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徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


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180-2 オンナノコの事情(中編)

 日が沈む少し手前、茜色がどんどん濃く、東の空には一番星もかすかに見えてきたころ。商店街の路地を通り過ぎると、小さな公園にさしかかった。慣れない下駄がわたしの足に悲鳴を上げさせていた。歩くのも痛くて辛くて、ちょっとだけと決めてベンチに腰掛けた。足元を見ると小豆色の縦縞模様の鼻緒に当たる部分が赤く擦れてうっすら血が滲んでいる。


「う~ん。しまったなあ」

 スーパーでの人混みに酔ってさらに痛み止めも切れてしまったわたしは、気力でなんとか買いものを済ませてフラフラと街外れの公園のベンチに吸い寄せられたのだ。下腹部のチクチクとした嫌な痛みと足先の皮が擦れた痛みに顔を歪ませながら、項垂れて長い溜息を吐く。綺麗に着こなせたはずの浴衣は汗ばんでなんだか鬱陶しい。結い上げた髪のおくれ毛がうなじにぺたりとくっついて余計不快になる。とりあえず、先ほど買った痛み止めとミニボトルのミネラルウォーターを交互に口に含みごっくんと胃に流す。


 後は痛みが収まるのを待つだけだ。早く戻らなきゃ、和樹さんやマスターが心配する。でも、足の痛みがこれ以上歩くことを拒否している。わたしって、ほんとバカだなあ。絆創膏も買えば良かった。…後悔先に立たず。もう一度、はあーと長い溜息を吐いて、真っ赤な夕焼けを見つめながらぼんやりする。

 痛みに負けないようにパンパンに膨らませていた気合いが、ここにきて、しぼんだ風船のように抜けて行く。


 ガサッ

 ガサッ

 ガサッ


 ふいに聞こえる物音。ポツンと街灯が灯るだけの薄暗い公園のなか、一人考え込んでいた頭が不穏に近づく音をキャッチした。背後から聞こえるのは人の気配だ。けれどどこか様子が変だ。足取りも息遣いも荒く、通りすがりの人間のものではない。ベンチで固まるわたしは目を見開く。


(ど、どうしよう。逃げた方がいい!? でもこの体じゃ猛ダッシュで走れない。周り……は人がいない。誰かに連絡する!? いや、携帯は店に置いてきちゃった。助けは呼べない。どうしようどうしよう!)


 気配がどんどん近くなる。

(怖くて振り向けない……だれか……)


 助けてほしい人はここに来るわけない。……わたしが拒否したのだから。

 そうこう考えていたら耳元かなり近くにハアッと生暖かい息の吐く音。ぞわりと震え上がった瞬間。

 突然、わたしの右肩に大きな手が触れて思わず飛び上がった。

「きゃあぁぁぁぁぁっ!」


「ゆ、ゆかりさんっ! 僕です! 和樹です!」

「あっ~~~!? ……か、かずき……さん?」

 涙目で恐る恐る振り向くと、先ほど脳裏に思い浮かべていた人がなぜか立っていた。


「な、あ……、え? え?」

「は~良かった……見つかって。ゆかりさん、とりあえず落ち着いて」

 宥めるように両手の平を向けている。いつもの微笑みは消えている。少し怒ったように真剣な表情、真っ直ぐな瞳、息を切らして上下する肩。額にはうっすら汗が滲んでいる。


「探しましたよ。いつものスーパーから喫茶いしかわまでの通りにいないから。しかも途中で常連のおばさま軍団に捕まって足止め食らうし。まあそのうちの一人がゆかりさんを見かけたと教えてくれたおかげで、ここに辿り着いたわけですが。それにしても随分、人気(ひとけ)のないところに来ましたよね。ここらへん、痴漢が出るから危ないんですよ。さ、帰りましょうか。……ゆかりさん?」


 わたしは俯いたまま。答えられずにいた。和樹さんがわたしの視線の先に気づく。こういうわずかな機微にすら、彼はとんでもなく聡い。

「ああ」

 と低い声で一言。

 それから、ベンチに固まるわたしの前にゆっくりしゃがみ込んだ。ジーンズのポケットから白いハンカチを取り出し、おもむろに縦に割く。ビリッビリッと細長い布切れになったそれを、わたしの赤く擦れた足元にそっと当てがる。


「えっ、いいです! いいです! わざわざそんなことしなくても! ハンカチがもったいないです……」

「いいから黙って」

 引っ込めようとした片足をぐいと掴んだ両手に包まれる。慣れた手つきでするすると器用に巻いて行く。素足に触れられることへの恥ずかしさと、ハンカチを駄目にしてしまった申し訳なさに顔をしかめる。やるせなくて胸がいっぱいになる。


