172-2 うわきぎわく(中編)
ふとスマホの画面を見ると、さっきから見ないふりをしていた和樹からの通知の件数に気付いてしまった。もう三桁は超えている。
そろそろ着信拒否にしようかと考えたとき、今度は部屋の電話が鳴り始めた。驚きつつも慌ててとると、「お客様がいらっしゃったのですが」とホテルマンが言う。
「それが、旦那様だと」
「え?」
ホテルマンは“旦那”に尋ねる。
「あの、お名前は……」
「石川和樹です」
ゆかりは間違いない彼の声に、さーっと血が引いて行く感覚が襲ってくる。
ホテルマンは小声でゆかりに話しかける。
「お客様、もしなにかありましたら、私どもが警察に通報を」
ゆかりは溜息をつきながら頭を抱えた。
もう逃げられないと、悲しくも悟ってしまったのだ。
「いいえ……。警察はもう十分です……」
「は? あ、申し訳ありません。お通ししてもよろしいですか」
「えっと……」
どうしよう、と回らない頭で考えていると、受話器の向こうからとんでもない会話が聞こえた。
「すみません。そろそろ通してくれますか?」
――ガチャッ。
ゆかりは彼の言葉を聞いて、思わず電話を切った。そしてTシャツを脱いで急いで着替えをはじめるしかなかった。寝間着姿では喧嘩に恰好がつかない。
和樹はどうしてここが分かったのか? 聞いても答えてくれるだろうか。言い合うビジョンを想像し、想像で半べそをかいていると、扉がノックされた。
「ゆかりィ!」
早い。とても早い。泊まっているのは二階ではないはずだが……。そしてそんな大声を出すのなら、今のノックはなんだったのか。
反射的にドアの前に行って開くと、ゆかりは彼を部屋に引っ張りこんで扉をしめた。
「え、入れてくれた……」
「声が大きいですよ! 夜なんですからね!」
「ゆかりさん! どうしてなんですか!?」
「だから、それを……ちょっと一人で考えたいです。今日は、帰って……」
「一緒に考えます。ここじゃだめです。帰りますよ帰るんです! 荷物は? これだね?」
ああもう、と、ため息をつく暇もなく、彼はあっという間に荷物をまとめると、その鞄たちを片手に持って反対の手でゆかりの手を繋いだ。
汗ばんで湿っているその手は、必死で探してくれた証拠だった。
あっけなく家出失敗だ。
この歳にもなって非行少女のように連れ戻されてしまった。車の中でせめてもの抵抗のように助手席側の窓を見ると、拗ねた子どもの出来上がりである。
「僕がゆかりさんと別れたいと思っている……と、そうリョウさんから聞きました」
膝の上でぐっと拳に力が入った。和樹の顔は見られない。
「どうして突然、家出なんか?」
「和樹さんみたいな人なら、他にいっぱい女性がいるだろうし、私じゃなくてもいいのかなって」
「ゆかりさん、本当のことを言って。僕のこと嫌いになった? なにを怒ってるの? 僕が本当に二股でもしてると思ってる? 悪いところがあったら直すし、そのために話し合おうって、同棲するときに決めたよね?」
「決めたけど……」
彼のすべてを受け入れたかった。
しかし彼の一番ではない女になることが、どうしても耐え難い。
「私は……和樹さんじゃなきゃ駄目なんです」
ゆかりの声が震えた。
「こんな醜いこと言ったらフラれると思ったから、冷静になりたくて。私、和樹さんと……別れたくないから逃げたんです」
「別れるわけないでしょう!? まったく、なにを考えてるんですか! 僕がフラれることはあっても僕にフラれることは絶対ありませんから! ああ、クソッ……」
車をコンビニの駐車場にとめて運転をやめた彼は自分のシートベルトを外すと、勢いよく助手席に向かってきた。なにをするのかと思えば、ゆかりのシートベルトをまたすっと解除する。そして長い腕で絡め取るように、ゆかりを抱きしめた。
「ごめん、怒鳴って」
落ち着きを取り戻した彼の声が、ゆかりの耳に響いた。
「僕が悪い。休みがとれなかったのが続いたり、デートすっぽかしたり、帰っても仕事漬けだったり……本当に不安にさせてた」
「その辺は了承してましたから、大丈夫なんですが」
「大丈夫じゃない。怒っても良いんですよ。ねぇ教えて、何が嫌だったのか」
