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徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


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167 if~ふたりともガッツリ自覚がある両片思いな場合の再会シーン~

 喫茶いしかわが恋愛ジャンルなら、再会エピソードはこっちのルートを選んでたかもしれません。

「すみません。その、今つけていらっしゃる香水。それ、何ていう香水ですか?」


 突然の雨。傘を持たずに喫茶いしかわへ駆け込んで来たOLさん。タオルでもお貸ししましょうか、と近付いたとき、私はふわりと懐かしい匂いを感じた。そうして気付けば、そう尋ねている。

 彼女は少し戸惑いながらも、親切にその名を教えてくれた。家に帰って早速調べてみれば、それは海外製の、高級ブランド品だった。高貴で、甘すぎない、クールな香り。


 OLさんはとても美しい人だった。これを身に纏う人は、皆美しい人なのだろう。かつてあの人に移り香を残した誰かも、きっと。ただの仕事相手だと、彼は私に説明していたけれど、もしかしたら単なる誤魔化しであったのかもしれない。

 1年以上も前に喫茶いしかわに姿を見せなくなった和樹さんは、時々、ほんのりこの香りを身に纏っていた。彼の私生活を垣間見たような、懐かしい、切ない香り。


 決して安くはないそれを、私は迷わず購入した。携帯画面に映る購入ボタンを押してから、それが私の元へ届くのに、一週間とかからなかった。

 喫茶いしかわが休みの今日。私は窓の外を見る。ここのところずっと天気は崩れがちで、生憎と、どんよりした空に雨垂れの音が響いていた。

 それでも、私は出掛けることにした。今日実行するって、ずっと決めていたのだ。濃いめのルージュを引いて、高いヒールの靴を履いて。胸元の開いた、シンプルなVラインワンピースに、ゴールドのイヤリングとネックレスをつけて。仕上げに、香水を身に纏う。そうして、家を出た。


 出掛けてすぐ、自分の身なりとは不釣り合いに幼稚な花柄の傘の、そのアンバランスさに恥ずかしくなる。ああ、傘までは気が回らなかった。そもそも、雨が降るかもしれない、なんて予想をしていなかった。ずっと雨続きであったのに、そんなことにも気付かないなんて、やっぱり私は完璧にはなれないのだ。完璧な、彼に見合うような女の人にはなれない。

 だからきっと、彼は姿を見せてくれないのだ。あれから一度も和樹さんは喫茶いしかわを訪れてはくれない。私がもっと美しかったら。賢かったら。彼に釣り合う、それだけの自信があったなら。引き止めることができたんじゃないか。去る彼をただの喫茶店の看板娘として送り出すことしかできなかった私は、未練を引き摺るように、今更になってこんな馬鹿なことをしている。

 今の私は、少しでも、彼の隣に並んで遜色ない女性に見えるだろうか。


 行くあてがあるわけでもなく、私は街を、ただ歩く。身の丈に合わない格好をしている気恥ずかしさは、次第に吹っ切れた。自分の匂いというのは、よく分からないものだ。それでも、歩を進める度に、私の後ろへ私の纏った香りが帯を引いて付いてきているような気がした。

 彼が初めてこの香りをつけて喫茶いしかわへ来たとき、思わず想像したお相手の姿は、モデルのようにすらりとした長い手足で、長く艶やかな髪を靡かせた美女だった。彼が弁解したその関係性をすぐに信じたのは、私がそう望んでいたからだ。特別な人であってほしくない、という思いが、私を愚直にした。

 でも、もしかしたら今も、その人と彼は一緒にいるのかもしれない。私の知らないところで、私とはもうまったくの無関係になってしまった和樹さんは、この香水の香りがよく似合う彼女とは今も逢瀬を重ねているのかもしれない。

 美しい人が纏う芳しい香りは、きっと金粉のようにきらきらとして、空中に散り、彼女の後にはその金の粉がいつまでも残り香として漂うのだろう。


 今の私が残すのは、どんな色だろう。同じ香りを身に纏って、しかしこんな卑屈な心で歩く私の残り香は、どんな香りだろう。悲しいブルーだろうか。滑稽なピンクだろうか。香水なんて滅多につけないものだから、つけ過ぎているかもしれない。芳香ではなく、悪臭に成り果ててはいないだろうか。

 擦れ違う人々の表情が気になる。でも、こんな雨の日は、皆傘の中にその顔を隠している。平日であるし、こんな悪天候の為か、そもそも道行く人が少なかった。雨で色彩の褪せた街を、私はひたすら歩く。


