162 長生きのおまじない
「おかあさん、いってきます!」
「いってくるね、おかあさん」
「はい、進くんも真弓ちゃんもいってらっしゃい。通学中は気を付けてね。学校は楽しんで」
にこやかにそう言うと、ゆかりは少しかがんで、寄ってきてぎゅうっとハグをするふたりの頬にちゅっとキスをする。
「えへへ。おかあさんにも、んーっ」
今度はふたりから両頬にぶちゅっとキスが降ってくる。
「ふふっ。ありがとう」
そこへ和樹がやってくる。ゆかりはスッと背を伸ばしてにこりと微笑みかけ、靴を履く和樹のために場所をあける。
「うふふん。今日もカッコいいですよ、和樹さん」
「そう? ゆかりさんにそう思ってもらえるのは嬉しいな」
くるりとゆかりのほうを向き、腕を回して腰を引き寄せる。ゆかりも素直に従う。
「あら、ネクタイ曲がってますよ」
そっと手を伸ばして整えるゆかりに、にんまりする和樹。
「さすがは僕の奥さんですね」
囁くようにそう言うと、ゆかりの唇にチュッと音を立てて三回キスをして、おでこをコツリとつける和樹。
「このままくっついていたいな」
「お仕事は?」
「うーん、行かなきゃいけないんだけどね……ゆかりさんを置いて行きたくない」
くすくすと笑うゆかり。
「もう、しかたのないひとですねぇ」
「……おとうさん、僕たちもう出るよ?」
「おいてっちゃうよ? ちこくするのやだもんね」
そう言ってノブに手をかける子供たちを見て、はっとする和樹。
「うん、ごめん。今行くよ。それじゃゆかりさん」
「はい」
おでこにひとつ、そっとキスをして、じっとゆかりを見つめる。
「いってらっしゃい、和樹さん」
「いってきます、ゆかりさん」
そっと、和樹だけに聞こえるように囁く。
「今日は和樹さんの好きなもの作って待ってますから、早く帰ってきてくださいね」
和樹は軽く目を開くと、ゆっくりと目を細めてそこに愛おしさを乗せる。
「はい。一緒にごはん食べたいので、がんばります」
「おとうさん、はやくー!」
とっくに外に出て、ドアを開けたままじれじれとしている子供たちにせかされ、ようやく和樹はゆかりから離れる。
扉が閉まるまでぶんぶん手を振ってくる子供たちと、今朝のゆかりを目に焼き付けるようにじっと見つめる和樹に、「いってらっしゃーい」と、にこにこしながらひらひらと手を振るゆかり。
いってらっしゃいのキスは、すっかり当然の、石川家定番の挨拶になっている。
ゆかりは、これを習慣にし始めたときのことを思い出していた。
◇ ◇ ◇
スーツケースにビジネス用の鞄を乗せた和樹がくるりと振り返る。
「それじゃ行ってきますね、ゆかりさん。三日後には帰宅しますから、出張のお土産期待してて」
「は、はい。和樹さん、あの……」
「なんですか?」
言いづらいことがありそうに視線を下げたゆかりに、何か困ったことや相談でもあっただろうかと、ことさら甘やかに聞いてみる。
と、いきなりくいっとネクタイを引っ張り、和樹の頬にチュッとリップ音をさせたゆかり。
こちらからお願いせずにゆかりからキスしてくれたのは初めてではなかろうか。そう思うとつい反射的に腰を引き寄せようとしてしまったが、ゆかりはその前にパッと和樹から離れてしまった。この手はどこに持っていけばいいんだと和樹は心の中でひとりごちる。
「あの、ですね。この前テレビで、いってらっしゃいのチュウをすると、しない人より元気に長生きできるって言ってたんです。だから、和樹さんにも元気で長生きをしてもらうためにしました」
視線をそらしつつ、真っ赤になって説明したゆかりの可愛らしさとその理由に、にんまりと頬が緩む。
