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徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


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163-3 恋の予感?(中編2)

 ワンピースはブルーにした。すでに試着を済ませていたがもう一度着て最終確認し、もう迷わなかった。きれいなショッパーを手にしたまま出勤し、ロッカーにしまっているだけで一日上機嫌で過ごせた。ランチタイムはいつもより少し忙しかったが、そんなものは屁でもない。

 いつも以上にくるくる動いているとお昼はマスターがおごってくれることになったので、持ってきた弁当は夕食になった。というのはマスターが蕎麦を食べたがったからだ。時折あることで、喫茶店で出前を呼ぶという行為をおかしなことだとは思っているらしいが躊躇いはなく、それをゆかりが受け取ることもあり、ついでにと一緒に頼んでくれるのだ。近所のお蕎麦屋さんの味は確かで、自分ではできない贅沢だ。今日はもしかしたら、マスターにも和樹のように懐事情を見抜かれたのかもしれないが、ここは甘えておくことにする。

 ランチライムが過ぎてからがゆかりの休憩時間だ。つるんと蕎麦をすすっていると和樹が顔を見せた。今日手伝いに来るとは聞いていなかったが、よくあることなので気にしない。


「おはようございます」

「おはようございます」

 業界用語、と言うわけではないが、昼でも夕方からでも、他に適した挨拶が思い浮かばず出勤してきたときは「おはよう」の挨拶になっている。今思えば「お疲れさま」でも良かったのかもしれないが、元々家族でやっていたので、朝から会う相手しかいなかったのだ。

 エプロンをしながらご馳走ですね、と和樹が言う。

「ふふ、マスターのおごりです。和樹さん惜しかったですねぇ。もう少し早ければ和樹さんの分もあったのに」

「ほんとに、おいしいのに残念です。よかったら今度一緒にお蕎麦屋さんにつきあってください」


 じゃあ、とあっさり店へ戻っていく和樹を見送り、蕎麦をすする。流れるようにナンパをしてくるので、何の返事もできなかった。モテる理由しかない人に彼女がいないのは、きっと何か問題があるんだと友人は言っていたがそうなのだろうか。好青年ぶっているが、実は女たらしで遊びまわっている、と言われても、正直思い浮かびはするのだ。顔がいい、と言うのは、それだけで魅力的だということで、その上和樹はミステリアスだ。

 和樹が出勤してきたのでマスターは帰ることにしたらしい。和樹が仕事の要領を得てからはまったく遠慮がなくなった。今日のように、ゆかりが休憩を終えて店に戻ると既に姿がないことも珍しくない。

「今日は麻雀ですか?」

「そのようですよ。いつもの皆さんと」

「ははあ、優雅ですねえ」

 趣味を持たないゆかりにはわからない世界だ。お金がかかるようなものならなおさらだが、もしかしたら趣味と言うのはお金がかかっても楽しさが打ち消すようなものなのかもしれない。ぽわっと今日買ったワンピースを思い出して頬が緩む。仕事で着ない服を買ったのは久しぶりだ。


「ゆかりさんご機嫌ですね」

「えへへー、昨日話してたワンピース、買っちゃったんです」

「早いですね」

「出勤前に買ってきました!」

「ほう、ではロッカーに?」

「はい! あ、持っていきますよ。どのテーブルですか?」

 和樹の手で完成したサンドイッチを受け取り、教えられたテーブルへ運んでいく。戻りがてらに他のテーブルを片づけてカウンター内へ戻ってくると、和樹は何やら考え込んでいる。


「どうかしました?」

「ゆかりさん、海鮮は好きですか?」

「はい? 好きです」

「今夜ご予定は?」

「ないですけど」

「連日飲みに行くのは嫌ですか?」

「いえ、別に……え?」

「新しいワンピース、着てお出かけしたくないですか?」

 流れるようにナンパをされている。そんな気がする。脳裏に浮かぶブルーのギンガムチェック。ゆかりの丸一日休みの日まではあと四日もある。ゆかりが和樹を見上げると、和樹は女子高生をたぶらかす笑みをゆかりに向けたのだ。


「え? これ、ただのカルパッチョですよね? めちゃくちゃおいしくないですか? なんでですか? あっ、さっきまで泳いで……ああ……おいしいです」

「フォカッチャって要はパンなんですよね? ですよね? こんなにおいしいんですか? オリーブオイルでパン食べるの初めてかも……塩気がおいしいですね」

「わーっ! おいしい! サングリアってこんなにおいしいものでしたっけ? フルーツ入ってるの嬉しい……適度にアルコールに浸かってておいしいです」

「ただのパスタなのに宝石みたいに見えます……これもさっきまで泳いで……? ああ、いただきます……オイルベースのパスタ初めて……うっおいしい」

「私今日何度和樹さんに初めてを捧げたんでしょう」

「流石にそれはわざとですよね?」

「すみません、調子に乗りました」

 こじんまりとした店のイタリアン。コンビニへ寄るぐらいの気軽さで連れて来られたお店は、絶対普段はデートで使うお店だろうとゆかりでもわかった。明るすぎない店内に、カウンターには常連らしい連れのいない客。テーブル席でも賑やかに騒ぐ客もいないが、静まり返っているわけではない。


