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徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


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165 コーヒーと夕焼け

 まだ初々しくお付き合いしてた頃のゆかりさんと和樹さんのお話。

 シフト勤務のゆかりと、仕事ひとすじ二十四時間戦う男になることも辞さない和樹。そんな二人の休日が偶然に一致するのは珍しい。

 ふたりは、恋人同士としては新米同士。過ごせるのは半日だけとか、夜に仕事を終えてからの数時間とか、出勤前のひとときとか。とても十分とは言えないけれど、わずかに重なった時間を分け合うように過ごすのが、二人にとっては当たり前のようになっていた。


 せっかくの休日。あれもこれもと欲張りたい気持ちを抱えつつ、和樹はスマートフォンを手に取った。

 電話をするには少し早いかもしれない。だが、喫茶いしかわの営業日なら、ちょうどモーニングの提供が始まる時間帯。そろそろお腹を空かせたゆかりが起き出す頃合いじゃないかと狙いを定め、慣れた手つきで彼女の番号を呼び出す。コール音は二回目が鳴り終わる前に途切れた。

「おはようございます、ゆかりさん。もしかしてまだ寝てた?」

「おはようございます、和樹さん。大丈夫、起きてましたよ。今ね、朝ごはんどうしようかなって冷蔵庫を開けようとしてたところ」

 和樹が睨んだとおり、ゆかりは朝ごはんの支度に取りかかったところだった。


「今日、僕、休みになったんです」

「えっ、ほんとに? 私もおやすみなの」

「うん、知ってる。だからね……」

「会いたい! 私、和樹さんに会いたいです」

「良かった。僕も君に会いたいんだ。会いに行ってもいい?」

「はい。コーヒーの用意をして待ってますね」

 和樹もゆかりも、起き抜けでもすぐに動けるほうだ。和樹は会話を続けながら愛犬の朝ごはんを用意して、自身は身支度を整える。


 行きたいところ、したいこと、してほしいこと。

 僕にできることなら何でも叶えるからと囁く和樹に、ゆかりは声を弾ませて、だが穏やかに答えた。

「たまにはふたりでのんびり過ごしましょうよ」

 それが一番の贅沢だと付け加えられれば、己のことには鈍い和樹にもさすがにわかる。

 穏やかな笑顔の下に、ゆかりが寂しい思いを包み隠してきたこと。それを和樹に悟らせないように、気を張ってきたのだということ。


 和樹の中に広がりかけた痛みは、少し甘えた声のゆかりの「今日は和樹さんを独り占めしてもいい?」の言葉に吹き飛ばされた。ああ、電話じゃなかったら、この腕の中に閉じこめて全身でOKの気持ちを伝えられるのに。

 少しでも早く彼女に会いたい、あの笑顔をこの目で見たい。

 和樹は愛車の鍵を鷲掴みすると、愛犬に見送られながら家を飛び出した。


 仕事で忙殺されることの多い和樹にも、不意に予定がなくなることもある。それが今日だ。

 突然の空き時間をどうするか。

 その過ごし方を、以前の仕事人間だった和樹ならおおいに迷っただろう。迷った挙句、ジムに行って体を動かすか、買ったまま溜め込んだ書籍に手を伸ばすか、山盛りの鰹節を使って出汁を取るか……全部、自己完結することばかり。

 和樹が仕事人間なのは今も変わらない。しかし、今の和樹には、先に挙げた事例とは趣がまったく異なる空き時間の活用法がふたつある。ひとつは愛犬の散歩に行くこと。もうひとつは現在実行中。愛車のハンドルを握る手に、自然と力が入る。


 会いたい人がいて、会いに行くことができる。

 それがどんなに貴重で特別なことなのか、いくつかの永遠の別れを経験してきた和樹にとっては、闇の中をさまよう心に一筋の光が差した瞬間だった。

 会いたい人――ようやく友達から一歩前進したばかりの恋人、ゆかりが隣で笑っていてくれたら、どんな困難も乗り切れる。こんなにも穏やかな時間を感じる日が来るなんて、人並みの幸せを享受できる日が来るなんて、少し前の和樹は信じなかっただろう。



