171 一握の夢
コーヒーの匂いがする。
この匂いは知っている。喫茶いしかわのコーヒーの匂いだ。
マスターのコーヒーは、大抵のことはそつなくこなせると自負している自分でも簡単にはいかない。蒸らす時間、お湯の量やタイミング。それらは観察した通りのはずだが、どうしても何かが違う。
マスターと同じ味を出せるのは、サイフォンコーヒーくらいだ。ドリップするよりも経験の差は出にくいそれに、年下の先輩店員は羨ましげに自分の手元を見つめることがよくあった。
大きな目はどんぐりのようで、つい最近「この前遥ちゃんにロリ顔って言われたんです。うぅっ」と納得できないように難しい顔をしていたゆかりだが、おそらくこういった子どものような純粋に輝く瞳のせいも多分にある、と僕は考えている。
「いいなぁ。私、サイフォンコーヒーだって、マスターと同じように出せるまで、二年はかかったんですよ」
和樹さんずるい、と、習って数週間の自分を見上げる目は分かりやすく「うらやましい」と書いてあった。文字通り裏表がない人間は希有な存在であろう。
「ゆかりさんは随分若い頃から教わっていたでしょう。習得に時間がかかって当然です。それに今のゆかりさんの淹れ方はとても丁寧ですよね。僕のは器用貧乏、と言うんです。ドリップコーヒーは、何がマスターと違うのか本当に判りませんから」
「そうですよね!? マスターと同じように入れてるはずなのに、絶対何か違うんです。それでね、わたし考えたんですけど」
ゆかりが口元に手を添えて、こちらへかかとを上げる。ぽこぽこと沸騰するお湯を見つめながらはいはい、と体を少し横に倒してゆかりの口元に耳を寄せた。近付く清潔感のある香りと、コーヒーの匂いが混ざる。それはゆかりに染みついている香りなのだと気付いた。
普段は恋人と誤解されることや誤解からくる炎上をやたらと気にするくせに……こういうところ、脇が甘いんだよなあ、と思ったことは口にしない。
ゆかりはとっておきの秘密を打ち明けるように素早く左右に視線を走らせてから、真剣な口調で囁いた。
「……マスター、コーヒーの魔法使いなんじゃないかと思うんです」
まほうつかい。
思わず吹き出すと、ひどい! さすがにそりゃないよなって判ってますけど! とぷうっとむくれたゆかりが背を向ける。咳払いをして笑った衝動を押しやってから、それでも気が抜けて緩んでしまう頬を揉みながら、すみません、と華奢な背中に声をかけた。
「ゆかりさん……」
「はい、なんですか和樹さん?」
どこかくすぐったそうに笑いながら囁くように応えた声に、はっと意識が戻る。
「……ゆかりさん?」
「あは、目が覚めましたね」
そこは、喫茶いしかわのカウンター席だった。
和樹はシャツにジーンズといったラフな姿ではなく、着慣れたスーツに身を包み、喫茶店の同僚ではなく客として座っている。カウンターのテーブルに肘をついてそこに顎を載せたまま、一瞬睡魔に意識を攫われていたらしい。
ゆかりはその一瞬の間で見た夢より少し大人びた顔で、秘やかに笑う。
「ふふっ。寝ぼけてる和樹さんなんて、随分と珍しいものを見ちゃいました。かなりお疲れですね」
「あー……いや、ごめん」
「いいんですよ。でもお休みはちゃんと取ってくださいね。居眠り運転とか心配だし」
そう言いつつ、いつものコーヒーのおかわりが目の前に差し出される。近付いた白い指先からの香りは、夢と同じ匂いがした。
今回も短いです。
なんとなく、邯鄲の夢とか一握の砂とかをぼんやり思い出しましてね。
そのへんのイメージやキーワードをこねくり回したら、こんなのができあがりました。
ちなみに今回の設定は、ランチタイム終わりにお店に飛び込んできた和樹さん。
ランチして(居眠りして)コーヒーおかわりして、飲み終わる頃に子供たちが小学校から帰ってきて。
「ただいまーっ! あっ、お父さん!」
って子供たちのハグで元気をチャージして、お仕事もうひと頑張り……というのを考えてました。
天使ちゃんたちにおずおずと
「今日はお父さんに“おやすみなさい”できる?」
って聞かれて、当日締切の経費精算やら報告書やらを短時間で仕上げるのに必死です。