「はい。これで鼻緒に直接当たりませんから、大丈夫ですよ。帰ったらちゃんと消毒してくださいね。ハンカチは安物ですし気にしなくて結構ですから」

「本当に……すみません」


 言いながら片方の下駄とわたしの足を持ち、ゆっくりと丁寧に履かせてくれる。片足を立たせて膝まづくその姿はさながらどこかの国の王子様のようで。沈みかけた茜色の光が彼の背に当たり、なんだか神々しくもみえる。その俯く前髪から見える伏せた眼差しに、図らずもときめいてしまう。ガラスの靴ではなく、小豆色の鼻緒の下駄だけれど。


「さ、帰りましょうか。近くのパーキングに車を停めてますから、家まで送りますよ。あ、ゆかりさんの荷物も勝手ながら持ってきましたから」

「えっ! なんでですか!?」

「なんでも何も。だからあれほど無理しないようにと言ったのに、聞かないんだから。強制送還します。自宅で大人しく寝てください。痛み止めで誤魔化しても生理中の女性に無理は禁物なんですよ」

「なっ、なぜ、それを」


「まったく。そもそも、どうして今日に限って浴衣なんて着てきたんですか。こうなることくらい予測できたでしょうに。身体を締め付ける格好をして立ちっぱなしでいればいくら痛みが軽くても負担になりますよ。僕は男だからどんな痛みかわからないし、言われなきゃわからないこともあるんですよ。言い出しにくいとは思いますが。体が辛いときは女性には生理休暇を取得する権利があるんですから。ゆかりさんが無理して頑張ったところで、僕もマスターも嬉しくなんかないですよ」

 一気にまくし立てられた。王子様は珍しくもご立腹である。恥ずかしい。バレていたのだ。痛み止めで必死に誤魔化していことも、こっそり薬を買っていたことも。


「わ、わたし……わたしが夏祭りの出店も浴衣を着て売り子するのも提案したから……いまさら和樹さんやマスターにできないなんて言えなくて……迷惑かけたくなくて。でも……結局、余計に迷惑かけてしまって。本当に……すみませんでした……」


 最後は泣き出しそうな声色になってしまった。自分がやると決めたことなんだから、ちゃんと責任持って果たさなければいけないのに。結局、余計な手間と迷惑をかけてしまった。


 「浴衣なんて」という一言が棘のようにグサリと刺さり、無意識に藍色の袖をくしゃりと握る。お母さんや友達に「大人可愛い!」って絶賛されたこの浴衣。痛くても頑張って着たのに。いくら外見を着飾ったところでこの真っすぐな目にはきっと通用しない。そんなことはわかっているけれど、いつも年の割に子供っぽいと揶揄されているからほんのちょっと見返したくて。五割増しとは言わないまでも、三割いや二割くらい、艶っぽさとか足されたらいいなあ、だなんて。わたしのなかの下心まで見透かされたようで……恥ずかしい、情けない、穴があったら入りたい。


 ふいに、ため息をついた和樹さんがゆっくり口を開く。

「失望しましたよ」

 冷たく言い放たれた言葉。いつもの穏やかな和樹さんからは聞いたこともない声色が、わたしの心に止めを刺す。シンと静まり返る。呆れられたのだ。何事にも穏やかで優しい彼に。自分勝手なわたしは愛想を尽かされたのだ。からだの血の気がサァーと引く音が聞こえる。いますぐ家に帰って泣き出したい。ギリギリと心が軋むのは、生理痛だからじゃない。けれど。


(……耐えるのよ、ゆかり。泣いたらもっと卑怯だから。とにかく謝るしかない)

「す、すみま」

「僕に。失望しました。これでも、ゆかりさんからは頼ってもらえてる自信があったんですが。些細なことは頼んでくれるのに。本当に辛い時……肝心なときは何も言ってくれないんですね」

「え……」

 遮られた言葉の声色に思わず顔を上げた。


「僕じゃ、頼りになりませんか」

 ひどく寂しそうな低い声がほの暗い茜色の辺りに響いた。眉を下げ困ったような顔がわたしを見上げている。

 朝からずっと心配してくれていた和樹さん。そんな顔をさせてしまったことが申し訳なくて、一気に罪悪感でいっぱいになる。


「違うんです! わたしが悪いんです! 和樹さんのことはすごく頼りにしてます」

「でも、僕が心配しても最後まで誤魔化していましたよね」

「ごめんなさい~!」

 反射的に思いっきり、これでもかという程深く頭を下げる。

「ゆかりさん」

「和樹さんにもマスターにもご迷惑おかけして。本当にすみませんでした~!」

「ゆかりさん!」

「はいっ」

 ビクリとして思わずピシッと姿勢を正す。


「もう、いいから。謝らないで。それに、ごめんじゃないでしょう」

「あ、え……」

「……言うべき言葉。なんですか?」

「あ、ありがとう……ございます」

「はい。どういたしまして」

 顔を上げれば、良くできましたと言わんばかりの微笑み。ようやく、初めて和樹さんが首を傾げていつもの笑顔を見せてくれた。これまでの緊張がやんわり解けてゆく。わたしは心底ホッとする。やっぱり、和樹さんの笑顔はわたしを安心させるのだ。


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