 ◇ ◇ ◇



「ほら見て、和樹さん。きれいな夕焼け!」

 一歩先を歩いていたゆかりが、くるりと振り返って和樹に微笑みかけた。ゆっくりと歩く二人の行く手には、今、まさに沈みゆく夕日が一日の終わりを告げようとしている。

「うん……きれいだね」

 茜色、白、薄青。最後の最後まで地上を照らそうとする太陽が、空を赤く染め上げる。彼女がきれいだと言わなければ、和樹の目にはただの自然現象としか映らなかっただろう。


 秋分の日を過ぎれば、日の出は少しずつ遅くなり、日没時間は刻一刻と早まっていく。そこからさらに二ヶ月、十一月後半を迎えた今、十七時にはもう真っ暗になる。季節は秋を通り過ぎ、本格的な冬の入り口はもうすぐそこまで迫っていた。

「前に二人で買い出しに行ったときに見た夕焼けも、すっごくきれいだったなぁ。覚えてます?」

「覚えてるよ。あの頃のことは全部、ここにある」

 忘れるはずもない、と和樹は柔らかい光を瞳に灯して、そっと胸に手を当てた。


 喫茶いしかわに通わなくなれば、彼女のことも、居心地が良すぎたあの店のことも、いずれ記憶から薄れていくだろう。和樹自身、そう信じて疑わなかった。

 今までだって、そうやって生きてきたじゃないか。だから今回もきっと同じようになる――はずだったのに。日が経つにつれて、写真のように鮮明に思い起こされる日々。その中心にはいつも彼女がいた。

 いらっしゃいませと客を出迎えるときの元気溌剌な笑顔。

 怪我を隠していたことがバレたときの泣きそうな顔。

 賄いを食べるとき見せる美味しい顔。

 思い出として封印することが、どうしてもできなくて。その結果、彼女の隣にいる。

 昔の自分なら考えられなかったが、今の自分自身のことを、和樹は案外気に入っている。


 視線を落とすと、夕日に照らされた彼女の丸い額と、甘く下がった目尻が和樹のほうを向いていた。夕日を見ていると思ったから、少し意外で。

「なに? 僕の顔に、何か付いてる?」

「ううん、そういうわけじゃないの。ただ、今日は良い一日だったなと思って、噛みしめてたというか」

「良い一日だった?」

「そうよ。すごく良い一日だったわ」

「食事と散歩と、いつものスーパーで買い物をしただけなのに?」

「それがいいの!」

 えへへ、とゆかりが嬉しそうに微笑むから、満足してもらえて良かった、と和樹は思う。もしかしてこれが、今朝、スマホ越しにゆかりが言っていた「一番の贅沢」なのだろうか。

 念のために今日一日の流れを振り返ると、本当に何も特別なことはなく、日常の延長のような時間が流れていた。


 今朝、早速ゆかりの部屋を訪ねた和樹は、彼女が淹れてくれたコーヒーを飲みながらのお喋りタイムから始まった。

 続いてゆかりの希望でブランチを食べに出掛けた。以前、一緒に行ったことがあるホテルのレストランだ。二人で並んで順番を待った。

 前回は並び始めてすぐ仕事の連絡が入って中抜けしたこともあり、今回のゆかりは最初から「私が並んでおきますから、したいことや用事があるなら済ませてきていいですよ」と言ってくれたが、ここでイエスと言うほど馬鹿じゃない。

