186 しあわせのかたち
和樹が喫茶いしかわを去り、再び和樹が常連に名を連ねるようになってから数ヶ月が経った。一ヶ月前和樹から告白され付き合うことになったゆかりは今日も喫茶いしかわで働いている。シフトは一人だったので閉店後、春から減っていくホットドリンクに備えてある程度のカップを戸棚に片づけていた。しかし、その棚はゆかりの背では少し難しい高さにあった。ゆかりが背伸びをして指先までピンと伸ばすことでカップは棚に入れられていく。
(こんな時、昔は和樹さんが後ろからヒョイって入れてくれたのになぁ……)
ものが届かない高さにある時にいつも和樹が後ろから支えてくれた。ゆかりの背中に感じる彼の体温や微かに香るコロン、そして何より上から降ってくる優しいテノールの声。しかし彼はもうここにはいない。ほとんどを鮮明に覚えているせいかゆかりは思い出すたびに寂しさが込み上げてくる。実は仕事が忙しいらしく和樹とはしばらく会えていない。それがまた寂しさを募らせる原因になっている。ゆかりが一人悲しみに浸っていたその時、入り切ったと思っていたカップが棚から落ちた。
ガッシャ―――――ンとカップの割れる音だけが喫茶いしかわに虚しく響いた。
家に帰るとゆかりはどっと疲れを感じた。作り置きは今朝食べきってしまったし、これからごはんを作る気力も残ってないなと思い、帰る途中でごはんを買ったが食べる気にならず、明日用にタッパーに詰めることにする。ゆかりは大きいタッパーが上の戸棚にあることを思い出し手を伸ばすが、またしても届かない。いつもは何とも思っていないことでもなんだか今日はすごく嫌に思えた。なんとかタッパーの端をつまみ、出そうと引っ張る。しかしそれがいけなかった。ゆかりがつまんだタッパーの上にのっていた予備の小さいタッパーが一緒になって落ちそうになる。
あっと思った瞬間後ろから大きな手が伸びてきた。その大きな手は落ちてくるタッパーを押さえ、ゆかりを守る。背中に感じる体温、彼特有の香り。
「高いところのものを取る時は椅子を使ってくださいと言ったじゃないですか。ゆかりさん」
頭上から聞こえてくる優しいテノールの声。あの日々に重なる。ゆかりは和樹の方を向きギュッと抱きしめる。
「ふふ……和樹さんだぁ。和樹さんが私のそばにいるぅ……いなくならない」
疲労が重なっているのかゆかりはいつもよりフワフワしたしゃべり方になっている。
「いなくなりませんよ。どうしたんですか急に」
「なんでもありません。ただ和樹さんのそばにいれる幸せを再確認しただけです……」
しばらくゆかりは幸福感に浸っており、ぎゅうぎゅうと和樹を抱きしめ離そうとしない。顔を和樹の腹に埋めすりすりと密着している。
(これは……僕的に相当ヤバいんですが……)
しばらく会えていなかった恋人を驚かそうと家で待ち伏せして三十分。まさかあんな危ないことが起きるとは思わず反射的に手が出てしまった。そしてその結果がこれだ。成功なのか失敗なのかよくわからなくなってしまったが、最終的にゆかりに抱きしめてもらえたので和樹は幸せだった。
しかしこれで満足しない和樹がこの先どうなったのかは知らない。
このあとは、「ほっとしちゃったゆかりさんのお腹が主張を始める」に一票(笑)