 やがて、道は二手に分かれた。さして迷わず、私は左へ折れる。大きな通りからどんどん離れていくのが分かった。また、分かれ道。ぐねぐねと歩いて、いつしか上り坂となった道を進んで、両脇には民家ばかりが並ぶそこを頂上まで行けば、突然神社が現れた。境内は閑散としていて、誰もいない。

 目的地なんて決めていたわけではないけれど、ここがゴールだ、と思った。石製の鳥居をくぐって、白い石畳を歩く。ハイヒールの音が静かに響いた。

 行き着いた先が神頼みだなんて、なんだか笑えてしまう。振り向いてほしい、なんて高望みはしないから。どうかもう一度、会いたい。それくらいは願ってもバチは当たらないだろうか。それとも、それすら諦めて、どうかこの未練を断ち切れますように、とお祈りした方がいいだろうか。


 随分と古びた賽銭箱へ小銭を投げ入れれば、ちゃりん、と音がする。

 どこにいるの。何をしているの。お元気ですか。

 主殿の前で手を合わせ、けれど私がしたのは祈りでも何でもない、ただの問い掛け。ううん、これはお願いなのかもしれない。私が今もこうして彼を思っている、この声を、どうか伝えてほしい、だなんて。少し、酔狂が過ぎるかしら。

 じゃり、と砂石を踏み締める音がした。誰か参拝に来たみたい。鈴緒の前に陣取っていた私は、そっと脇へ避ける。このまま少し境内を散歩して、帰ろうと思った。


「……ゆかりさん」

 後からここへ来た、その“誰か”が私を呼ぶ。


 すっかり自分の世界へ入り浸っていた私は、今の今まで相手の顔を確認していなかった。

 天変地異でも起こったかのように、声もなく心臓を跳ねさせて、私は隣に立ったその人を、傘をそっと上げて見上げる。

「か、和樹さん?」

 大きな、透明のビニール傘を手に、そこにいたのは想い人。今しがた、私が“声を届けて”と願った人。こんな偶然って、あるの?


「すみません。ずっと後を尾けていたんです。ゆかりさんの様子が、何かいつもと違ったから……どこへ行くのか、気になって」

「ずっと? ずっとって……」

「街なかであなたを見かけて。そこから、ずっと。……どうしてここへ?」

 彼は主殿を仰ぐ。黒ずんだ木製の大きな屋根に、濡れそぼった注連縄。


「何となく、です」

「何となく?」

「それより、お久しぶりですね、和樹さん」

 私が笑うと、彼は顔をしかめた。私の目から口元、首筋、そうして胴体を通って足元まで、ゆっくり視線を落としていく。そうしてぱっとまたこちらを向いた。


「何だかいつもと格好が違いますね。ゆかりさんがそんな色の口紅をしているの、初めて見ました。そんな靴も、そんな服も。……それに、その香水」

 一歩、彼が私に近付く。私の持つ傘の上へ、彼の傘が少し重なった。


「どうしてそれを?」

「あ、やっぱり分かります?」

 彼は何かと敏感な人だから、私が身に纏っているこの香りが、過去に彼が移り香として漂わせていたものだと気付いたようだ。どうしてそんな顔をするのだろう。彼はますます眉間に皺を寄せて、何だか、責められている気分。


「前からいい匂いだなって思ってて。ちょっと奮発して買っちゃいました」

「……それで、そんなおめかしをして。なぜ神社に?」

「失恋をしたので。神頼みに来たんです」


 突然現れて訳も分からず不機嫌な彼に、私の言い訳も随分と適当になる。もしかしたらこれは幻なんじゃないかしら、なんて思うくらい、雨の中でのこの再会は神秘的だった。神社、なんて場所にいるせいかもしれない。


「……失恋?」

 低い声。和樹さん、そんな声も出せるんですね、なんて能天気なことを考えるのは、きっと私の思考回路が鈍っている証拠だ。


「はい。失恋しちゃって。こんな格好をしているのも、その人に少しでも見合うような女の人になれたらって思ってたからで。色々考えながらここまで来たんですけど、でもやっぱり、私には無理みたい」

 随分と歩いたから、爪先や踵が痛い。スニーカーでくれば良かった、なんて坂道を上りながら考えた私は、素敵なレディにはなれそうもない。


「失恋って、誰に?」

「……それは、秘密。言えません」

「どうして?」

「だって、言ったら告白になっちゃうもの」


 どんなに背伸びをしても無駄だって、今日、歩き続けて分かった。

 私はやっぱり私以外の誰かにはなれなくて、彼に釣り合うような完璧な女の人にはなれない。こんな格好をしても。まるでコスプレをして、街を歩いているみたいだったもの。だから、吹っ切れたから、ここで盛大にもう一度失恋しようと思った。そうして今度は私らしく、私のままでいられる恋をするの。