 恋人としてゆかりの隣にいる権利を得た和樹に、彼女を一人で待たせる気など最初からなかった。


 前回は喫茶いしかわのメニュー開発の参考にするための食事会で、今回はれっきとしたデート。立場も心構えも違う。

 たらふく食べたあと、ちょっと腹ごなしに少し歩きませんかというゆかりの提案を受け入れて、のんびりと当てもなく歩いた。

 途中で買ったテイクアウトのコーヒーを片手に、気付けば川沿いまで足を延ばしていた。ここも以前から、配達帰りのゆかりと何度も通ったことのある場所だ。懐かしさに思わず足が止まる。

 ちょっと座りませんか、と和樹は土手に設置してあるベンチにゆかりを誘った。横並びに座って、川面で遊ぶ水鳥を目で追ったり、綿菓子をちぎったような雲を見て思いついた新メニューのアイデアを膨らませたり、途切れることなく会話を楽しんだ。


 少し日が傾いてきたところで、喫茶いしかわの買い出しでもよく使うスーパーに向かった。これもゆかりの希望で、夕飯用の食材を調達するためだ。

 大きなエコバッグを肩に掛けた和樹と、一回り小さなエコバッグを手にしたゆかり。看板娘とただの常連客だった当時なら和樹との接触を控えるような態度を取ることもあったが、今は全然気にしていないらしい。理由を尋ねた和樹に、ゆかりは笑って答えた。

「あの頃の和樹さんと今の和樹さんは違うでしょう? だからいいの」

「ふぅん? なら、今の僕は君の何?」

「それは、その……んもう、わかってるくせに!」

「残念ながら僕はエスパーじゃないので、ちゃんと言ってもらわないとわかりません」

「……と」

「と? とって何?」

「だから、こっ、恋人、です」

「大正解です。よくできました」

 夕焼けの中、長く伸びた影が一瞬くっついて、またすぐ元の位置に戻る。

 ほんの一瞬、かすめ取る程度の接触。和樹としてはこれでも遠慮したつもりだったが、ひと息遅れて状況を把握したゆかりは、目の前で沈んでいく夕日みたいに顔を真っ赤に染め上げた。

「ちょ……和樹さんっ! ここ、外!」

「大丈夫。もう薄暗いから誰も見てないよ」

「それとこれとは、話が違うんですぅ……」

 燃えるような夕日に照らし出された和樹のカタチの良い唇がゆるく弧を描き、甘やかな視線がゆかりを包み込む。それがゆかりの鼓動を跳ねさせる。

 私が不整脈で倒れたら和樹さんのせいなんだから! とゆかりは真っ赤な顔のままで恋人に訴えた。


 そんなこんなでゆかりからのリクエストを順にクリアしていった結果、あっという間に日が暮れていた。あんなに見事だった夕日はすっかり沈んでしまって、空にはちらちらと星も瞬き始めている。

「あっという間に真っ暗になっちゃいましたね」

 夕日を惜しむゆかりの声は、ほんの少し元気がない。

 日の入りが早くなると一日が早く終わってしまうような気がして寂しい、というのがその理由だ。

 日中に活動する彼女にお似合いの発言だが、常日頃から車を運転する和樹にとっては、夜が長かろうと短かろうと関係ない。ゆかりが望むなら、二十四時間いつでも駆けつける。

 他の誰でもない、ゆかりにはそれができるのに、今まで一度も発動されていない。

 今日、朝から夕方までの行動範囲を思い返すと、レストランも、スーパーも、河原も、美しい夕日も、すべてがただの常連客だった頃の思い出をなぞるように、あるいは上書きするように感じられた。

