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徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


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169 あなたの表情

 彼を中心に世界がきらきらと輝いて見える。



 良くも悪くも平々凡々を地で行くゆかりの世界をきらめきいっぱいに塗り替えたのは、二ヶ月前から付き合い始めた年上の恋人の存在だった。

 ゆかりの恋人はかなりハイスペックな人である。付き合いに至るまでの過程は我ながらなかなかにドラマチックだったと思いはするけれど、今回は割愛させていただく。


 彼と恋人同士になって二ヶ月。彼の仕事が多忙なこともあって、それらしいデートの回数は付き合いたてのカップルにしてみれば少ない方かもしれない。なかなか時間が作れないことはお付き合いスタート時に聞いていたからゆかりはまったく気にしていなかったのだけれど、彼の方はそうでもなかったらしい。


「二日間の休みができました。どこか行きたいところはありますか? 海外は難しいですが、国内ならどこでもいいですよ」

 とやや食い気味に尋ねられた。これでも彼の多忙っぷりは知っているので

「一日はゆっくり休んでください」

 と提案した。そうすると

「僕の休息にはゆかりさんが必要なんです」

 と断言されてしまったので引き下がった。そうして、ゆかりが真っ先に思い浮かべたのはベタなデートスポットだったのである。



 ◇ ◇ ◇



 ゆかりがお付き合いを始めた和樹は言動だけでなく、女性の扱いにもそつがなく非の打ち所がない男だ。

 二人のデート先はゆかりのリクエストによってワンダフルパークに決まった。彼の素早い手配によってオフィシャルホテルに一泊二日し、二日間通して遊園地を全力で楽しむ日程である。

 エスコートも完璧だった。

 アトラクションの位置関係はすべて頭に入っているらしく迷うことはないし、アトラクションの混雑具合もスマホのアプリを駆使して把握。それに、コアなファンにしか知られていない二時間おきに噴水が出る広場だとか、園内のイルミネーションが全点灯するタイミングまで知っていた。塔の上から一望のもと見渡したワンダフルパークの夜景は絶景だった。昼食と夕食はゆかりが行きたいと思っていたレストランが当然のごとく予約されていて、並ぶことなく食事をすることができた。


 そして本日はワンダフルパーク二日目。

 何から何まで完璧な彼は、やはり彼は今日もスマートな振る舞いを続けていた。

 誰が聞いても羨む素敵な彼氏だと思う。それなのに、そう思えば思うほどゆかりの気持ちは徐々に塞いでいくようだった。

 だって、和樹の好意にゆかりは何も返せていない。自信はないが唯一できているであろうことは、彼の優しさにただただ無邪気に喜ぶことくらいか。


 何かしたいと思うのに、彼はゆかりの何歩も先を読んでいてすべて不発に終わってしまう。彼といると誰と過ごすよりも楽しいし、ずっとこの時間が続けばいいと思う。でも、それと同じくらい彼がつまらない思いを抱いていたらどうしようと考えてしまう自分がいるのだ。


 これから二人はワンダフルパークのマスコットキャラクターであるワンダー&ダッフルのビッグバンドショーに行くことになっている。ショーの前にお手洗いを済ませたゆかりは彼の元に向かっていた。

 長身でスタイルのいい和樹は人混みの中でも目立つ存在だ。紺色のカットソーに細身のデニムというシンプルなスタイルなのに、なぜあれほど様になるのだろう。凡庸な自分が横に並ぶには勇気が要するけれど、彼のことが好きなのだから戻るしかあるまい。すぐに駆け寄ろうとしたゆかりは、彼のとなりに美しい女性がいるのを見つけて足を止めてしまった。


 彼らが笑顔でやり取りをしているのを目にしたゆかりは心許なくなってその場を離れた。和樹がナンパをしたわけでも、されたわけではないことはわかっている。彼の手には女物の財布が握られていた。あの綺麗な人に返すつもりだったのだろう。ゆかりがぺんぺん草ならば、和樹に財布を拾われた女性は手塩にかけて育てられた薔薇といったところだろうか。


 デフォルメされたかわいらしいワンダーが乗っている柵にもたれかかったゆかりは溜まりに溜まっていた溜め息を肺の底から吐き出した。ここはアトラクションとアトラクションの間にある小休憩が取れる穴場だ。ガイドブックのほんの片隅に掲載されていた情報なだけあって、ゆかり以外誰もいなかった。

 誰もいないのでもう一度大きく息を吐き出した。嫌なことばかり考えてしまう自分の気持ちを落ち着かせたくて。早く彼の元へ戻らなければと思うのに、戻りたくないとも思ってしまう。


