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徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


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163-1 恋の予感?(前編)

 最近、ゆかりさんと和樹さんのおつきあい前の攻防話が多くなってますね。

 なんだか筆が乗っちゃったもので。

 やっぱりどう考えても、無理だ。手元のノートを眺めて、ゆかりは深く溜息をつく。

 ――当分まかないは諦めよう。


「え? ゆかりさん今日はお弁当なんですか?」

 店に来ていた和樹に、今日のまかないは何にするんですかと聞かれて答えた。別に隠していたわけではないが、いつもまかないを食べていると知られているのでなんとなく気まずい。ちょっと作りすぎて、と返せばそれ以上は追及されなかった。

「ひとり分の量って作りにくいですよね。僕もよくやります。買ってきた野菜を使い切りたくてやってしまうんですよね」

「そうなんですよねー、かといってカットされたものだと割高で」

「ひとり暮らしの自炊には難しいですよね。じゃあ、ごゆっくり」

「はーい」

 バックヤードに引っ込んだゆかりは、広げた弁当箱を見下ろした。ご飯と卵焼きと野菜炒め。さて、これで何日もつだろうか。


 冷蔵庫が壊れたのは先週のことだった。慌てて冷凍食品や生ものを一時喫茶いしかわで預かってもらい買い替えたが、その予期せぬ出費は財布に大打撃だった。貯金がまったくないわけではないが、夏に友達と旅行へ行く約束がある。まかないは一食三百円。リーズナブルではあるが、フルタイムとはいえ毎月贅沢できるほどの収入があるわけではない。今までは何となくやってきたが、冷蔵庫が壊れたことをきっかけに、きちんと考えたのだ。喫茶いしかわは好きな場所で、やめたいと思ったことは一度もない。嫌な客がまったくないとは言わないがそれを上回る良い客ばかりだ。


 元々はほとんどマスターとゆかりで回していた喫茶いしかわに、少し前から和樹がやってきた。来れるときだけ手伝いに来る、と言う不規則な店員だった。もうひとり店員を雇うほど繁盛している店ではないが、マスターは多趣味な人で、和樹が来てくれるとその間は店を抜けやすくなるのでそれぐらいで都合がいいようだった。


 ゆかりは和樹がスポーツカーに乗っているのを知っている。ゆかりから見れば車を所持しているというだけで十分「お金持ち」の範囲だが、客のひとりのお嬢さんがあの車の価値を教えてくれた。いいもの、というのは、見慣れていなければいいものだとわからないのだと実感したときでもあった。


 別に今の生活に不満はない。楽しくお仕事をして、友人たちと遊びに行けて、ときどきお金がなくてちょっと気持ちがすさむけど。それでも、いつまでもこのままでいるわけにはいかないんだな、と、冷蔵庫が壊れて気づいてしまった。明日は洗濯機が壊れるかもしれないし、転んで骨折するかもしれない。つまり、将来のことを、もう少し考えた方がいいと気がついた。

 実家と言う避難所があるだけまだましだと言えるのかもしれないが、ゆかりはもう一人暮らしの楽しさや自由さを知ってしまったのだ。そう贅沢はできなくても、やはり知ってしまった生活をそう簡単に捨てることができないのだ。

 ダブルワークを始めようか、ごはんをつつきながら考える。いわゆるガールズバーがギリギリ風俗ではない、という曖昧な知識は持っている。いや、それは最後の手段だ、と慌てて首を振った。しばらくの間サボっていたが、以前は一円でも安いものを求めて少し離れたスーパーへ行っていた。またそうすればいいだけの話だ。


「ゆかりさん、今夜暇ですか?」

「和樹さんがエプロンを外す仕草ってなんかえっちですね」

 ――最悪のタイミングで変なことを口走ってしまった。

 隣同士のロッカーなので並んでふたり、そのまま硬直する。聞かなかったことにしてほしくてゆかりは沈黙が続く前に口を開いた。

「すみません、今日持ち合わせがなくて」

 ゆかりの発言のタイミングも最悪だったが、和樹の誘うタイミングも悪いと思う。今までそんな誘いをしてきたことがないくせに。冷蔵庫を買い替える前なら喜んでつき合っただろう。