 和樹さんは不可解なことを聞いたような顔をする。眉を寄せたまま首を傾げて、溜め息を、一つ溢した。


「一つ、伺っても?」

「あ、はい。どうぞ」

「失恋したと仰いましたね」

「はい」

「……僕に?」

「……ええ、そうです。和樹さんに」

 なんて答えにくいことを尋ねてくるのだろう、と思った。でも、彼があまりにも真面目な顔をしているから、自棄になって頷く。するとまた溜め息が聞こえた。


「……良かった」

「えっ」

 不意に彼の顔が綻ぶ。それはもう、さっきの不機嫌顔なんて跡形もなく、うっとりと。あまりにこれまでの流れから逸脱したようなその表情の変化に、私は話が通じていないのかしらとさえ思う。


「え……良かった、ですか?」

「はい。良かったです」

「……何が」

「幾つか訂正したいことが」

「何でしょう」

「あなたは“その人に見合う努力を”と言いましたが、まず、僕はその匂い、好きじゃない」

「……はあ」

「それに。そんな努力、あなたには必要ない」

「……そうです?」

「はい。僕はそのままのあなたが好きです」


 これは私を傷付けないための、彼なりの慰めなのだろうか。申し訳ないけれど、ちっとも嬉しくなんてなかった。今度は私が眉間に皺を寄せる。


「はい。次からは、そう言ってくれる人を見付けようと思います」

「それならちょうどいい。今、目の前にいるじゃないですか」

「どこに?」

「ここに」

「私の目の前には、突然音信不通になって、これまで一度も顔を見せてくれなかった薄情な元常連客しかいません」

「あなたの目の前にいるのは、あなたをどうしても忘れることができなくて、ここまであなたを追いかけてきてしまった男です」

「……え?」


 ひやりと冷たい、大きな手が、脇へ垂らした私の手を取った。そしてそのまま、ぐいと引き寄せられる。傘と傘がぶつかって、私は咄嗟に柄を握っていた手を離した。私の傘も、彼の傘も、後方へくるりと落ちる。気付けば私は彼の腕の中にいた。


「えっ、なに、和樹さ……」

 その抱擁はどちらかと言えば不恰好なもので、決して優しくはなく、寧ろ苦しくて少し痛かった。それを彼に訴えても、彼はまったく力を緩めてくれない。強く抱き締めたまま、私の髪に、思い切り顔を埋める。


「やだ、和樹さんってば」

「すみません。あんまり、嬉しくて」

「う、うれしい?」

「だって、こんな格好。誰かに会いに行くのかと思うじゃないですか。それが、こんな、神社なんかに来て。思い詰めた顔をして。失恋した、なんて言われて。僕が知らない間に、あなたが誰かのものになってしまったのかと思った」


 まるで愛の告白をされているみたい。霧状に変わった雨が、彼の高そうなスーツをしっとりと濡らしていく。私の、今日のために奮発して買ったワンピースも、濡れていく。身に纏っていた香りが、流され落ちていく。濡れた私の髪から漂っているのは、愛用のシャンプーの香り。


「……こんな香水なんかより、ゆかりさんの匂いが僕は好きです」

「シャンプーの匂い?」

「どうでしょう。たぶん、違う」

「この香水が似合うような人に、なりたかったの」

「さっき言ったでしょう。そんな努力、必要ない。昔の仕事相手を思い出すので、僕は嫌ですよ、この香水」

「本当に仕事相手?」

「そう言ったはずです」

「だって、私……」


 なんだかいっぱいいっぱいになってしまって、言葉がたどたどしくなる。それでも精一杯、話そうとした私の口を、彼の唇が塞いだ。びっくりしているのに、私は簡単に目を閉じる。雨音が、心地良い。


「まだ、訂正が」


 何度も啄むようなキスをした後で、おでこを合わせて彼は囁く。濡れた私の髪を指に絡めて、額を擦り合わせながら、彼が話した真実に驚く私の声が、重厚な社に反響する。


 雨はいつの間にか上がっていた。

 なんだかんだあってさよならしたけど……な恋愛映画のエンドロールっぽいものを目指してみたらこうなりました。


 まあ、喫茶いしかわは和樹さんに捕獲される前のゆかりさんを恋愛ポンコツな一級フラグ損壊士に設定してしまったので、このルートはなくなったんですけどね。


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