 和樹の告白を受け入れた時からずっと疑問に感じていたことだけれど、彼はゆかりの一体どこに惹かれたのだろうか。

 ゆかりには目立った特技は特にない。強いて挙げるとするならば喫茶店勤務で鍛えられた料理の腕前か。でも、その唯一の強みすら和樹の前では霞んでしまう。なんたって彼は料理の腕も一級品なのだ。


「そろそろ行かないとショーが始まっちゃいますよ」

 いつの間にか俯いていたらしいゆかりの上から落ちてきたのは落ち着いた優しい声音だ。いつまでもトイレから戻らない恋人に焦ってもいなければ苛立った様子も感じられなかった。

 すぐに和樹の元に戻らなかったのが後ろめたくておずおずと顔を上げてみると、彼は優しい声と同じく穏やかな顔をして笑っていた。心なしか機嫌が良い気さえする。


「何でここだってわかったんですか?」

「言ってませんでしたっけ? 僕、横目で一八〇度以上見渡せるんですよ。戻ってきたゆかりさんが僕に遠慮して離れていったのが見えたので追いかけてきたんです」

「初耳です……」

 何だその一般人には到底備わっていない能力は。ますます彼とのスペックの差を感じて、もう取り繕えなくなるほど気持ちが鬱屈していった。

 和樹は恋人の変化に気づかない鈍い人ではない。和樹はゆかりの手を引いて立ち上がらせると心配げな顔を見せた。


「疲れちゃいましたか?」

 気づかいに心がほぐれるどころかみるみる萎んでみすぼらしくなっていくようだった。笑いたいのに上手く笑えない。笑顔すら浮かべられなくなってしまっては、今度こそ彼の心は離れていくかもしれない。

「ゆかりさん?」

「なんでもないです。ショーもうすぐですもんね! 行きましょうか!」

「待って」

 ショーの会場のホールに向かって歩き出そうとしたゆかりの腕を和樹がすかさず掴んだ。


「何か思っていることがあるなら言ってください。何でも聞きますから」

 誠実で切実な和樹を振り切ることはゆかりには無理だった。どろどろに濁った想いを全部ぶちまけて楽になりたかったのもあるかもしれない。たとえ、彼との関係が続けられなくなっても。


「――きっと、めんどくさい奴だって思いますよ」

「そう思うかどうかは僕が決めることだ」

「……」

「それに、こうやってゆかりさんと距離を感じてしまうほうが、僕はごめんです」

 そう強く断言されては誤魔化しきれない。

 遅かれ早かれ伝えなければ、彼との関係は破綻してしまうだろう。ゆかりはついに腹を括った。


「……和樹さんが私のことを好きになってくれた理由がいくら考えてもわからないんです。和樹さん、イケメンさんだし性格も爽やかだし……頭だっていいし。女性のエスコートだって完璧で。そんな和樹さんのとなりにいるのはせっかくのデートなのに大して着飾ってないTシャツとデニム姿の平凡な女で。さっき和樹さんが落とし物を拾ってあげた女の人みたいに綺麗だったら、もう少し考え方も違ったかもしれないですけど……」

 ゆかりが胸の内を語れば語るほど、和樹は驚いたような顔を見せた。やはり、ゆかりの身勝手さに呆れ返ってしまったのだろう。ゆかりはあまりの羞恥心にこの場から走り去りたくなった。


「テーマパークを楽しむなら、デニムとスニーカーで十分ですよ。それに、よく似合ってる。好きですよ、そのコーディネート」

 本心から言ってくれているのだろう。それでなおさら居たたまれなくなってしまうなんて、ゆかりの劣等感は想像以上に根深いらしい。あまりの情けなさに涙まで滲んでくる始末だ。


「和樹さんがくれた言葉だけで充分だと思いたいのに……たぶん私、どんどん欲張りでワガママになってるんだと思います。やっぱり、和樹さんの重荷になる前に、私たちは一度距離を置いた方が……」