「気にしなくていいですよ。実はひと段落ついた案件があって、祝杯を挙げたい気分なんです。でもひとりじゃ寂しいから、つき合ってもらえませんか?」

「えー? 寂しいんですか?」

「大人の男でも寂しいときはあるんですよ。どうですか?」

「えー……ほんとにいいんですか?」

 いやらしいなと思いながらも、甘えきることができず聞いてしまう。和樹は少し困ったように笑った。

「ゆかりさんは忘れているかもしれませんが、僕もそれなりに年齢を重ねた男です。年下の女の子に財布を出させるような、甲斐性のない男ではないつもりですよ」

 ――あ、この人、大人の男なんだ。

 和樹と同じ世代の兄がいるので多少はわかっているつもりでいたが、その矜持だか見栄だかは、やはり女のゆかりにはピンとこない。なんだかそれが面白くて、ゆかりは素直にごちそうになることにしたのだ。


 それが個室の居酒屋だったのは、予想外だったけれど。

「何で個室……」

「過去の知り合いに会うと、なんとなく気まずくて」

「なるほど……」

 個室の居酒屋に行ったことがないとは言わない。大学のときの飲み会や合コンなどでは別に珍しくなかった。しかしゆかりの知る個室の居酒屋と言うのは薄い板で仕切られているだけで、それも人数きっちり座れば奥の人がトイレへ行くのに苦労するような狭い個室だ。しかし和樹に任せるままについてきたこの店は、飲み放題付コース三千円だの四千円だのという世界ではない。

「和樹さん大人なんですね……」

「知らなかった?」

 知ってた――つもりではあった。


 なんでもいいよと飲み物のメニューを向けられる。和樹はどうするのか問えば、生、と端的に答えがあって、その知っている感覚にほっとした。

「ゆかりさん飲める方ですか?」

「一杯二杯ぐらいなら。わりとすぐ顔真っ赤になっちゃうんで。え~、何かおいしそうなのいっぱいある~」

 カクテルメニューが豊富だった。迷った上に結局冒険ができずカシスオレンジに決める。

「女の子って甘いお酒でご飯食べられるから不思議だな」

「でもカフェオレとナポリタン頼むおじさんもいますし」

「……いますね」

 くくっと笑った和樹が思い浮かべた顔が誰か、ゆかりにもわかる。和樹はすぐに常連の顔を覚えた。接客業にも向いているんだな、と思った記憶がある。


「いまさらなんですけど、和樹さんは彼女いないんですか? 私なんかとふたりでごはん食べに来て怒られません?」

「いないよ。いたらその子を誘ってる」

「そりゃそうだ」

 ドリンクメニューと同様、食事のメニューも和樹はゆかりへ向けた。何でも食べたいものを。

「和樹さんは?」

「一緒に摘まむよ」

「えー、私こういうのすごく迷っちゃう」

 いい店だからなのかメニューの写真まできれいだ。つい値段を見てしまうが、決して高すぎるわけではない。それでもおごりだと思うと少し躊躇うが、見透かされたように値段は気にしなくていいからと言われてしまう。


「ゆかりさんが決められないなら適当に頼みますけど」

「そうしてください」

「了解」

 飲み物が届いたタイミングで和樹は店員を捕まえて、そのままいくつか注文する。静かに店員が扉を閉めて去ってから、和樹はさてとジョッキを手にした。ゆかりの手にはカシスオレンジ。

「お疲れさまです」

「お疲れさまです! いただきます!」

 思ったよりも遠慮なくグラスをぶつけられた。怯んだゆかりを笑いながらビールに口をつける男が、少し知らない人に見える。ゆかりだって接客業を何年もしてない、職場で見せる顔が百パーセント本人ではない。それでも和樹はゆかりよりもずっと精巧な仮面をつけているのだろうと思う。仕事の休憩中らしい客が、鳴った携帯に応じたときに顔が変わるように、みんなどこか使い分けている。その使い分けが、和樹はもっと細かいように思うのだ。


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