「ゆかりさん、とても嬉しいです。でもそれ、ちょっとだけ間違ってます」
「えっ!」
くいっと引き寄せると、そのまま唇を奪う。
そのまましばらくゆかりの唇の甘さに酔いしれ、最後にわざと大きなリップ音をさせてゆかりの唇を解放する。おでこと鼻先を合わせ、じっと見つめる。
「かずきさん、なにするんですかぁ」
ぽーっとしてたゆかりが、わずかに唇を尖らせてむっとしてみせる。和樹はにこりとして言い切る。
「ここで言う『いってらっしゃいのキス』はね、唾液の交換が重要なので、唇同士のキスをするのが大事なんですよ」
静かにそう伝えると、ゆかりは目を見開いて固まってしまった。
「ふふ、これからも『いってらっしゃいのキス』期待してますからね。僕が家にいるときは、毎日お願いします」
ニヤリとしてゆかりの鼻先にチュッとキスをひとつ落として自宅を出た。
扉が閉まると「ええぇぇっ!」というゆかりの叫び声が聞こえた。
◇ ◇ ◇
「ああ、そうでしたね。懐かしいな」
「それでね、ついでに『ファーストキスはレモンの味』って話も思い出したので、今度の休みにレモンパイかレモンゼリーを作ろうと思ってるの」
「それは楽しみだな。僕もご相伴に与りたいし、なんなら一緒に作りたい」
「そうですね。せっかくだし、久しぶりに和樹さんとの共同作業にしたいなぁ」
「何をおいてもご一緒します!」
表情をきりっとさせてキッパリ言う和樹に、ゆかりは吹き出してしまう。
「んふふふっ。期待しないで待ってまーす」
「そういえば、ゆかりさんのファーストキスは何味だったんですか?」
「え? それ聞きます?」
「むしろ聞かない理由ないですよね?」
心底不思議そうな和樹に、小さくふうっと息を吐いて告げる。
「私のファーストキスは、喫茶いしかわのコーヒー味ですよ。正確にはコーヒーを飲む前だったので、香りだけですけど」
「え? ……あ。それって」
「そうですよ。私のファーストキスの相手は和樹さんです。私、和樹さんみたいにモテませんでしたから、あれが初めてだったんです!」
ぷっと唇を尖らせて、拗ねて答えるゆかりがあまりにも可愛らしくて。
「はぁ……ゆかりさんのファーストキスの相手が僕だと断言されて、嬉しすぎておかしくなりそうだ。ゆかりさん、今すぐキスしたい……」
和樹はゆかりに近づき、ぶちゅっと唇を押し当てる。
「……硬い」
「もう、スマホの画面なんだから当たり前じゃないですか」
少し呆れたようなゆかりに言われた。
そう、これはたった三日でゆかり成分不足に耐え切れなくなり、出張先のホテルの部屋からテレビ電話をした和樹のプライベート用スマホだ。
「明日の夜には出張終わりなんでしょう? 和樹さんの大好物をたくさん作って待ってますから、リクエストがあれば今日中にメッセージくださいね。それじゃ、いってらっしゃい。チュッ」
画面ごしに投げキスを贈ってくるお茶目な愛妻に笑み崩れた和樹。
投げキスから早々にプツリと切られてしまったテレビ電話の画面が真っ黒になってもそのまま固まっていた和樹は、時間になっても部屋から出てこないことに気付いた長田が部屋のドアを何度も大きくノックするまで同じ姿勢と表情を続けていた。
キスで長生きというこの説が最初に有名になったのは2017年で、実はわりと最近です。
ゆかりさんはどう考えてもホヤホヤな頃に「テレビで言ってました!」と言ってましたが、そこはご都合時間軸バンザイってことでひとつよろしくです。
あ、子供たちのいってきますがほっぺちゅーなのは、お父さんのヤキモチ回避です。