彼の心臓が直ぐそばにある。彼の手も背中からゆかりの鼓動を感じているだろう。嘘はつけない。
「今日、和樹さんを見かけたんです。知らない女性と、歩いていましたよね」
「あ、あれは」
「仕事でしょ? 分かってます。家でも電話してましたよね。分かってるんです。和樹さんが浮気する人じゃないって。でもね、あんなに親しい人に見せる顔と、かける声を聞いちゃったら、私どうしていいのか分からなくなって。もし私が和樹さんを縛っているのならって……」
和樹は泣きながら話すことになったゆかりの背中を軽く叩きながら、しばらく間を開けてゆかりの顔を覗いた。
「つまり僕がその女性と? 浮気を?」
彼の少し面白そうな顔を見て、ゆかりは頬をふくらませた。
「馬鹿にして」
「馬鹿になんてしてないよ。うん、ゆかりさんが勘違いするのも分かったかもしれない」
「勘違い」
「そう……。分かりたくはないけどね」
彼の言葉の意味を飲み込むことができない。
「ゆかりさんが見た女性と僕は、恋愛関係にありません」
「仕事、でしょ」
「仕事でもない」
「え……。じゃあ、つまり、やっぱり」
「違う。なんて説明しようかな。良い人だっていうのは言っておきたいですね。あの人への誤解は解きたい。今日初めて会ったんですよ?」
「初めて、には、見えませんでしたよ。あの和樹さんがあんな緩んだ顔見せて……ぐすっ」
「まあそうかも。少し、ゆかりさんにも似ているせいかな? 少しですが。明るいところとか、一生懸命なところとか」
優しそうに「あの人」を語る彼のせいで、ふと奈落の底に落ちそうになったゆかりの意識を、和樹のハグが引き止める。
「ゆかりさん、そんな顔しないで」
「だって」
「ゆかり」
チュッと音を鳴らしたキスをされて、ゆかりの涙はさらに零れてしまった。彼はそれを舐め取って、低く甘い……ベッドの中でしか聞いたことが無かった声で、耳許で囁いてくる。
「僕には君だけだ」
車の中で鳴るはずのない水の音が、鼓膜を支配していた。
一緒に居られるだけで良いと思っていた。それなのに、どんどん強欲になっていく。浮気の一つにこんなに心をかき乱されるだなんて。惚れたものが負けと思っていたのに、それはどこに行ったのか。贅沢なものだ。
ふと彼が遠ざかると熱が奪われたようで、ゆかりは思わず和樹のYシャツを握る。そこに手が重ねられて、指一本一本に落とされる唇を、ゆかりはぽやんと見ていた。
かき混ぜられていた髪はぐちゃぐちゃだろう。その混ぜた本人が、手櫛でゆかりの頭を撫で整えていく。
「ここまでだな……」
ノースリーブのシャツのボタンは、いつの間にか四つも外されていた。それを外した本人の無骨な指が、下から留めていく。
「ゆかりさん、メイク道具ある?」
「一応」
「直した方が良いね。涙とかもろもろ。今のキスで口紅もないし。ちょっとコンビニで水買ってくるよ」
ゆかりは目を覚ますようにしてミラーを取り出し、崩れてしまった化粧を見て「ああ……」と嘆いた。彼が戻ってくるまでに直したい。急いであぶら取り紙を出し、ぱたぱたと抑え付けていく。
「パウダー入りのやつ持っててよかった……」
肌はこれで良い。アイシャドウは一色でグラデを作り、濃い色ではないリップを乗せて、そのリップをチークとしても使う。これでなんとか、彼とその辺の食事屋に入れるくらいの顔にはなったはず……。
しかしそんなこと言っていただろうか。
「ただいま」
和樹は運転席で袋を広げ、ゆかりにペットボトルを渡した。
「泣いた分、飲んで」
「ありがとうございます。すみません……」
和樹はまたゆかりの顔を覗き込んだ。
「うん、化粧してるね」
「直しましたよ」
「可愛いよ。まあ本音言うと、してないほうが好きだけど……」
そう言うと彼は、ゆかりの持っていたカバンに遠慮なく手を突っ込み、さっきのメイクポーチから以前、彼に贈られた練り香水を取り出した。
「塗って。お酒のにおい緩和されるから」
「え? あ、はい……」
言われるがままだが、なんだかおかしくないか?
ゆかりが首を捻っていると、和樹はスマホを見て、メッセージで連絡をとりはじめた。
また仕事かなと眺めていると、和樹がその視線に気付いてゆかりにニコッと微笑んだ。




