163-2 恋の予感?(中編1)
普段はなかなかできない、プライベートに斬り込むような会話になってきたような気がする。
「あの車は?」
「ああ……見栄、かな」
「見栄」
「これでも見栄っ張りなんだ」
「えー、和樹さんに見栄を張られたらかっこよすぎて、他の男の人困っちゃいますよ」
「……ゆかりさん、僕のことかっこいいと思ってます?」
「思ってますよ」
「ふうん……エプロンを外す仕草が何でしたっけ?」
「ひえっ」
ゆかりはすっかり忘れていたし、和樹も忘れてくれたものだと思って油断していた。聞かなかったことにしてください、と慌てて主張するが、あいにく耳にも記憶力にも自信があって、と意地悪だ。
「ゆかりさんにそんなふうに思われてるなんて知らなかったなあ」
「うああ……違うんです、弁解させてください……」
常連のOLさんたちの会話を聞いてしまっただけなのだ。緩んだエプロンの紐をさっと解いて結び直す、そんな仕草も絵になって、どきどきしちゃう、みたいな、そんな会話を。ゆかりは日常的に見ていたので気づかなかったけれど、言われてみれば普通にしていれば店員がエプロンを外すところなんてお客さんが見る機会はほとんどないのだ。スーツの男の人がネクタイを緩める瞬間みたいなことだろうかと解釈してみたら、なんとなくしっくりと理解できた。だからといって、自分が言葉のチョイスを間違えたことは十分わかっている。
「なんだ、ゆかりんさんの話じゃないんですね。年上は好みじゃないですか?」
「職場恋愛はしない主義です」
「おや、振られました」
話しているうちに料理が次々と運ばれてきた。上品な器で並ぶそれらにゆかりのテンションは上がっていく。
「えっなにこれ……こんなおいしい手羽初めて食べました」
「とけた……何のお肉かわからないうちに溶けた……」
「ひえっ……卵何個ですかこの出し巻き……えっおいしすぎないですか何これ」
「もはやお漬物までおいしい」
ゆかりの興奮ぶりを和樹はいちいち笑って見ていた。その反応を見ると和樹から見た自分は和樹を目当てに喫茶いしかわへやってくる女子高生と変わらないんだろう。
「そういえば和樹さん、最後に彼女がいたのいつですか?」
「……結構前、とだけ」
「嘘だあ」
「僕ぐらいの年になると一年が君より早いんだ」
「和樹さんときどきおじさんみたいなこと言いますよね。全然おじさんに見えないから変な感じ」
「酔ってる?」
「顔赤いですか?」
「耳まで赤いよ」
「頭はしっかりしてますよ」
「ほんとかなあ」
大人なんだなあ、と今日だけで何度思うのだろう。ゆかりのグラスが空になっているのを見てメニューを差し出してくる男は、ゆかりの知る男の人とまったく違った。兄や父を除けばゆかりが関わってきたのは同世代の男ばかりだ。和樹はゆかりより飲むペースが速い。ビールからハイボールになったが顔色も言動も変わらない。
「昔から、仕事で長期出張は多かったんだけどね」
「うん?」
「仕事上、守秘義務とかいろいろある仕事が多かったから、いつから行くとか、いつ帰るとか、家族にも言えなくて」
「うわ」
「ので、その間に自然消滅、って感じかな。いまさらだけど、ゆかりさんは彼氏はどうなんですか? こんなおじさんと飲みにきちゃいましたけど」
「和樹さんがおじさんに見えるならきてませんし、彼氏がいたら……いや……来たかな……」
「あははっ」
「そういうことを気にする男の人は嫌だなーって」
「そう? 大事にされてるってことじゃない?」
「んー、だって、私が信用している人のこと、信用してくれないんでしょ」
「それでもゆかりさんが騙されている可能性だってあるでしょう」
「しかも和樹さんですよ」
「どういう意味?」
「女として見られてないのに、警戒する必要ってあります?」
「……それに関しては、ある、って言っておこうかな。僕は違うけど」
「どっちですか?」
「男の自分から言うのもどうかと思いますが、男の体と理性は、ゆかりさんが思っているより簡単に切り離されると思ってください」
「和樹さんは違うんですよね? じゃあそれでよくないですか?」
「……そうしておきましょう。僕の名誉にかけて」
持って回った言い方に笑ってしまう。
しかし実際のところ、ゆかりじゃなくとも和樹に誘われたら大抵の女はくらりとして許してしまうんじゃないだろうか。『但しイケメンに限る』と言うスラングは、実際のところまったく見当外れではないと思うのだ。
「今日は本当は、ゆかりさんが節約中かなと思って誘いました」
突然切り出された言葉がすぐに理解できず、ぱちぱちとまばたきをして和樹を見てしまう。和樹がお弁当、冷蔵庫、と単語を並べて、はっと思い当たって恥ずかしくなった。
「悪趣味ですねぇもう……」
精一杯の嫌味にも和樹は笑顔で応じて、観察眼に優れているでしょう、なんて。
「あー、でもほんとに、冷蔵庫の出費は痛いです。そんなに古くもなかったんですけどねぇ。洗濯機とかなら少しは安いの探す余裕があったんですけど、冷蔵庫はそうも言ってられなくて」
「そうですよね、この季節は」
「狙ってたワンピースあったんだけどなー」
「ワンピースですか」
「そうなんです。夏の旅行に着て行けたらなーって思ってたんですけど」