 不意に口をついて出たゆかりの本心は、言い切る前に途切れた。頬を両手で包まれたかと思えば、ぐいと持ち上げられて、言葉と呼吸が塞がれたのだ。

 拒絶や軽蔑されるどころか、和樹から与えられたキスはこれまで交わしたものよりも情熱的で、何よりひどく優しかった。


「ゆかりさんの本心なら、いつだって喜んで聞きますよ。頼ってくれるなら、全力で応えます。だけど、僕から離れていくのは……許しません」

 唇を離した和樹は至近距離でゆかりの瞳を覗き込む。

「絶対に、許さない」

 和樹は(まなじり)を決していた。涼しげな色をしているはずの和樹の瞳の中で、ゆかりの知らない熱量を孕んだ焔がチラチラと燃え盛っている気さえした。


「ゆかりさんがたとえ嫌だと言っても……もう二度とこの腕から離してはやれそうにない」

「で、でも……」

「それ以上同じことを言うなら、また口を塞ぐから覚悟して」

「――っ!」

 和樹らしからぬ強引な物言いにゆかりはビクリと肩を揺らした。予想外の和樹の言動にいつの間にかゆかりの涙は引っ込んでしまっている。それを見た和樹は目を細めると、まるで繊細なガラス細工でも触るかのようにゆかりの頬をそっと撫ぜた。

 それは、大切にされているのだとゆかりを自惚れさせるには充分な仕草だった。


「かわいいな」

「……へあっ!?」

 自惚れがまさかの現実となり、ゆかりは素っ頓狂な声を上げた。「かわいいな」と言われたことに驚いた形をしたままのゆかりの唇に和樹のそれが再び覆うように重なる。啄ばむように唇が降ってきたかと思えば、後頭部をぐっと抱え込まれた。逃げ道を断たれてゆかりが戸惑う隙に、彼の舌がするりと滑り込んでくる。驚いて逃げても、追われては吸われ、まともな息継ぎさえ許してもらえない。


 ――もう、止めよう。不安な気持ちを抱え込んでしまうのは。


 甘く長いキスに翻弄されながらもゆかりは思った。いつだって、真正面からゆかりと向き合ってくれる和樹を疑うことはもう止めようと。

 言葉と行動のすべてでゆかりのわがままに応えてくれている和樹の想いを疑い続けろというのが、どだい無理な話だったのだ。よくよく思い返せば恋人同士になる前からそうだったのだ。ゆかりが一人で抱え込んで勝手に不安になって劣等感に苛まれていただけだ。

 ゆかりは、ようやく素直になって和樹の背中に両腕を回した。すると、吐息を零すようにして和樹が笑ったのがわかった。それで胸が痛くなるほどわかった。和樹も、ちゃんとゆかりのことを想ってくれているのだ。


「僕は、あなたが好きだ」

「……うん」

 心行くまで堪能したのか、口づけを止めた和樹がゆかりに笑いかけてくれた。ゆかりも、和樹の言葉に神妙に頷いた。


「ゆかりさんは俺が完全無欠のように見えてるみたいですが、ゆかりさんが思うような清廉潔白な男ではないですよ」

「……え?」

「言ったでしょう? 横目で一八〇度以上見るスキルがあるって」

「言ってましたね」

「さっきゆかりさんがどんな顔をして僕から距離を取ったかわかりますか?」

「わからないです」

 嘘だ。本当はわかっている。嫌な顔をしていたに違いない。彼のとなりに立つに相応しい美貌の女性に対して嫉妬して歪んだ不細工な顔だ。


「俺のことが好きで好きでしょうがないって顔ですよ」

「それ、絶対錯覚ですよ」

 せっかく和樹がなだめてくれたというのに即答で真っ向から否定してしまった。しまったと思ったが、覆水は盆に返らない。さすがの和樹も心外だと言わんばかりに眉をひそめた。


「そこまで言うのなら教えてあげる。俺がどれほどゆかりのことが好きか」

 そう言うと、和樹はゆかりの耳元へ唇を寄せる。語られるのはゆかりの容姿、性格、何気ない仕草、ゆかり自身が無自覚だった癖の数々。一切のよどみもなく滔々と、枚挙に(いとま)がないと言わんばかりに。それこそショーが始まる直前まで和樹からの告白は続いたのだった。

 頬だけでなく全身が燃え出しそうなほど熱を帯び、恥ずかしくて仕方ない。でも、それを心底うれしく思ってしまうなんて。



 恋とはとかく面倒で、ままならないもので、それでいて単純なものである。


 ゆかりさん側のジェラシー話……なんだけど、結局和樹さんの独占欲話にすりかわってしまったような気が。


 ワンダフルパーク。もちろん架空の遊園地?(レジャーランド?)です。一応、ざーっと調べてみてもそういう名前の常設施設は出てこなかったから、まあ大丈夫かなと。

 単発(期間限定)のペットランド的なので使ってた記録は出てきましたけどね。


 もっとそれらしくて良い名前あったら、こそっと(してなくていいけど)教えてください。

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