探し出した、僕だけのひまわり。
「はーい、お疲れ様でした! 時間は、わあ……35分23秒。中々の記録出ました!」
「え? 早い方ですか?」
「まさか! 逆です!」
係員に明るく返され、がっくり肩を落とした彼女に、僕は、自分の記録を見せる。
「……え? 8分52秒? 嘘っ!」
ボードに貼られた本日の1位は僕の記録、8分52秒。
「はい、僕の勝ち!」
「……分かりました。潔く負けを認めます」
「じゃ、僕の言うこと1つ聞いてください」
「え? そんなルールでしたっけ?」
「今、決めました」
「ずるい!」
「僕は、ハンデがあるのに勝負に正々堂々挑んで勝利し、オプションでついた救出ミッションまで完璧にクリアし」
「……ううう……了解です。ディナーは私の奢りでいいです」
「何、勝手に決めているのかな? そんなものリクエストしませんよ」
「じゃあ、何ですか?」
僕は、彼女の麦わら帽子を少し傾けて、小さな耳に小さく囁く。
「今日、泊まってもいい?」
彼女の顔が真っ赤に染まる。少し経つと、麦わら帽子のリボンが縦に小さく揺れた。
結婚前のおデート話。
こういう話のときは、和樹さんにストーリーテラーになってもらうほうがさくさく話が進みます。
ゆかりさんだと「おろおろしてたら和樹さんが迎えに来てくれました。チャンチャン!」になってしまうから。