しかしここで出費をして旅行中に節約をしなくてはならないなんてことになれば元も子もない。折角の旅先でまでケチなことはしたくなかった。
いつの間にか日本酒に映っていた和樹はふうん、と興味なさそうに酒を含んだかと思いきや、てのひらにおさまる小さな猪口を手にしたままゆかりの方へ身を乗り出す。
「僕がプレゼントしましょうか」
「えっ」
「誕生日いつですか?」
「全然誕生日じゃないです!」
「別に誕生日じゃないと誕生日プレゼントをあげちゃいけないなんてことはないでしょう? 日頃お世話になっているお礼をしたいなと思っていたんです」
「いやいやいや」
「気にしないでください。旅行って沖縄でしょう? 失礼かもしれないですけど旅行へ着ていこうと思う服がそこまで高価だと思えませんし」
「八千円ですよ!?」
「そんなものですか? 女の子の服は豊富だからやっぱり安価でいいものがあるんですね」
「いやいやいや……酔ってません?」
「酔ってるように見えます?」
「見えないですけど……」
「考えといてくださいね。もうお腹いっぱいですか? デザートはいりません? 居酒屋なのにクリームブリュレがおいしいんですけど」
「えっいります」
ゆかりが反射で応えると和樹は店員を呼ぶボタンを押す。店員はすぐにやってきて、和樹はゆかりのデザートと合わせてお茶を頼んだ。
何でもないようだが慣れているのを見ると、人とよく飲みに来るのだろうか。思えば和樹の口から友人や家族の話を聞いたことがない。昔の女の匂いをさせたことはあるけれど。これほどかっこいい人なら、もしかしたら男友達と言うのはあまりいないのかもしれない。和樹と対峙して、惨めな思いが少しもしないと言うと嘘になるだろう。ゆかりはまだ年下の女であるけれど、自分の立場と比べてしまうと少しうらやむ気持ちがないでもないのだ。
「どうかしました?」
「……ワンピースは自分で買います。頑張って節約して」
「じゃあ今度 喫茶いしかわにも着てきてくださいね。かわいかったらまかない驕りで好きなもの作ってあげますよ」
「ふふん、すっごくかわいいですよ! 見ます?」
ブランドのホームページをブックマークしてすぐに表示できるようにしているぐらいだ。ぱっと取り出して和樹にスマホを渡し、それを見ている男を見て、ふと、なぜここまで欲しくて我慢していたのか考える。ワンピース一着、貯金から少し出してきたところで問題ないはずだ。ゆかりは習い事も趣味もなく、あいにくデートに誘ってくれる人もいなければ、友人のほとんどは土日が休みの会社勤め。いわゆる交際費は日常的に嵩むものではない。
よし、買おう。明日のシフトは昼前からでいいといわれているから、出勤前に買いに行こう。
「かわいいですね。ブルーのギンガムチェック、夏らしくて」
「やっぱりブルーが一番かわいいですよね? ベージュと赤もあって、ちょっと迷うんですけど!」
「ブルーが似合うと思いますよ」
「そうします」
よし、買おう。
運ばれてきたクリームブリュレは表面の飴の硬さが絶妙で、ゆかりがスプーンを咥えたまま目を見張るのを和樹は笑った。
「私居酒屋のデザートがこんなにおいしかったことないです」
なんなら居酒屋でデザートを食べず、店を出てからファミレスになだれ込んでパフェを食べていた。季節のシャーベットも悪くないが、しっかり食べたいときによくあるデザートメニューはどこか物足りないのだ。
「喜んでもらえてよかった。お茶も、飲んでくださいね」
顔が赤いから。そう言われて思わず頬に手を当てる。実際体は火照っていた。カシスオレンジに始まり、二本目のレモンサワーでやめている。いつもより酔っていると感じているのは、安い居酒屋のほとんどジュースに近いような酒とは違ったからだろう。
「すっごくおいしかったです。本当にごちそうになってしまっていいんですか?」
「つき合わせたのは僕だから」
最後まであまりにも見事で、お手洗いへ行ったすきに会計が終わっていたので、財布を出すどころかいくらだったのかもわからない。あまりしつこくするのも失礼だろうと素直にお礼を言うに留めて、和樹にはちゃんと旅行の土産を買ってこようと決める。
「帰り、大丈夫そうですか?」
「大丈夫ですよ。見た目だけで、そんなに酔ってないんです」
「ならいいですけど」
よほど頼りなく見えるのか、和樹はゆかりの最寄り駅まで一緒にやってきた。話をしながら歩いている間は何も思わなかったが、駅まで来てから和樹が逆方向だったことを思い出したのだ。酔ってはいない。和樹が自然過ぎただけだ。
「じゃあ気をつけて。まっすぐ帰ってくださいね」
「あの、ありがとうございました。ごちそうさまです」
「おやすみなさい」
「……おやすみなさい」
――おやすみなさい、だって。
そんなふうに、男の人と別れたのは初めてだ。ゆかりが歩き出すのを待つ様子なので、手を振って和樹と別れて駅を出る。
駅からマンションまでは徒歩五分だ。けっして広いとはいえない我が家へ帰ってきたが、楽しい気持ちを引きずっているからか、いまいち現実感がない。年上とつき合った経験はなかったが、友人が年上がいいと言い張る理由がわかった気がした。それとも、和樹のやり方があまりにも鮮やかだったからだろうか。
「はあ~……」
これからお風呂へ入って弁当箱を洗わなくてはいけない。なんだか唐突な現実に、思わず笑ってしまった。