 バックヤードで着替えたゆかりを待って、和樹はゆかりを連れてきた。自分は今日は車なので、とゆかりがアルコールを口にしてから言う和樹が憎らしい。まんまとひとりで気持ちよくさせられている。かわいいワンピースを着ておしゃれなお店でディナー、おまけに向かいにいるのはベビーフェイスのいい男。楽しくないはずがないのだ。


「はー、和樹さんはこうやって女の子をたぶらかしてるんですね」

「たぶらかされてくれないくせに」

「だって和樹さんにたぶらかされる女の子は何度もドタキャンされたことなんてないでしょう?」

「返す言葉もございません」

 ですからこれは日頃のお礼、とあっさり財布を出されてしまったのは今日も同じだ。もっとも、ゆかりは払おうにもない袖は振れないのだが、財布を出す素振りさえ許されなかった。飲み過ぎる前に和樹に制されたので頬は火照っているが足取りはいつも通りだ。駅へ向かいかけると当たり前のように送ります、と鞄をひったくられて、もうここまで来たら多少遠慮したところで大差ないので大人しくついていく。夜風が気持ちいい夜だ。


「ゆかりさん、ひとつお願いがあるんです」

「はい、なんでしょう」

「彼氏がいないのは聞きましたが、好きな人もいませんか?」

「いませんねえ。お店で出会いがあるわけでもなし」

「――では改めてお願いなんですが」

 和樹の車が見えてきた。見栄っ張りの白い車体は駐車場のライトさえスポットライトに見せる。

「時々、夜だけでいいんです。彼女の振りをしてくれませんか」

「……はい?」

「昨日や今日みたいに、食事につき合ってくれるだけでいいです。お礼は食事代を僕が持ちます。もちろん、家まで送り届けます」

 さっと助手席に回り込み、和樹はそのドアを開く。このタイミングで乗り込んでは、ゆかりが了解したかのようではないか。流石に立ち止まって和樹を見上げる。


「どういうことですか?」

「詳しくは話せませんが、仕事の下調べなどで今日のような店へ入りたいことがありますが、ひとりで入るとかえって目立つような場所に行くとき、助けてほしいんです」

「なるほど」

「と言ってもゆかりさんはただおいしいものを食べながら、僕と喫茶いしかわにいるときと変わらず話につき合ってくれるだけでいいんです。どうでしょう、損はさせません。時間は使わせてしまいますが」

 ゆかりへ喫茶いしかわで見せるのと変わらない笑みを見せておきながら、少しも断らせる気のなさを感じる。うーん、と悩んで見せると何が不安ですか?と聞いてきた。つくづく自信のある男だと思う。

「それは恋人の振りじゃないとだめなんですか? 男友達とご飯ぐらい行きますよ」

「恋人らしいことをしてくれとは言いません。ただ回数が多くなってくると恋人の方が不自然ではないし、あらかじめ恋人と言う設定を決めておいた方が不意打ちに対処しやすいと思うまでで。店によっては客と親しげに話すスタッフもいますから、そういうときにさらっと話を合わせてほしいんです」

 困った――というのは、ゆかりに断る理由が見つけられないことだ。強いて言うのなら和樹目当てに喫茶いしかわへやってくる女子高生たちの視線が気になるが、夜の遭遇率を考えるとそこまで警戒するものではない。

「――わかりました」

 ゆかりはドアが開いたままの助手席に滑り込んだ。和樹が運転席に乗り込み、ドアが閉まる。振りとはいえ、恋人と言う単語が出てきた後の密室は少し緊張した。

「助かります。ああ、彼氏ができそうとか、好きな人ができたらすぐにやめるので教えてくださいね。ゆかりさんの幸せを奪いたいわけではないので」

「大丈夫ですよ。どうせ今、彼氏と遊びに行けるような余裕もないんで」

「……すみません、もう少しシフトは入れるようにしますね」

「いえ、時間じゃなくて、お金の方です」

 ゆかりの懐事情を今更隠すまでもない。和樹ならゆかりのシフトでざっくりと収入額の予想をすることぐらいしていてもおかしくないのだ。エンジンをかけたところだった和樹はぎょっとしてゆかりを見た。珍しい顔を見つめ返す。

「……最近のカップルって、ほんとに女性もお金出すんですか」

「またおじさんみたいなこと言う……男性だって余裕のある人ばかりじゃないんですよ」

「……それなら、なおさら僕はゆかりさんを連れ回さないといけませんね。お金を落として経済を回しましょう」

「あはは」

 車が動き出す。

「女の子は運命とか白馬の王子様とかに憧れるものなんじゃないんですか?」

「憧れを持つには生活に余裕が必要です。余裕がないと羨ましくなるだけで」

「なるほど、ゆかり先生のお話は勉強になります」

「和樹さんは王子様だから無縁でしょうけどね」

 結婚願望もないわけではない。ただ、あまりにも今のゆかりにとって現実的ではなかった。白馬ならぬ白いスポーツカーはゆかりを家まで運んでいく。マンション前に横付けしてもらい、和樹が降りようとするのを制して助手席から降りた。

「ごちそうさまです、ありがとうございました」

「こちらこそ、つき合ってくれてありがとう。おやすみなさい」

「おやすみなさい」

 ゆかりがエントランスに入るまで車はそこに止まっていて、何ともくすぐったかった。


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