 和樹としては後者だと思いたいが、確かめるのは躊躇われて咄嗟に別の言葉を繰り出す。


「ゆかりさん。荷物、重くないですか?」

「平気です。ていうか、和樹さんのほうが重いでしょう?」

「僕はまだまだ余裕だけど、こんなに買い込んで良かったのかな? ゆかりさん、使い切れる?」

「今日は和樹さんがいるから、張り切ってたくさん買ったの」

「え、僕のせい?」

「和樹さん、今日は私の希望をいっぱい叶えてくれたから、お礼に夕食をご馳走したいなって思ったの。どうですか?」

「夜、家にお邪魔していいの?」


 朝の健全なコーヒータイムとは異なるお誘いを受けて、和樹の中で舞い上がった心拍数は、後に続いたゆかりの返事ですぐに平静を取り戻した。

「うん。お兄ちゃんからたくさん届いたお土産の漬物もおすそ分け……というか一緒に食べてほしいし」

「ああ、そういうことか。うん、なら僕も夕食作り手伝うよ」

「ありがたいんですけど、ちょっと無理かも。うちの台所狭くて、二人で並んで立つスペースなんてないもの。和樹さん、知ってるでしょう?」

 今朝、お邪魔したばかりだから記憶に新しい。玄関先にちょこんと、簡易キッチンのような造りの台所があった。和樹の身長と体格ではコーヒーを淹れるだけでも一苦労しそうだ。二人で料理するなら、もっと広いキッチンじゃないと難しい。


 その後の会話は自然と料理の話題中心になり、ゆかりの家に着くまで二人は延々と語り合った。丁寧に言葉を返す和樹の唇は、きれいな、自然な弧を描いていた。

 今まではこんなふうに和樹がゆかりを家まで送り届けて、帰宅した和樹からおやすみのメッセージを送る。その後さらにゆかりからの返事が来て、一日を終えていた。それは以前から、車でも徒歩でも、ゆかりを家まで送ったあとにメッセージが一往復するまでがワンセット。

 でも、今日は違う。

 このままゆかりの部屋で、彼女の手料理をご馳走になるという追加がある。これはいち常連客・和樹としての記憶には残っていない。

 都合の良い解釈をするなら、これはゆかりが和樹にだけ与えてくれたチャンス。命運を分けるのは和樹次第なのではないか?

 和樹は慎重にそのタイミングを計った。



 結局、何も聞き出せないまま食後を迎え、和樹は本日二杯目となるゆかりが淹れてくれたコーヒーを口に含む。

 小さなゆかりの部屋の、小さなテーブルに向かい合って飲むコーヒーは、香りも味も喫茶いしかわのそれと変わりはないけれど。和樹が変わりたい、変えたいと思うのは二人の未来。

「ゆかりさん」

「はい、何でしょう?」

「今日は僕がゆかりさんの望みを叶える日にしたかったんだけど、最後にひとつだけ、僕の望みを叶えてくれませんか?」

「ふふっ。ひとつと言わず、ふたつでも、みっつでもどうぞ」

「夕焼けだけじゃなくて、朝焼けも一緒に見たいんだけど……どうかな?」

「えっと……それはその、つまり……」

「ゆかりさんの心の準備ができるまで、僕はいくらでも待つよ。その覚悟もある。だから、焦る必要はなくて。ただ、知っておいてほしいっていうか。僕も一応は健康な成人男性なので」

「……はい」

「その返事は、どういう意味に捉えたらいい?」

 座ったまま、じっと見つめ合うこと数秒。先に目を逸らせたのは部屋の主のほうだった。

「あのね、私……和樹さんに独り占めしてほしい、です」

「了解」


 日付を越えたその先――明け方。

 肌を寄せ合ってぐっすりと眠っていたゆかりが、和樹と一緒に朝焼けを見ることは叶わなかったけれど。腕の中に閉じ込めた宝物を独り占めすることに成功した和樹は、この幸せが永続するように願った。

 休み明け、和樹は早速それを盤石にすべく奔走したのだった。


 お付き合いを始めた時期が時期なので、ちょーっと季節が……半年ほど先(素直に正反対と言いなさい)ですが、それまで熟成発酵させるのもなぁということで、季節感ガン無視で載せちゃいました。


 ゆかりさんはゆかりさんで、やっぱり絶妙なフラグクラッシャーを発揮しかけてるところはいくつもあるけれど多少の自覚は出てきたので、これでもすごく頑張って距離を詰めているのです。


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